いつの間にかいつもいる。

大柄な体に、優しそうな顔。
熟した小麦畑が太陽に照らされている。そんな、明るい黄色の毛並み。
いつも機嫌よく楽しそうにしているが、その笑い声を誰も聞いたことがない。名前も知らない。ふと見回すといつの間にかいなくなっている。
だれも気にしない。そこにいたことさえ忘れている。
彼をじっと見つめるギルバートに気付くと、その猫はにっこりと微笑んだ。


「ここはいいところだね」

小麦色の毛並みと同じように明るく微笑みながら、大きな黄色い猫が赤い三毛猫に話しかける。

「ありがとう」

縞の白黒リーダー猫、マンカストラップが、ギルバートに代わって礼を言う。
べつにマンカスが褒められたわけではないのにな、と黒の勝った三毛猫ギルバートは考える。手持ち無沙汰に持っていた紐を咬んだ。

「ねえ、美味しいの?」
「…そんなわけないだろ」

小麦畑色をした猫に聞かれて、ギルバートはお気に入りのおもちゃをぽいっと投げ捨てた。地面に落ちた古びた紐を見ないよう、顎を肩につけるように顔を反らしていたら、くすくすと黄色い猫が笑ったのが聞こえた。

「なんだよ」
「ううん。なんでもない」

相変わらず笑ったままで、その猫は答えた。マンカスが困ったような顔をしていたが、ギルバートは思った。

こいつ、嫌なやつだ。

「遠くから来たのか?
よかったら、よその町の話を聞かせてくれないか」
マンカスがとりなすようによそ者猫に言った。
よそ者猫はため息をつくと、申し訳なさそうに首を振った。

「僕はあんまり外にでたことがなかったんだ。
ずっと人間に飼われていてね。
ところが、車でこの町の近くまで連れてこられて、初めて屋根のないところに来たなと思ったら、車は俺を置いて走り去ってしまったんだ。
そんなわけで、話せるようなことは何もない」

その話がほんとうなら、ここがいい町かどうかなんて、この猫にどうして分かるんだろう。やっぱり、嫌な奴だな、こいつ。
ギルバートはそう思ったが、マンカスは違う考えを抱いたようだ。

「そうか。急に一匹にされては大変だろう。
腹がへったら教会にくるといい。いろいろ親切にしてもらえるから」

マンカスの気遣うような様子に、相変わらずにこにこと黄色い元飼われ猫が答えた。

「ああ、…貴方もそこに住んでいるの?」
「マンカストラップだ。いや、俺は違う住家を持っている。
 けれど、長老がいる。なんでも頼るといい」
「長老…。偉い猫なんだろうな」
「いや、気さくな方だ」

ぷっとギルバートは吹き出した。あのじいちゃんは、気さくどころの話ではないだろう。びっくりしたように、黄色い猫がギルバートの瞳を覗き込む。

「…なんだよ」

琥珀色の瞳にじっと見つめられて、ギルバートは居心地が悪かった。

「僕がなにか可笑しなことを言った?」
「別に」
「面白いことを言った覚えはないし、だったら変なことを言ってしまったんだろう?笑うなんて、酷いな」

酷いな、と責めるわりには、その猫は微笑を崩さなかった。
仲良くしようよ、と露骨に誘いかける。ギルバートは背筋の毛を逆立てた。

笑顔で、俺が悪いと言う。
怒っているのだったら、怒っている顔をすればいいし、笑うのは楽しいときだけでいい。
やっぱり、こいつは嫌いだ。

ギルバートはぴょんと塀から飛び降りる。

「ギル! 話し中だろう。挨拶もなしにどこに行くんだ!」
「っ!」

マンカスが大声で呼びかける。
ギルバートは振り向いて、大きく頭を下げた。
そして走り去る。

「すまない、何時もはあんなに子供っぽい真似はしないんだが」
「ギル、っていうのか、彼は」
「いや、ギルバートだ」
「貴方の、弟?」

マンカスは目を見開いた。

「そんな事を言われたのは初めてだ。似てるか?」
「何かへんなことを言った?まいったな、あの彼にも笑われてしまったし」
「いや、…」
「彼が、とても貴方に、その、心を開いている感じがしたものだから。一緒に暮らしている家族なのかなと」
「いや、ギルは前の秋に生まれたから、まだ小さいけど、もう立派にひとり立ちして、一匹で暮らしている。でも、もっと小さいときは教会で冬を越した。
 何も遠慮しなくていい。猫どうしなんだから、血のつながりは関係なく助け合うべきだろう」

「彼の母親は?」
「ギルの母親は立派な猫だったから、選ばれたんだよ」
「選ばれる?」
「ああ。ジェリクルムーンに」

「どういうこと? 死んでしまったのか?」
「いや、まったくそうじゃない。なんというか、…君は自分が何であるか知らないのか?」
「なんだかまわりくどい言い方だな」
「いや、すまない。悪かった」

マンカスは心底困っていた。どういって説明したらいいのか。
自分がジェリクルだとういう自覚のない猫に会ったのは、マンカスは初めてだ。

一度も外に出たことの無い、したがって集会に出たこともない猫の中には、こういう変り種もいるのだろうか。
ジェリクルが何かを説明するのは難しい。呼吸する方法や、心臓が鼓動を刻む、その方法を教えるようなものだ。これは困難な仕事だった。どういって説明しようか。
ジェリクルと月に選ばれるただ一匹のことを。

「あと六度の満月のあと、七度目の満月の晩に、ただ一匹が選ばれる。そのとき、ここにいればいい。それで分かるだろう」
「ここに住んでいいの?」
「ああ、歓迎する。ええと…」
「ありがとう。よろしく、マンカストラップ」
「ああ」

「いつか、教会にも寄らせてもらうよ」
「今は、大丈夫なのか?」
「ああ、この町に着いてから結構たつからね。
 慣れないながらも、自分の寝床くらいはなんとか調達したよ。
 でも、貴方たちのテリトリーを侵していないか心配だったんだ」
「そうか」

そういえば、この猫を見かけるようになったのはだいぶ前からのような気がする。マンカストラップはそこまで思いだして、奇妙なことに気付いた。

そう、何度も顔をみかけている。
それなのに、リーダーのマンカストラップですらこの猫がどうしてそこにいるのか、気にかけていなかった。自然に群に溶け込んでいたと言えば聞こえはいい。けれど、彼は今日までマンカストラップの名前すら知らなかったという。他の誰かと喋っているのを、見たこともない。あんなに楽しそうにそこにいたのに。

初めて外に出た猫なのだ。

こちらの物差しにあてはめて考えては、かわいそうだろう。
きっと、排斥されはしないかとおずおず距離を測っていたのだ。
そして今日、初めて勇気をもって語りかけたのだ、ギルに。
飼われ猫、いや、元飼われ猫か。彼が初めて話しかける相手として、無愛想なギルを選んだのは意外だが、きっとギルと友達になりたいのだろう。ギルはまっすぐなヤツだ。表面の当たりのよさだけで選ばず、ギルのそういった美質を見抜き、そこに惹かれたのだとすれば、何もおかしなところはない。
マンカスはリーダーとして、言った。

「ギルは町の西側外れにある、公園をねぐらにしてる。
教会に来づらいなら、ギルをたずねていけばいい」
「知ってる。この前の、お祭り騒ぎのとき、噴水近くのつつじの下に帰っていくのを見たから」

その猫はふわりと地面に降り立ち、埃に塗れた白い紐を拾った。なんの変哲もない木綿の太い紐だ。ところどころほつれて、糸が飛び出している。
ギルバートのにおいが染み付いたものを、元飼われ猫は束ねて握りこんだ。

「これも返してあげなきゃね。この前、これで友達と遊んでるのを見たよ。今日もそうするつもりだったんだろうに、僕が邪魔をしてしまったみたいだから」
「気を悪くしないでくれ。
 あいつは生真面目な分、とっつきにくいが、それでも悪いやつじゃない」
「うん、頼るのは申し訳ないけど、遊びにいってみるよ」

元飼われ猫はちっとも気を悪くしていないようだ。
マンカスは、この新しい仲間が群になじむのに時間はかからないだろうと予想した。





1. 初めて口をきく