暖かい土と、雨露をわずかなりとも凌げる場所。

それさえあれば何もいらない。
飼われた経験がないので知らないが、タオルというのは、ニンゲンの家のなかにあるときはやわらかくてふかふかして、時にはそれ自体が暖かいときもあるらしい。
ギルバートが知っているタオルや毛布は、晒されたようにぺしゃんこで湿っていて、自分の体温を移さなくてはとても冷たい。太陽の染みた土のほうが、よほど温かい。

ないよりはましだ。

ギルバートも寝床に薄汚れた布を一枚もっていた。
それを掻き寄せて上に乗る。
昼間の疲労が、瞼にとろとろと重かった。
嗅ぎなれた自分の匂いに包まれながら、眠りの浮遊感に身を任せようとしたとき、ギルバートの体中の毛が逆立った。

「誰だ!!」
「ごめん、眠るところだった?」

ギルバートの身体の上に、大きな黒い影が覆いかぶさっていた。
信じられなかった。こんなに近くにくるまで、気付かなかったなんて。

「これを返したくて」
麦のように黄色い毛並みの大きな手が、古びた紐を差し出している。
全身の毛を逆立てて威嚇するギルバートにお構いなく、にこにこと黄色い猫がその手を取って紐を握らせた。白い爪がひらめく。

「いたっ」
だらしなく広がった紐が地面に落ちる。

手首のかすり傷を庇いながら、侵入者は言った。
「酷い。血がでてる!どうしてこんなことするの?」

「俺のテリトリーだ!!どうしてお前がいる?!」
「だって、落し物を届けにきただけだよ。よろこんでくれると思ったのに、どうして?僕何にも悪いことしてないでしょう?」
「ふざけんな!!」

猫にとって一番のタブーは、押し付けがましく触れること。無遠慮に近づくこと。猫への尊重は、二匹の間に涼しく風が吹き渡る距離でこそ、保たれる。

住居無断侵入など、万死に値した。

それをこの猫は、今日初めて言葉を交わしたばかりのギルバートの、鼻にキスしかねない距離で聞いてくる。「何が悪いの」、と。

「怒らないで。どうしたらいいのかわかんないよ。僕、君と仲良くしたいんだ」
「出ていけ!!」
「どうして?」
「出ていけ!!」
「ねえ、話を…」
「出ていけ!!!!」
「話をさせてよ!」
「!!!!出ていけ!!!!」
「……」
「…出ていけ…っ」
「やだ」

すねるように、ぼそっと呟かれた言葉に、ギルバートの目の前がかっと赤くなった。
リーダー猫のマンカストラップが頭のなかで言う。
ずっと人間に飼われていた猫なんだ。ルールを知らないんだから、誰かが教えてやらなければ。そうしないと、ずっとわからないままだろう?

知るか。

頭を黄色い侵入者の鼻づらにぶつけようとしたが、アクションが大きすぎて避けられてしまった。足りない喋り方といい、ふにゃふにゃしたやつだと侵入者を侮っていたギルバートは、それで少し驚いた。

目の前に空間が開いたので、そこから飛び出そうと身体を起こすと、大きな二本の腕が伸びてきて、ギルバートの肩を古びたタオルに押し付けた。
「なっ…、離せ、ばか力!」
「いやだよ」
侵入者はにこにこ笑いながらギルの身体に鼻を押し付けた。

「ねえ、僕一日中歩き回ってつかれてしまった。
君のテリトリーに入ってしまったのは本当に済まないと思ってる。でも、どこへ行っても追い出されて、ここ最近ゆっくり眠ることもできなかったんだ。 君なら優しそうだから、ねぐらの隅でいいから置いてくれると思って来たのに、どうしてそんなに意地悪をするの」
ギルバートは今度こそ血管が千切れるかと思うほど激昂した。

優しそう、だと?
他の猫は立派によそ者からテリトリーを守ったというのに、俺にはできないだろうと踏んで、やってきたのか。
馬鹿にすんな!

「離せ!兄弟でもないかぎり、同じテリトリーに住めるわけがない!」
「そうなの?僕、そういうこと何にも知らないんだ。君に教えて欲しいんだ」
「俺の話を聞いていなかったのか?俺はお前の兄弟じゃない!」
「でも、でも、例外もあるでしょう。
だって僕はこのままだったらほんと、しんじゃうよ。すごく困ってるんだ。
助けて?」
「ばっ、かやろう…!!」

名前も知らぬその猫は、ギルバートにすがるように腕を回す。逃がすまいと、ぴったりと体をすり合わせる。どうしてもギルバートは、その囲いのなかから逃れることができなかった。大きな体を跳ね除けることができない。
悔しいけれど、心外だけど、
諦めるしかない。

「わかった…。手をはなせ」
「本当?」

ギルバートの胸に頬を押し付けていたその猫は、上目遣いに赤い三毛猫を見上げた。いくつなのか知らないが、先の秋生まれのギルバートより、よっぽど子供っぽいしぐさだった。
しかし、その力は大きな体躯にふさわしく強い。ギルバートが全力で抗っても適わないほど。

「嘘じゃない? 離したらやっぱり出て行け、って僕を殴ったりしない?」
「俺を侮辱すんのか!!ジェリクルは汚いうそなんてつかない。お前みたいな家のなかから出たこともないヤツとはちがう」
「本当に、僕がここにいていいって、約束する?」
「ああ。安心しろ」

ギルバートをじっと見つめてから、大きな猫はそろそろと後ろへ下がった。きつく巻きついていた腕が解かれてから、ギルバートは血が塞き止められるほど拘束されていたのを知る。腕が痺れていた。
血が下がる、不愉快なチクチクした痛みと、指一本動かしたくないほどの重さ。それでも、一瞬でもこの侵入者と一緒にいたくはなかった。

ギルバートは颯爽と立ち上がると、何も持たずにツツジを潜ろうとした。

「ちょっと!どこに行くの?」

痺れている腕を侵入者が掴む。
痛みを顔に出さずにギルバートは言った。

「お前はここにいていい」
「そんなの聞いてない!君はどこにいくのかって聞いてるんだ」
「お前は俺に勝った。だからここをお前のテリトリーにしていい。負けた雄が出て行くのは当たり前のことだ」

侵入者、いや、もうここの主だ。
そいつをにらみつけてギルバートは言った。

捕まれた腕の痛みは最後まで相手に知られたくなかった。

「ぷっ…あっははははっはは!」

笑い声は、公園中に響き渡るのではないかと思われた。突然身体を折り曲げて爆笑する黄色い猫を、ギルバートはできることなら殴りたかった。
約束がなければそうしていただろう。

「ははっ、君ね、ギルバート?
ちょっと融通きかなすぎ。
この程度のことで、せっかく作ったねどこを捨ててたら、長生きできないよ」
「つい最近まで飼われだったやつが何を言う」
「そうだけど、でも僕にだって分かる。ここは、君みたいな小さい猫が持つには分不相応なくらい良いナワバリだよ。近くに水場はある、植物が多いから獲物にも事欠かない。
あっさり捨てるには惜しすぎない?」
「やっぱり飼われだな。
おんなじ場所に雄二匹いたら、結局は喧嘩になる。体力と血の無駄だ」
「僕たちはそうならないよ。だって僕、君のこと好きだもの」
「何いってんだ」
「さっき言ってたじゃない。兄弟猫なら一緒に暮らすこともあるんでしょう。逆に、好きな猫どうしは一緒に暮らせるって言ういい証拠じゃないか」
「もういい」

ギルバートは頭痛を抱えながらツツジのねぐらを出て行こうとしたが、ねぐらの主は許さなかった。
もう一度ギルバートの身体に抱きつく。

「負けたら僕の言うこと聞くんでしょう。じゃあ、もう一回勝負ね。
僕のこと振り払えたら、出て行ってもいいよ」
「調子にのんなよ」
「お願い。先住者の君を追い出して寝床を乗っ取ったなんて知れたら、きっと誰も僕を仲間にいれてくれないよ。こんな小さい子からナワバリを奪うなんて、って。僕を助けて?」

「いいかげんにしろ!!」
ギルバートは叫んだ。

「黙って聞いてればいいたい放題いいやがって!
一回まぐれ勝ちしたからって調子に乗るのもいい加減にしろ。
ナワバリ取り返す勝負は、明日にしといてやろうと思ってたけどやめた!
今からお前追い出す!!」

地面に押し付けられ、大きな身体に押しつぶされたさっきとは違う。今やギルバートは自由に身動きできる。動かないのは腕だけだ。足を使って侵入者の膝を割り、後ろから抱きつかれた体勢を利用して背負い投げる。身長差がありすぎて成功するか不安だったが、黄色い腕はあっさりと外れた。

「うわっ」
ぶざまな悲鳴を上げて地に手を付く侵入者をけり倒す。

「フギャッ」
地面に伸びた背中に馬乗りになって、ぽかぽか叩く。

「イタッ、いたい!!いたい!やめて!」
頭を抱えて、涙を流して痛がる大きな黄色い猫に、ギルバートの手が止まった。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめっ」

泣きながら謝られて、ギルバートはとても気まずかった。
こんな大きな猫を泣かせたのはもちろん、生まれて初めてだった。

「でてく!! でてく、からぁ…ごめ…っな…い…」
ふええええ、と情けない泣き声をあげて、うずくまって丸めた背中を震わせている大きな猫に、本格的に罪悪感が芽生えはじめる。

猫とのつきあいかたさえ知らない猫なんだ。
大きいのは身体だけで、知識は子猫にだって適わないかもしれない。
『ちょっと』無礼なことをいわれたからって、ここまですることはなかった…かもしれない。

頭のなかのマンカスが眉をひそめてる。
「親切にしてあげなさい」と。

泣きながら立ち上がった黄色い毛並みには、涙で溶かされた泥がこびり付いていた。しゃくりあげながら大きな猫が、枝をがさがさいわせてツツジの門を開こうとする。
「どこに行く?」
「……」
ギルバートに聞かれた大きい黄色い猫は、恨めしそうに振り返った。
「わかんない…」
「ここにいてもいいぞ」
途端に涙に汚れた顔が輝く。

「一回はお前が勝ったんだ。今日一日くらいは泊まって行ってもかまわない」
「ほんと?!やったぁ!」
「いちんちだけだぞ…」

泣いていた気まずさもなく、顔を輝かせて大きな身体がギルバートに抱きつく。

「おい、もう泣くなよ」
「だって、すごく痛かったんだ。ほらみて。手首からだって血が出てる」
「悪かった…お前、何にも知らないんだな」

本当は抱きつくのだって重大なマナー違反だ。立派な猫ならば。
言ってもしょうがない。今日一日は図体のでかい弟猫ができたと思って、目をつぶるしかない。子供のころのようにぎゅうぎゅうに身体を寄せあって寝床に入った。

「ギルバートはどうしてここに住んでるの」
「お前もいっただろ。水場は近いし食いものは美味いし。いいところだ、ここは」
「うん、僕も大好き。花もいっぱい咲いてるし、いっぺんで好きになったよ。ずっとここにいられればいいのに、って思っちゃったんだ。ごめんね。ギルバートが嫌なら他を探すよ」
「もう寝ろ。ろくに寝てないって言ってただろ」
「うん。本当に久しぶりだ。誰かに追い出されるんじゃないか、って心配せずに眠れるのなんか。ありがとう。おやすみ」

ギルバートはその言葉を最後まで聞いていなかった。
久しぶりの暖かな寝床。誰かの熱い体温。それは十分ギルバートの睡眠を促すものだった。

「寝ちゃったの?」
遠慮がちな声がギルバートの、瞼を閉じた顔に投げかけられる。
答えるのは寝息ばかりだ。

黄色い猫は、振り返って先ほど自分が蹲っていた場所を見た。
タオルが敷かれているわけでもない、むき出しの地面。
枕元には無造作に石が転がっている。
腕を伸ばしてそれを取った。ずっしりと重さが腕に伝わる。

「近くにこんないいものが落ちているのに、なんで使わなかったんだ?」
ギルバートの眠りをさえぎらないように、声が低くして呟く。別人の声のようだった。

「素手で殴るよりよっぽど…いや、やっぱり僕には、ジェリクル猫というものがよくわからないんだろうな」
ぽいと石を放り出し、大きな猫は三毛猫に身体を摺り寄せた。暫く黄色い猫の喉を鳴らす音が聞こえていたが、やがて消え、二匹分の寝息が小さな空間を満たした。






2. 入り込む