癒えない傷もある。
癒える傷もある。
薄い体にぶつかられて、アクションは足をとめた。曲がり角から飛び出してきた彼女は、弾き飛ばされて頭から地面に倒れた。
「おい、エニイ・ボディズ」
栄養不良がひと目でわかる小柄な体から、うめき声が上がる。いくら男の格好をしていても、声を聞けば少女であることは疑いようがない。起き上がった少女は、硬い表情で口を開いた。
「アクションか。なんだよ」
「ドックの店に顔を出さないな。どうした」
団員として認める前には、いくら追い払っても彼女はあの小さな店にやってきた。そして、他の連中に小突かれながらもジュークボックスの陰に逃げ込み、意固地に膝を抱えていた。
働きを認めてジェット団に入れてやった途端に、彼女は溜まり場へよりつかなくなった。トニーが死んだ日から、一度も彼女はアクションの前に顔を見せなかった。
「……関係ないだろう」
「お前はもう団員なんだ。だらしねえことしてると…」
「俺はジェット団なんかには入らない」
「なんだと?」
アクションは目を剥いて一瞬間を空けた。
そうすると、大抵のやつは彼を怖がる。教師であれ、同い年の少年たちであれ。
彼女も、ぐっと息をつまらせて瞳を縮こまらせた。
「お前らとつるむくらいなら、だっせえスカートでも穿いてちゃらちゃらしてたほうがまだマシだって気付いたんだよ!」
恐れを振り払うように彼女は叫ぶと、アクションの出した手を無視して一人で立ち上がり、ズボンを土で真っ黒にしたまま走りだした。
「なんだってんだよ」
――世の中ってのは俺にとっちゃ、もともとそういうもんだ。
世の中のすべての女は売女だ。あの小さいエニィも、その仲間だっただけのことだ。
けれど、手を組み横たわったトニーの前で、彼女が泣きじゃくりながらつぶやいた言葉は、今でもアクションの胸に小さな棘となって突き刺さる。
「どうしてリフが俺を絶対に団員にしなかったのか、ようくわかった」
それ以来、彼女はドックの店にきっぱりと顔をださなくなった。
昨日、あのスペイン女とすれ違った。
さあ、どうする?
意地悪い気持で道の真ん中を歩いた。ここは自由の国で、そして公道だ。誰をはばかることがあるだろう。避けてやる気は、はなからなかった。
白い肌を持っていない連中は、同胞に囲まれていなければこの国では生きていけない。だから、どんなことがあろうとあの女もここから逃げ出すことはできない。何十年後も、せまいスラムに暮らすお隣同士として、顔を突き合せなければならない。
あの黒い顔をした女は、こそこそと逃げ出したりはしなかった。
冷然とこちらを見下ろし、ケープを羽織りなおすこともなく、女王のように静かに堂々と彼らの傍を通り抜けた。
顔を逸らしたのは、一緒にいた仲間たちのほうだった。
――全部の女は娼婦で愚かだ。
そう言うと、決まってスノーボーイは顔をしかめて黙り込んだ後、同情したように俺の足を蹴るが、世の中ってのは俺にとってそういうもんだ。そうでなきゃ、俺の家にいるアレはなんだっていうんだ。
世の中全部がそうだとでも思わなけりゃ……
顔が火を噴きそうに熱かった。あのアニタとかいう女とまた偶然顔を合わせる時を思うと、道端に唾を吐きたい気持になる。石を呑んだように気が重かった。
喉元まで荒い呼吸がせり上げる。
胸が苦しい。
一歩踏み出すたび、脛の辺りがだるく痺れてくる。転んでしまったせいか、右足が土を踏むたびずきりと痛みが走った。けれど、走らなかったら間に合わないかもしれない。
エニィは懸命に走った。今、走らなくては、ロザリアにはもう二度と会えないかもしれない。
「あ」
「…あ」
スラムの狭い町並みで、彼女と出会ったのはまったくの偶然だった。お互い、顔と名前は知っていた。ダンスパーティーで、彼女は大抵、壁際に一人で立って、にこにこしている。なんで来るんだろう。こんなとこつまんねえよ。そう、いつも不思議に思っていた。
仲の悪い隣人同士がひしめきあって暮らす場所では、知らないふりをして通り過ぎるのが礼儀だった。
彼女の手には、抱えきれないほどの大きな箱が三つも乗せられていて、両腕にも紙袋をぶらさげている。二の腕の内側が、袋の取っ手に擦れて赤い。よろよろ歩く彼女の、小さくて短い手に余るほどの荷物は、(…他人のこと言えないけど)彼女が小柄なせいもあって、いかにも重そうだった。
「この先にあるのは、俺たちの家だけだぜ」
「…わたし、配達の途中で」
「道を間違えたんだな。あっちへ行けば大通りに出られる。へんなところにまで入り込むんじゃねえよ」
あんたらを敵視してる人間は、ここにはいくらでもいるんだから。
「わかってるわ! ご親切に、どうも!」
犬みたいに、追い払われたと感じたのだろう。彼女は、汗に滑って鼻頭をずりおちためがねを、直しもせずに憤然と背中を向けた。勢い良く振り返ったせいで、赤いフレームがますます眼から遠くなる。耳にかろうじてつるがひっかかっているという状態だった。
大通りに続く道から、Jのイニシャルの青いジャンパーが二人、背の高い姿を現したのは、彼女が振り返ったその時だった。
「……」
小さな背中がびくりと竦む。彼女の手には大荷物があって、裏通りのもともと狭い道を、ひとりで占領している。あっちが背中を壁につけて避けてくれなくては、彼女はそこを通ることもできないだろう。かといって、彼女の背後には彼女を憎む貧しい白人たちの住む町が広がっている。
とまどう彼女の黒い肌を見ていると、ふと、あの日アニタの纏っていた黒蘭の香りが、鼻先に香った気がした。
――道端であんたたち白人が血を流していようと
――あたしは唾を吐きかけて通り過ぎてやる
「来いよ」
「え? え?」
彼女の肘を捉えて、ひっぱる。
「退け!」
どかどか歩いていくと、意外なことにビックディールとディーゼルのほうが壁際に飛び退った。俺は、よっぽど変な顔をしていたのだろうか? ロザリアの多すぎる荷物に腹や胸を殴られながら、彼らはおとなしくロザリアを見送った。
アニタの、あの日の絶叫がぎりぎりと脳みそを締め付ける。
「ちょっと、あんた!」
大きく開いた彼女の襟元に、ぼたぼた汗が落ちていた。顔を汗まみれにしていても、けなげな彼女のめがねは持ち主の鼻筋になんとかぶらさがっている。赤いフレームの、大きな眼鏡の位置を手荷物の角で器用に直しながら、彼女は息を切らせている。
「あ、ごめん」
あと2、3回も道を曲がれば、表通りの石造りの町並みに出られる場所で、彼女を待って足を停めた。つい、彼女をひっぱって来てしまったが、彼女は見た目どおりあまり運動神経がよくないらしい。ほんのちょっとの早足で、かなり息を切らしている。
「なん、で、謝るの?」
「ひっぱっちゃったから。大丈夫?」
「ちょっと疲れたけど、大丈夫。でも、……ちょ、……待って」
そう言うと、彼女は荷物を持ったまま座り込んでしまった。
まずいな。急がせすぎたのかもしれない。
大丈夫、と声をかけようと自分も屈みこむと、彼女は息を静めようとしているのではなくて、小刻みに震えていた。
敵の暮らす只中に、たった一人で、たぶん帰り道もわからなくて。とても怖かったのだろう。小さく丸くうずくまったままの背中が、喋った。
「あんた、とても強いのね……」
ぞくりと、背中に寒気が走った。
「そんなこと、ねえよ」
「だって、あの人たち仲間なんでしょう。それなのに、あたしを庇ってくれた……。どうもありがとう」
「俺は…、ただ、」
「さっき、怒鳴って、ごめんなさい」
「そんなの、別にいい。俺は、ただよってたかって弱いものいじめするやつらが気に入らないだけだ!」
ロザリアが、荷物の間から顔を上げる。彼女らに特有の漆黒の虹彩の中、丸く浮かぶはずの瞳孔もまた黒くて、境目は見えない。純粋な黒を湛えた大きな瞳が、厚いレンズの奥から素直な尊敬を輝かせている。
言い方を間違えたと、後悔したけれどもう遅かった。ちがうんだ。本当はそんな綺麗ごとじゃないんだ。
――あたしは唾を吐きかけて通り過ぎてやる
「あんた、名前は?」
アニタの悲鳴を、ロザリアが優しく遮る。
「……俺は、」
彼女は自分の名前を本当は知っていただろう。知っていて、一度も呼びかけなかった。互いの肌の色ゆえに。
けれど、今こうして名を尋ねられた。彼女は表情に決意を露にしていた。人と人として、向かい合おうという、それは誓いの儀式だった。
ロザリアは、汗まみれの顔でにっかり笑ってから自分も名乗った。その名前を、自分もずっと前から知っていた。
縦と横にめぐらされた黒い棒に貫かれて、宙吊りにされた丸い大きな時計の下を潜る。ドーム型の天井が高いせいで、だだっ広く見える構内を走りぬけ、それぞれのホームに続く階段の前で、エニィボディズは足を止めた。
ロザリアが、どこから出発するのかわからない。
振り返ると、天井につるされた時計の針は刻々と進んでいく。一回立ち止まると、膝ががくがく笑いだし、また走り出すとき転んでしまいそうだった。
今、ぐずぐずしていたら、二度と会えないかもしれない。
船に乗るには海に出なければならない。だとしたら、目指すべきホームは…
「…っ」
階段を駆け下りる。膝が半分ばかになってしまっているせいで、鉄の段差を踏むたびに靴を叩きつける大きな音が響いた。
着膨れた人並みを掻き分けて、たまにはハイヒールのつま先を踏んで女性に悲鳴を上げられながら、それに詫びる余裕もなく走る。酷く息を切らして、忙しなく周りを見渡していたせいで、迷惑そうに自分を見送った人たちの顔にも、どこか不思議そうな色があった。
灰色。茶色。狐の襟巻きの濃い黄色。かかとを銀で打ったブーツの黒。シックでくすんだ色を着付けた白人たちの群のなかから、ひときわ鮮やかな原色を着こなした、肌の黒い女たちを見つけた。花の形を染め抜いたコート。フリルをたっぷり使った襟元は、彼女らの浅黒い肌を引き立てるように鮮やかな真紅。あるいは青。紫。オレンジ色。
長い髪を背中に流した人たちの多い中で、焦げ付くように黒いそれを二つに束ねて耳の上から垂らした、真赤な縁のめがねの女の子は、エメラルド色のスカートをコートの裾から覗かせていた。一人だけ、がっしりした鞄を両手にぶら下げている。
あの時も、彼女は体が埋もれてしまうほどの大荷物を抱えていた。
冬のホームのなかで、彼女たちも厚い衣に身をつつんでいるのに、そこだけ南国の花のように明るかった。
睫の濃い、黒い顔がいっせいに自分を振り返った。
どの女もきりりと彫りが深い。
ぐ、と喉元の呼吸が止まる。早鐘を打っていた胸が、どきりとひときわ強く脈打った。
女たちに睨まれただけでこうだ。
肌の色の違う男たちの中に、たった一人で乗り込んだら、いったいどれくらい……
紫のハイヒールを履いたアニタの、冷たい視線とぶつかった。
ぐいと、ズボンを引き上げて気合を入れる。
背が低いせいで同胞の影に隠れているロザリアの前に出ようと、女たちを左右に弾き飛ばした。アニタも慌てて引き下がる。
「故郷に帰るんだって?」
自分の声は、ぶすっとふてくされたように聞こえた。
「ええ。……島のおじさんが、畑を手伝ってくれる人を探しているの」
ロザリアの、ちょっと甲高い声は労わりに満ちていた。
「あんた、いつも帰りたがってたもんな」
「ここも好きよ。でも、あたしにはあっちが合っているの」
「なんでだよ」
「ここは大好きよ。でも、故郷の景色が懐かしくって」
「……」
「ここに来てよかった。島が、やっぱりあたしは大好きだってわかったから、もう、二度と離れない。出来るなら、ずっと島で暮らしたい。
でも、ここに来れてよかったと思うのも本当よ。あんたに会えたから」
「もう、戻ってこないんだな」
「わからない……おじさんがいつまで雇ってくれるかわからないし、あっちに仕事がなければやっぱりここへ働きにくることになると思うわ」
握った拳が、汗で滑った。
彼女の誤解を解くなら今だった。このままじゃ、一生彼女に勘違いされたままになってしまう。
自分は格好よくなんてない。強くなんてない。
「ロザリア…」
「何?」
黒い瞳が、きらきらと下から顔を覗きこんでくる。
背が低いのに、ハイヒールを履くと転んでしまう不器用さのせいで、ロザリアはますます小さく見えた。
瞳には、無邪気な親愛が溢れていて。
「とっとと行っちまえ!
二度と戻ってくるんじゃねえぞ!」
瞼をぎゅっと閉じて視線を断ち切る。
プエルトリカンたちにまたぶつかりながら、わき目も振らずに走りだすと、背後で「きゃぁっ!!」と大きな悲鳴が聞こえた。何事だよ?
思わず、振り返る。
そして後悔した。見るんじゃなかった。
ロザリアの隣にいた縮れ毛の女が、真赤になった顎を抑えながらロザリアから遠ざかる。
その間にも、彼女がぶんぶん手をふるせいで周りの女たちはロザリアの掌にするどく叩かれている。一人や二人じゃない。
あのアニタさえ、恐れをなして逃げ出すので、混雑した駅のなかでロザリアのまわりだけぽっかりと空洞ができた。それで、背の低い彼女をこんな遠くからでもよく見ることができた。
あるいは目のあたりを、あるいは額を押さえる女たちは、とてもとても痛そうだった。
「あっぶねーなぁ…」
ワイパーのように左右に手を振るロザリアは、次々あふれ出る涙を拭きもしない。泣き通しのせいで、声が出ないらしい。
だから、あんなに手ばっかりを振っているんだろう。
――もしあんたたち白人たちが
――道端で血を流していたとしても……
俺にはできそうにないよ。
だって、道で倒れてる肌の黒い人間を見つけてしまったら、そいつはもしかしてロザリアの親戚か友達かもしれないと思ってしまうもの。ロザリアにぶっ叩かれて、叩かれながら泣き笑いしている彼女たちの、真赤になった肌の痛そうだったことと、頬にかかった涙の温かそうだったことを、自分のことのように想像した今を、きっと思いだすだろうから。
自分と同じ涙の味を、今、彼女たちも味わっているに違いないと思うから。
取り返しのつかないことってある。癒えない傷もこの世にはたしかにある。
けれど、もう憎しみには迷わされない。ロザリアが「強いのね」と言ってくれたことを、きっと一生忘れない。
こうして癒えていく傷もあるんだ。
「かわいそうなやつだよな、お前も」
友人に諌められ、少年は激昂する。痛いところを突かれたのだろう。暴れるアクションも彼を止めようとする彼の友人も、いっしょくたに店から叩き出して、ドックはどさりと椅子に身を投げた。ドックの上半身を受け止めて、ぎい、とカウンターが軋む。
足元にはダーツの矢が散らばっていて、カウンターに零れた酒がアルコールの匂いをつんと立ち上らせている。少年たちは、店内をあんなに荒らしたくせに同じ方向へ帰っていく。窓から、彼らの混じりけない金髪が白金に陽光を弾いているのが見えた。
年季の入った店構えと言えば聞こえはいいけれど、ドックの店は小さくて古びていた。働き者の真面目な少年が手伝っていた時は、掃除の行き届いてそれでも店の隅々に光が満ちていたものだった。
「新しい人間を雇わなきゃならないだろうな」
ざっとカウンターをふき取ると、ドックはついでにほこりっぽい棚に手を突っ込み、色あせたラベルのビンを取り出す。自分用のグラスをたった一杯ぶんだけ飲み干すのが、ドックの30年来の習慣だった。
このごろは、グラスを二つ用意することがあった。
酒の量を増やしたわけではない。そうしたくなる事柄は山積みだが……もうひとつのグラスは隣のスツールの前に置く。
ドックは、空の椅子に向かってグラスを傾ける。そこに誰かがいるように。
「お前がいなくなってから、あの子らが大人しいよ」
ぐびりと喉を鳴らしながら、琥珀色の液体を飲みこむ。アルコールの心地よさが、胃袋からふわりと広がって顔を熱くする。
――しょせんあの子らは、大人たちの憎しみを感じ取って操られているにすぎないのではないか?
「いずれはまたいさかいが起こるだろう。今度は、子供たちじゃなく大人たちが殺し合いを始めるかもしれん。
けれど、お前さんのおかげでそれが、10年いや、5年でも先延ばしになるなら、それだけでも……」
ドックは写真が嫌いで、彼の姿をとどめるものを一枚も持っていない。けれどもし持っていても、照れくさくてそれと酒を飲み交わすことはできなかっただろう。
アルコールが全身を温める。
じわりと浮遊感が身体を襲うと、そこにいない朗らかな少年を思い出して、ドックは固い両手で顔を覆った。
あまりに若かった彼の死が無駄ではなかったと、なんとか思い込みたかった。
癒える傷もあれば
――道端であんたたち白人が…
決して癒えない傷もある
――血を流していようとも
『あたしは唾を吐きかけて通り過ぎてやる』
黒蘭の香りが、彼は好きだった。
あるいは、自分がそれを纏うのを好んだから、彼もそれを芳しいと言ってくれたのかもしれない。
しっとりとした黒蘭の香りと、彼の肌はとても相性がよかった。
彼を見たとたん、この人だと思った。
もう、二度とあんな人には出会えない。あんなふうに愛せない。もう二度と。
なぜ人は幸せの只中にいるとき、今が人生で一番幸福な時期だと気付けないのだろう。
「アニタ大丈夫? 少し疲れているみたい」
「それはこっちのセリフよ。もう、泣かないで」
「だって…」
フランシスカは、真赤な目からまたぽろりと涙を零した。
「大丈夫よ。ロザリアは、ちゃんと船に乗れるわ」
「だって、あの子ちょっとドジなところがあるから…」
「またいつか会えるわよ」
コンスェーロが、やはり赤い目をして小さなフランシスカを抱きしめる。
「ロザリアは、いつからあの白人の子と仲がよかったのかしら」
「さあ。でも、エニィ・ボディズって言ったかな。ずいぶん変わっているけれど、悪い子じゃなさそうだった」
「そうね」
アニタも頷く。
あの諍いは、多くの人に傷跡を残した。
けれどこうして、癒えていく傷もある。
彼女たちは、自ら自分の傷を癒した。
アニタが見上げる朝の空は、青色が薄い中に白い雲が切れ切れに浮かんで明るかった。
大気は冷たい。
「白人にも、いい人はいるわ」
けれど。
たとえ世界中が幸福に満たされたとしても。
あの人は決して帰ってこない。
世界が明日戦争で、一夜にして滅んだとしても、変わらない。喪った人だけはどう足掻いても取り戻せない。身に受けた屈辱よりも、共謀で犯してしまった殺人の罪よりもなお、アニタを傷つける。身勝手だとしても、それが真実だった。――あの人は二度と帰ってこない。
癒える傷もある。
そして、決して癒えない傷もこの世にはある。
『悲しいという傷』