あやしいバイト(仮) 10


 夢は見なかった。見たのかも知れないけど覚えていられなかった。
 薬の効果がそんなに簡単に消えるのかどうかわからないけど、それでよかったと思う。あれを夢で見たらたまらない。
 伸びをしようとした体が動かせなかった。
「川島さん」
 また抱き枕にされてる。もう私が逃げたところでどうだっていいと思うんだけど。
 しかもそれまでと違って、足まで絡み合ってる。素足で。肌が。
 ああもう。忘れなきゃいけないのに。
「ん? ああ、おはよう」
 おはよう、じゃないよ。でも朝だしなあ。
「おはようございます」
「体、平気? 腹減ったろ?」
 それまでずっと優しい丁寧な口調だったから、ぞんざいな言い方にちょっと驚いた。
 いえ、と言おうとしたら先にお腹が、ぐう、と返事をした。
「ほぼ二日食べてないからね」
 川島さんは笑って言うと起きあがった。
「体が大丈夫なら出かける準備して。メシの後不動産屋に行くから」
「は、い」
 そう。
 そうだよね。
 早い方がいいよね。
 起きあがったけど股の間はおそろしいほどぬるついてるわ、太ももやお尻はそれが乾いてカピカピだわで、まずお風呂、になった。

 24時間営業のファミレスで朝ご飯の後、川島さんは大学へ行った。
「ちょっとここで待ってて」
 事務室へと入っていく川島さんを正面玄関で待つ。
 実験って名目で川島さんは一週間近く私と一緒だった。
 仕事してない、ってことになる――んだろうなあ。出社、じゃないけど、出勤してないんだもんな。クビになったりしないかな。大丈夫かな。
 私は廊下をのぞき込んでみた。事務室のドアはぴたりと閉められていて中の様子はわからない。
 事務室って言ったってもともと大きな大学だ。高校の職員室なんかよりずっと広いのかも。だって廊下には他のドアが見あたらない。
 しばらくして川島さんは大学ノートよりも一回り大きい茶色の封筒を持って出てきた。
「お待たせ。さて部屋探しだ」
「はい」

 ところが。
 川島さんは迷いもせずに入って行った不動産屋で
「今日はどうされました?」
と聞かれ、
「手頃な物件の空きはあるかな。最低でも2DK。本が多いからしっかりした作りのところがいい。少々古くても構わないから」
と返した。
 不動産屋さんの問いも変だと思うけど、川島さんも唐突だ。でも、
「本が。ああ、では川島様のお引っ越しですね」
と不動産屋さんは言う。
 川島さん、名乗ったっけ? 知り合い? でもそれ以前に私の部屋探しで来たんじゃないの?
「本ですか?」
 横からそう聞くと川島さんは私の方を向いて言った。
「本だよ。きみもあの部屋は見たでしょう。世間一般ではあの量は多いって言うんだよ」
「川島さんも引っ越すんですか?」
「は?」
 川島さんがきょとんとした。
「いや、だって、私の部屋探しですよね?」
 ああ、と川島さんは言った。
「きみの、って言うか、僕らの」
「はい!?」
 意味を聞こうとしたけど、不動産屋さんの
「大学から少し離れますが空きが出てます」
という声で遮られた。
 この不動産屋さんは川島さんの職業も把握してるらしい。
「遠いのは面倒だな」
「マンションに限定しなければあるんですが」
 不動産屋さんは学校の、っていうか、大学のある地名を続けて言った。
 川島さんが一瞬顔を曇らせる。
「それ、アレだよね」
「……はい」
 不動産屋さんのためらいがちの答えに、川島さんは眉をひそめた。
「それ、僕が借りるとなると当然親父に話が行くよね」
「はい……」
 くそ、と口の中で悪態をついて川島さんは頭を掻いた。
「僕じゃなくてこの子が借りる場合はどうだろう?」
 不動産屋さんはちらりと私を見た。営業用の笑顔だけど値踏みをされてるくらいのことは私だってわかる。
「保証人様は」
「僕が」
 ああ、と不動産屋さんは溜息のように困った声を漏らした。
「当方としては川島様が保証人になってくださるのなら不都合はないのですが、契約書はお父様の元へお送りしますので」
「一緒か」
 今度は、ちっ、と舌打ちをした。
 初めて見る、ちょっと乱暴そうな川島さんの様子にびっくりだ。
 会話の内容にもびっくりだけど。
 なんでここで川島さんのお父さんの話が出てくるんだろう?
 この不動産屋って、馴染みどころの関係じゃなくない?
「じゃ、いい。僕の名前で契約する」
 諦めたように川島さんは言った。
「親父からの干渉は諦めないとだめだな」
 溜息混じりに肩を落としてる。
「今のお住まいはどうします?」
「戻る予定はないから、退去後は他の部屋と同じように借り手を捜してもらって構わない」
「はい」
「結衣ちゃん」
「はい」
 完全に置いてけぼりで話が進んでると思ってたら、やっと川島さんが私に話を振った。
「一軒家って好き?」
「へ?」
「ああ、いい」
 ひらひらと川島さんは手を振ると、不動産屋さんの持ってきた書類に記入しながら、引っ越しの段取りも相談し始めた。

 家に戻るなり川島さんはパソコンを置いている小さな机の上のものを少しだけ避けて、その周辺の本も別の本の山に積み上げて
「座って」
と言った。
 やろうと思えば座る場所は作れるんじゃん、と思ったけど、そこは黙って座る。
 どこに何があるか持ち主本人だけは把握してる、っていうやつだわ、きっと。
 川島さんは今日一日持ち歩いていた茶封筒から書類を出しながら言った。
「まず確認しておきたいことがある。きみは学校に行きたいか?」
「は?」
「うちに受かったって言ってたでしょ。確認してみたら入学手付け金までは払ってあった」
 払ってある!? 誰が払ったんだ。父さんか? 兄ちゃんか? そんな金、うちにあったのか?
「まだ間に合う。入学手続きをすれば通学できる。大学に行きたいか?」
 そんな確認をしてくれてたのか。さすが大学職員だ。
 大学、行きたい。
 みんな行くから、じゃなく、大学に行って学べることがある、って思ってたからうちが苦しいのもわかってて受験した。父さんも、今時四大出てないと仕事も無いだろう、って応援してくれた。
 そんな立派な頭はしてないけど、せっかく受かったんだし、行けるのなら行きたい。
 でも。
 私にお金は無い。
 不動産屋での川島さんの言葉も疑問のままだけど、まさかそんな、ね。
 だから今朝決心したとおり、私はどこか住むところを見つけて働かなきゃ。
 大学に行く余裕なんて無い。
 無いんだけど。
「行きたそうだね」
 はっと顔を上げる。
 うつむいてぎゅっと手を握りしめて、ぐるぐる同じ事を考えてた私の顔をのぞき込んで、川島さんは柔らかく笑ってた。
「なら行きなさい」
 無理だ。川島さんからもらったバイト料じゃ入学金で終わってしまう。
 バイトを探したとしても、生活できるかどうかさえ定かじゃないのに授業料まで稼ぎだせるはずがない。
 定職に就いてる大の大人がうちには二人もいたのに家計は崩壊した。
 ついでに家族って単位も崩壊した。
 何ができるのかもわからない私が、一人でなんとかできるわけがない。
 簡単に『行きなさい』って言われても困る。
「金なら心配しなくていい。幸い僕はきみ一人養って、学校にやるくらいできる」
 すげぇ!
 口が悪くなった。
 でも本当にそう思った。すごい、じゃなく、すげぇ。
 バイト料に100万もらったときも思ったけど、この人どれだけ稼いでるんだろう。
 よしんば自分とは別の人間を養いながら大学にやれたとしても、それを赤の他人に対して本当に実行する人がどこにいるだろうか。
 すげぇ。
「でも……お金を出してもらう理由はどこにも無いです」
 無いはずだ。
 川島さんは一瞬眉を寄せて凶悪な顔になった。それから何かに思い当たったみたいに、深い溜息をついた。
「結衣ちゃん。きみ、昨日の夜僕になんて言ったか自分で覚えてる?」
「え? だ、抱いてって……」
「それはそうだけど! そっちじゃなくて『責任とれ』って言ったでしょう」
「ああ」
 言いました。確かに。
「って、ええ!?」
 いや、言ったよ。でもそれは、薬を飲んでへんな夢を見るくらい川島さんを欲しくなっちゃった私の気持ちをなんとかして、って意味で、それもどうかと思うけど、でもその責任はもう川島さんは取ってくれた。
 一回でいいから、っていう私の願いを聞いてくれて、川島さんも『その方が楽』って言って、私の夢は夢では終わらずにそれを上回る現実になった。
 バイトは終わった。私の気持ちとしてはまだ未練があるけど、それは断ち切らなきゃいけないものだ。
 責任は果たしてもらった。
 後はもうお別れだけだ。
「そうだな、たとえばね」
 川島さんは前髪をぐいとかきあげて後ろへ流した。
 白い額が出るとそれだけでもうかっこいい。
 ――やだな。全然断ち切れてないじゃん。
「実験と称してきみは薬を飲みました。何をするのかよくわかってない薬です。僕には、その薬の効果が抜けるのを見届ける責任があります」
 ぎょっとして思わず叫んでしまった。
「やっぱりそういうヤバい系の薬なんですか!?」
「だからたとえばって言ったでしょう。薬の話は嘘とも言ったはずだよ」
 いや、そこはどうにもまだ信じられないから。
 目を細めて、うさんくさいものを見るように川島さんを見つめると、川島さんは苦笑した。
「それはともかくとしても、そういう責任が発生する可能性があるのはわかる?」
「まあ」
 不承不承頷いた。
「とすると、僕はきみを近くで観察する必要があるわけ」
「はあ」
「一緒に暮らすのが一番手っ取り早いと思わない?」
「思わないですよ!」
 なんだ、そのトンデモ理論は。
 だって、一緒にいちゃいけない。
 最初で最後、って思った。人生で一度きり、って覚悟した。
 それに見合った、ううん、それ以上のものをもらった。
 だからこれ以上を望んじゃいけない。
 一緒にいたらどうしたって望むようになる。
「薬の効果がどのくらいで切れるのかわからないしねえ」
 川島さんは妙な笑顔で言った。にやにやしてる。
「やっぱり変な薬なんじゃないですか」
「違うって。ああいや。そう、ってことにしたほうが話が早いな。そう。変な薬だったのできみを一人にするわけにはいかない。これならどう」
「どう、って」
 それでもだめだ。
 観察目的、ってことで近くにいる理由にはなるかもしれないけど、一緒に暮らしたり、お金を出してもらう理由にはならない。
 川島さんの好意はありがたいけど――。
「あのな」
 ぐずぐず考えてたせいか、急に川島さんは怖い声を出した。
「きみにあれこれ考える余地はないぞ」
 出会ってからまだ五日? 六日? ずっと一緒にいたけど、こんな川島さんを見たのは初めてだ。
 豹変、ってこういうときに使うんだ。
「入学の手続きをしなさい。面倒は見る。心配するな」
 有無を言わさぬ力強さで言って、川島さんは書類を私の方へ押しやった。
 こういう書類って基本的に再発行不可だよね。どうしたんだろう、これ。
「金持ちは別に偉くなんかない」
 川島さんはあぐらをやめて膝を立てた。あぐらのほうが楽そうに見えるのに、この人はこういう体操座りの方が楽なんだろうか。
「確かに金で解決できる問題は多い。だから金はあった方がいい。でもただ貯め込んでる金に価値はない。使うべき時に使う、役に立つ、だからこそ金に価値が生まれる」
 それは持ってる人の理論だ。
 持ってるから『使うべき時』に出せるんじゃないか。
「僕がきみに対して金を使うことに関してきみは何も気にすることはない。僕がそうしたいと思うからするんだ。それとも迷惑か?」
「迷惑だなんて」
 ありがたすぎて、どうしたらいいのかわからない。この話を受けていいのかわからない。
 ぶっちゃけると、私だけがそんな幸運に恵まれていいんだろうか、って思ってしまう。
 小心者なのもあるけど、父さんは全部捨てて私たちの前から姿を消さなきゃいけなかったし、兄ちゃんは……。兄ちゃんはいいか。あれは多分幸せだ。父さんに対してちょっと後ろめたい。
 それに、こんな幸せが来た後の反動ですっごい不幸になっても困る。
 いや待てよ。家族の解散がすでにすっごい不幸で、その反動で今の幸せ……?
「そんなことをしていただく関係じゃない……」
 言ってる途中で羽交い締めにされた。
「くっ、くるし……! 川島さんっ!」
「とっくにそういう『カンケイ』ですよ、僕らは」
 言葉は丁寧なものに戻ったけど、声が怖いままだ。
「そんなことは」
 ない。ないはずだ。
 一回だけの。たった一回だけの私の。
「あるんだよ。こっちが必死の思いで食い止めようとしたのに、何度も抱いてと言われて限界突破したんだ」
「へ?」
 あ。間抜けな声が出た。
「あんな姿を見て、あんな声を聞いて、それで手放せるわけないだろ」
 えええ?
 確かにちょっとアレな、あられもない姿をさらしたとは思うけど。
 なに、これ。私、まだ夢見てるの?
「好きだのなんだのと言うのなら、ああいうときは名前を呼ぶものだ」
 川島さんはそう言ってメガネを外した。
 顔が近づいてくる。
「それとも僕の名前を知らないか?」
 知ってる。
 一回しか聞かなかったけど知ってる。
 いつの間にか心の中に大事に刻み込んだ。
「これでもまだきみは、金を出してもらう理由がない、なんて言うのか?」
「う……。あ」
 唇が触れそうで触れない。
 なんで。
 こんなこと言われたら、されたら、私の気持ちはそっちに傾いちゃうよ。
 諦めたり忘れたりできなくなっちゃうよ。
「僕とおいで。夢なんか要らない、って思えるような現実を教えてやる。きみを幸せにしてやる。だから」
 川島さんは顔をずらして頬にキスをした。唇はそこから横にずれてきて、耳たぶをきゅっと軽く噛まれた。
「んっ」
 夢ではありえない感じに、びくん、と背中が反る。
「だから僕を幸せにしてくれ」
 ゆっくりと川島さんが離れていく。その顔は真っ赤だ。
 なんだ、この四十歳。いや違った。三十八歳。
 なんだってこんなかわいらしいんだ。
 後から、これも嘘でした、なんて言っても聞かないからね。知らないからね。
 今わかったけど、私、すっごく諦め悪いんだからね。
「は、い」
 ちゃんと返事をしようと思ったのに、喉が詰まったみたいになって、目の奥も熱くなって声が震えた。
「はい。義章さん」
 ほっとしたような表情で川島さんが手をさしのべてくる。
「結衣、おいで」
 その手を掴む。腕の中に抱きとめられる。
 顔を上げたのと、川島さんがかがむようにして私の上に被さってきたのとが同時だった。
 もう目を瞑っても怖くない。
 これは消えない。夢じゃない。
 合わせた唇はすぐに勢いを増して、私たちは本の壁の隙間にもつれるように倒れ込んだ。

2009年1月22日