二度としない…
さがさない 前編

 洗濯物と長らく放ったらかしだった御手洗の布団を干し終えた私は、ベランダでほっとひと息ついた。
 少し風は強いが天気は良く、日射しが暖かな日だった。これならきっと洗濯物もよく乾く。
 午前中に予定していた家事をひと通り終えた私は、最近日課にしている散歩に出掛けようと思い立った。急ぎの仕事もないし、こんな日に部屋に閉じこもっているのはもったいないような気がしたのだ。
 散歩がてら買い物をして、ついでに昼食も外で食べてしまおう。御手洗はついさっき食事をしたばかりだから、必要なら帰ってきてから作ってやっても遅くはない。家に戻る頃には洗濯物も乾いているだろうし、布団もその時に取り込めばいい。
 ささやかな計画をたてた私は、洗濯かごを片手に部屋に入った。しかし先ほど朝食を終えたばかりの御手洗の姿はない。どうやら食後すぐに部屋に戻ってしまったようだ。
 最近の御手洗は考え事をしていることが多く、食事の最中にも時折手を止めて頭を掻きむしったり、唸り声を上げたりしていた。こんな時、彼にとっての私は、まるで空気のごとく見えない存在に成り下がる。私自身も、なにを話しかけてもろくに反応を示さない御手洗の前に食事を提供していると、いつぞや雑誌で見掛けたペットの自動給餌機にでもなったような気分だ。忙しい時にはそんな状態の彼をせいぜい有り難がったりするのだが、己の身に余裕があると一抹の寂しさを覚えたりもする。我ながら勝手なものだ。しかし数日たてばきっとまたなにかしら騒ぎを起こしてくれるに決まっているので、せめてその時まではこの自由で平穏な生活を満喫すべく、気持ちを切り替えることにしている。
 私はしばしの暇乞いを告げるべく、御手洗の部屋のドアを叩いた。しかし返事はない。どうせまた中で唸っているのだろうと、勝手にドアを開けた。
 御手洗はなにやら調べ物をしているようであった。部屋の隅に座り込み、山のように積んであった海外雑誌を手に、ものすごい速さでページを繰っている。周囲の床には、彼のお眼鏡に適わなかった雑誌が、いくつも投げ捨てられていた。
「御手洗、ちょっと散歩に行ってくる。お昼は外で食べてくるけど、君はどうする?」
 一応形ばかりの誘いをかけてみる。予想通り御手洗は、私の台詞の前半に「ああ」と、後半には「うん」と答え、まったく話を聞いていないことを証明してみせた。それでも返事があるだけ奇跡的だ。
「ついでに買い物もしてくるけど、なにか必要な物はあるかい?」
「いや」
 彼は短く返し、手にしていた雑誌を床に投げ捨てる。その様子を見ていた私は、思わず溜息をついた。
 一週間ほど前、かき分けなければ足の踏み場もないようなこの部屋を、御手洗の尻を叩きつつ共に片付け、やっと床が久々にお目見えしたというのに。
 早くも床は雑誌に侵食されつつあった。
「……程々にしといてくれよ。じゃ、出掛けてくる」
 無駄だとは思いながらもそう言い残し、私は身支度を整えて散歩に出掛けた。


 山下公園をまわり、中華街で少々の食材を仕入れた後、私は伊勢佐木町まで足を運び昼食を摂った。少し前まではこの程度の道のりでもかなり体力を消耗していたが、今では仕事に取りかかると家に籠もりがちになる私の、良い気分転換となっている。日頃御手洗と接しているほうが、よほど体力をすり減らしているような気がするくらいだ。
 時間があれば山手か野毛山まで足を運ぶこともあるのだが、生憎今日はまだ仕事を残している。それでも天気の良さにすぐに帰るのはもったいないような気がして、帰りがてら横浜公園でもぶらつこうと考えた。ところが伊勢佐木町のスーパーで買い物をした後外に出ると、空は一転して泣き出しそうな色に変わっていた。風が強かったため、雲が運ばれてきてしまったらしい。私は散歩を中止し、急いで帰途についた。
 帰路を半分ほど来たところで、とうとう雨が降り出してしまった。当然私は傘など持っていない。それよりも、干してきた洗濯物や布団のことが心配だった。洗濯物はともかく、布団は濡れると厄介だ。御手洗が気が付いてくれれば、と思ったが、今の彼にそれは期待できない。私はいよいよ焦って駆け出した。
 ようやく棲み家のある古いビルにたどり着いた時、雨足はかなり強くなっていた。五階を見上げると、思った通り布団も洗濯物も、朝私が干したままに垂れ下がっている。慌てて家に駆け戻った。
 だが扉を開けた途端いきなりお目見えした光景に、私は思わず足を止め、手にしていた買い物袋を取り落とす。
 新聞紙である。一部二部であれば、これほど驚いたりはしない。リビングの床一面に、隙間を見つけるのが困難な程、新聞紙が無造作に広げられ、投げ捨てられていた。
 出掛ける前とはあまりにも異なった部屋の様子に、私は呆然と立ち尽くす。
「なんだ、これは」
 呟いた私の目の前に、放物線を描いて新たな新聞紙が着地した。追いつけなかった二、三枚のページが、空気抵抗ではらはらと舞い落ちる。
 考えるまでもない。こんなことをしでかすのは唯一人。傍迷惑な我が家の同居人……
 新聞が飛び出した地点に目を移すと、ソファーの向こうに見慣れた癖っ毛が揺れていた。
「御手洗っ!」
 私は床をどすどすと踏み鳴らして部屋に上がり、同居人の前に立つ。御手洗はちょうど見終えた新聞を、舌打ちをしながら投げ出す寸前であった。私はその腕をつかみ、新たなる被害を阻止する。
「何をしてるんだ、君はっ!」
 私が怒鳴ると御手洗は顔を上げ、二、三回目を瞬かせた。
「やあ、おはよう石岡君」
 とうに昼は過ぎている。だというのにこの完璧に時間軸のずれた台詞を吐いたということは、午前中の私の存在はやはり認知されていなかったわけだ。きっと食事をしたことすら忘れているだろう。慣れていることではあるが、今の状況が加わるとやたらと腹が立つ。
「おはようじゃない! 何をしてるんだ!」
「石岡君、少し前の新聞に遺伝子治療に関する興味深い記事が載っていたと思うんだが、君覚えてないかい?」
「覚えてるわけないだろ、そんなの!」
「おかしいな……」
 ばさっと御手洗の手から新聞が落ちる。彼は私の手を振り払うと、再び新聞紙の山をまさぐり始めた。毎月の集金時にもらう整理袋は、業を煮やしたのであろう御手洗に無惨にも破かれている。私は彼の腕を再びつかんだ。
「よせよ! そんな記事ひとつのために部屋をこんなに散らかす必要があるのか!?」
「部屋?」
 御手洗は眉を上げ、ゆっくりとリビングの様子を見回す。そして呑気にこう言った。
「おや、ずいぶん散らかっているね。どうしたんだい?」
「君がやったんだよ!」
 私がすかさず言うと、彼は面食らったような顔をする。
「それはすまない、気が付かなかった」
「まさか、その言葉だけですますつもりはないだろうな?」
 私は御手洗を睨み付けた。
「まさか、ちゃんと片付けるさ……後でね。生憎今は忙しい」
「忙しいって、記事ひとつ探してるだけだろ! そっちを後に回せ!」
「石岡君。今僕の頭は非常によく回転している。こんな時は得てして良い閃きがあるものだ。今探している記事が、その閃きのきっかけになるかもしれない。そんな機会を逃したくはないんだ」
「いつ事件の依頼があるかわからないんだぞ! こんな部屋に客を通せって言うのか!」
「外ででも話は聞けるよ。それに心配いらない。どうせ今僕が考えていること以上に面白い事件なんかないさ。もしどうにも急いでいるというのであれば、君がなんとかしてくれたまえ。散歩に出掛けるくらいなんだから、どうせ暇なんだろう?」
「なんでそんなことわかるんだ?」
 確かに私は出掛けることを御手洗に伝えたが、あの状態で彼がそれを認識していたとは思えない。
「外では雨が降っている。そして君の服は濡れている。君が服を着たままシャワーを浴びる趣味でもないかぎり、今まで外にいたってことは考えなくてもわかるさ」
 言われて私は重大なことに気が付いた。
「そうだ! 布団!」
 慌てて立ち上がり、ベランダへと走る。
 雨足は先ほどよりも強くなっており、開け放していた窓から風とともに水滴が吹き込んでいた。布団も洗濯物も、容赦なく雨粒に叩きつけられている。ベランダに出て布団を持ち上げると、時既に遅く、それはじっとりと濡れて重くなっていた。洗濯物も絞れそうなほど水を含んでいる。
 私は苦労して布団を部屋に押し込み、洗濯物を投げ入れて窓を閉めた。途端に雨は窓にぶつかり、激しい音を立てる。床に投げ出された布団はすっかり水を吸い、薄いブルーから濃い色に変わっていた。私は舌打ちをし、布団を散らかされた新聞紙の上に広げる。そして手近にあった新聞を広げて布団の上に置き、その上から足を踏み降ろした。ちゃんと乾いて使えれば良いが、駄目なら最悪打ち直し、もしくは買い換えだ。洗濯物は洗い直しが決定的である。
 まんべんなく足踏みをすると、新聞紙が見る間に色を変えていく。水を吸った新聞を外し、新たなものを広げた。
 まったく、なんで僕がこんな苦労をしなきゃならないんだ!?
 怒りに任せて布団を踏み叩き、踏みにじる。
 干したまま散歩に出掛けてしまったのは私のミスと言えよう。だがこれは御手洗の布団だ。しかしあの緻密な脳細胞の中には、「布団を干す」というまったく日常的なことは存在しない。いつも干すのは私である。放っておけばいいのかもしれないが、温かく柔らかな厚みを持った布団が、日に日に湿気ったせんべいになっていく様は見るに忍びないのだ。
 憤りながらふと御手洗を見ると、どうやらお目当てのものを見つけ出したらしく、ソファーにどっかりと腰を落ち着けて新聞を広げている。
 無性に腹が立った。
 私は御手洗の元に歩み寄ると、彼の手から新聞紙を取り上げた。御手洗の手に破れた新聞紙の切れ端が残る。
「少しは手伝え!」
 私が怒鳴ると、御手洗はようやくゆるゆるとこちらに視線を向けた。
「石岡君、同じことを二度も言わせないでくれ。僕は忙しい」
「あれは君の布団だ。それに洗濯物だって君のがあるんだぞ」
「布団を干したのも洗濯をしたのも君だろう。僕は頼んだ覚えはない」
「君がしないから僕がしたんじゃないか!」
「ならそれは君の勝手だ。……石岡君、新聞を返してくれないか」
 伸びてきた御手洗の手を、すんでのところでかわす。
「大体君は掃除も洗濯も食事の支度も、いくら言ってもしようとしない。なんで僕がここまで君の面倒を見なきゃならないんだ!」
「そう思うなら放っておけばいいじゃないか。なにもそこまで不快に思うほど君が責を負うことはない。子供じゃないんだ、僕だって気が向けば家事くらいするさ」
「子供のほうがまだマシだ! 家の手伝いくらいはするからな! 気が向くったって一体いつの話だ! 一年二年先じゃ気が向いたことにはならないぞ! そもそも同居を始める時、家事は分担でって約束だっただろ! なんで僕ばっかりが家事をやってるんだ! しかも! 君の分まで!」
「石岡君」
 御手洗はじっと私の顔を見つめ、それから大仰に溜息をついた。
「家事をするのにも才能がいる」
「は?」
「君にあって僕にはない、最たる物はその才能だろう。僕には君ほどに上手く家事をこなす自信がない」
「……だから?」
「才能ある者がその物事にあたるのは当然のことだ。大丈夫、君ならその道の第一人者になれるさ。もっともその才能を発揮するのは、僕限定にしてほしいものだがね。さあ石岡君、いい加減新聞を返してくれ」
 いかにも面倒くさそうに言い、再び新聞紙に手を伸ばしてくる。
 その時、私の中でブチッとなにかが切れる音がした。
 私は思わず御手洗に新聞紙を投げつけた。
 言い返したいことは山ほどあったが、私の口をついて出たのはこの台詞だけだった。
「御手洗なんか、嫌いだ!!」
(2000/09/11)
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