二度としない… さがさない 後編 |
ぼんやりとした頭で部屋から出ると、予想はしていたがリビングに御手洗の姿はなかった。昨日の惨状を残す部屋を見て、私は溜息をつく。 あの後自室に閉じこもった私は、性格からか暴れることもできず、ベッドに突っ伏し姿の見えない御手洗にひとしきり悪態をついた。そしてそのまま寝入ってしまったのだ。 我ながら子供染みたことをしたものだと思う。しかしまるで私を専属家政婦扱いする御手洗の物言いに、本当に腹が立ったのだ。 確かに洗濯をしたのも布団を干したのも私が頼まれもせずにしたことなのだから、それが雨に濡れたところで御手洗に文句を言う筋合いのことではない。その点では私に非はある。だが御手洗にも非がないとは言えないだろう。今のこの部屋の惨状は、半分は彼の所業のせいなのだから。 ひと言謝ってくれさえすれば、と思う。あんな気のない謝罪ではなく。しかしその機会を失わせたのは自分の子供染みた行動であったことを思い出し、情けなさにまた溜息をつく。もちろん機会があったとしても、あの状態の御手洗からまともな謝罪など聞けるはずもないが。 私はちらりと御手洗の部屋の方に視線を走らせる。彼が出てくる気配はない。部屋からはなんの物音も聞こえず、眠っているのか、それとも引き続き考えに耽っているのだろうか。 私は再び溜息をつき、のろのろと新聞紙を拾い始めた。 部屋をすべて片付け終わったのは、陽もとっぷりと暮れ、一般のご家庭なら夕食を終えて家族団欒のひと時を迎えているであろう時刻だった。 ひと仕事を終えた私は途端に空腹を感じた。昨日からまる一日以上、食事をとっていないのだ。しかし夕食を作り終えたところでまた溜息が出る。 二人分作ってしまった。夕食は共にとることが多いので、癖が出てしまったらしい。 仕方なく私は御手洗の部屋の前に立ち、ノックをする。先にへそを曲げた私から御手洗に声をかけるのは、なにやら媚を売っているようで屈辱を感じたが、夕食を無駄にしてしまうのも嫌だったのだ。しかし部屋の中から返事はない。少し迷ってから私はドアを薄く開いた。 隙間から現れたのは闇。 「御手洗?」 声をかけてはみるが、やはり返事はない。私はドアを大きく開け放った。 部屋は不思議と整っていた。昨日見た時には投げ散らかされていた雑誌が今は元通り片隅に積まれている。布団を剥ぎ取られたベッドの上には干さなかった掛け布団が綺麗に折り畳まれてのっており、その上に枕がぽつんと置かれていた。しかしそこに、御手洗の姿はない。 主のいない部屋は温度を失い、冷え冷えとしていた。普段とはあまりにも違う部屋の様子に、私はふらふらと夢遊病者のように入っていく。ベッドの上に腰を下ろし、むき出しのマットに手を這わせた。当然のごとく、御手洗の体温はない。おそらく昨日からかそれとも今朝早くに、彼は部屋を出たのだろう。 御手洗が、いない。 そう思った途端、足元から不安が押し寄せてきた。その不安は次第に胸に集束し、私の心臓を締め付ける。 私は居ても立ってもいられなくなり、思わず家を飛び出した。 思い付くあらゆる場所を探した。御手洗が行きそうなところも、そうでないところも。 馬車道にあるベンチをくまなく見て回り、手近な山下公園、横浜公園、果ては山手方面の公園まで。その間馴染みの店をのぞき、博物館はこの時間閉まっているのはわかりきっているのに入口の前でうろうろし、周囲を巡ってみたりした。まさか海に落ちているのでは、と思って再び山下公園に戻り、海沿いの柵を磨くが如く身体を擦らせて歩いた。大桟橋にも足を運んだ。ほとんどが駆け足だった。 しかし……御手洗はいなかった。 上がる息による生理的な鼓動よりも、不安で心臓が張り裂けそうだった。 結局どこにも御手洗の姿を見つけられず、とぼとぼと馬車道に舞い戻り、往生際悪く再びベンチを見て回ってから溜息をついて自宅を見上げた。もしも帰ってきていたらすぐにわかるように明かりを消してきたのだが、五階の窓に光はない。それでも、もしかしたら部屋に帰ってすぐに寝てしまったのかもしれない、などとわずかな希望を胸に部屋に入ったが、やはり御手洗の気配は微塵もなかった。ただひとつの変化といえば、私が用意した夕食が熱を失っていることだけだ。 私はソファーに身を投げた。そうすると今までの疲れがどっと襲いかかり、脱力してしまう。 だらりと手足を投げ出し、薄汚れた天井を見上げながら、ふと、帰ってこないのかもしれないな、などと思った。 御手洗が黙ってふらりと姿を消すのはよくあることだ。いつもならば私も別段気をとめたりしない。しかし昨日の出来事と、いつもならばあり得ない彼の部屋の整然とした様子に、やたらと不安がかき立てられたのだ。 御手洗は、私との生活に飽きているのかもしれない。 多分彼にとって、私は物足りない同居人なのだろう。実際私は御手洗の起こす行動の意味をいちいち理解できない。何年もたってから気づかされることもあるが、大抵はわからずじまいだ。彼はなにか重要なことを私に伝えようとしているのかもしれないのに。 突然始める演説にしても、余程精神的に余裕があれば良いが、締切前や家事に忙しい時などは聞いてもやれない。大人しく聞くことができても、最初のうちはせいぜい面白がっているが、話が小難しくなると途端に御手洗の言葉は私の耳を素通りし、あれもしなければこれもしなければと些細なことに気を取られてしまうのだ。悪い時にはうっかり眠ってしまい、いつの間にやら自室で目を覚まして大変ばつの悪い思いをする。 御手洗の脳は、水分を一滴も逃さぬ綿のようだ。知識という水を漏らさず吸い込み、すべて吸収しても貪欲にまた別の水を求める、限りない綿。しかし決してそれを己のものだけに留めず、まわりの人間にも惜しみなく分け与えるのだ。その恩恵を最も受けることのできる立場にいる私は、しかし粗末で小さな器しか持たず、しかもそれは絶えず飽和していて有り余る水を受けとめきれずにいる。 御手洗は進歩の兆しさえ見せない私に、さぞかし苛立っていることだろう。それともほとほと呆れ返っているのか。こんな私と共にいる意味が、一体彼のどこにあるというのだろう。 そう考えると、いつどんな小さなきっかけで御手洗に捨てられてしまってもおかしくないように思えた。そしてその“小さなきっかけ”とは、昨日のあの出来事かもしれないのだ。 私は深い溜息をついた。直接見ているわけでもないのに明かりが目にしみ、手で顔を覆い隠す。擬似的な闇に包まれると寒気が走り、身体を震わせた。それが孤独感からくる精神的なものなのか、汗が乾いたことによる生理的なものなのかはわからない。 「風呂……入らないと」 昨夜から入っていないことを思い出し呟くが、口にした直後、私は思わず自嘲した。 御手洗に捨てられかけているのかもしれないというのに、こんな時ですら私は日常から離れられない。壊れかけている友人との関係を憂うより、半ば本能のように日常生活を優先しようとしている。 そうだ、私は平凡な日常を愛している。日頃御手洗に振り回される生活のほうが本意ではないのだ。こんなふうに思い悩んでいたところで、御手洗はきっといつものようにふらりと舞い戻ってくるのだろう。それまで自由な独り身を楽しめばよいではないか。 そう頭を切り替えようとしても、気分は一向に浮上してはくれなかった。それでも、心に比例するように重い身体を懸命に起こし、愛する日常に従順になろうと洗面所に足を向ける。重病患者のようにおぼつかない足取りでようようたどり着き、浴室へ続く扉を開けた。明かりを点け、冷えたタイルに足を降ろすと、体温が一段と下がったような気がする。 浴槽に目を向けると、それはきっちりと蓋が閉められていた。お湯を落とすのを忘れていただろうかと首を傾げたが、多分その犯人は御手洗のほうだろうと思い至る。 はあ、と派手な溜息をついてその面影を散らしてから、私はパタパタと浴槽の蓋を開けた。 瞬間、心臓が握りつぶされたような衝撃を受けた。 浴槽の底に、足が見えた。 まさか。 鼓動が浴室中に響き渡りそうなほど、激しく打ち鳴らされる。 まさか。 震える手で蓋を開いていく。 心臓の鼓動がさらに激しく、私の身体を揺さぶる。 そこに、御手洗が、いた。 御手洗は袖とズボンの裾をまくり上げた状態で、手足を縮こませ、窮屈そうに浴槽の底に横たわっていた。 「……御手洗?」 次第に荒くなっていく呼吸を押さえ、ようやく出した声はひどく掠れていた。しかしその細い声は、意識のない彼には届かない。 散々探し回った御手洗が、今ここにいる。しかしその目は固く閉ざされ、身動きひとつしない。 なぜここにいるのか。いつからここにいるのか。私が探し回っている間、思い悩んでいる間、彼は意識を失ってここにいたのか。 私は激しく混乱した。 「御手洗……御手洗!!」 私は御手洗の両肩をつかみ、揺さぶった。 もしも頭など打っていたら、その行為が余計に状態を悪化させてしまうことは、理性ではわかっていても感情では思い及ばなかった。 逝かないでくれ。私を置いて逝かないでくれ。私一人を残して逝かないでくれ。 その思いは、私の遠い過去の記憶を呼び起こす。 指の隙間から、見る間に砂がこぼれ落ちていくような喪失感。 私はまた、大切な人を失うのか。 ただただ目を開いて欲しいと願いながら、私は御手洗の身体を揺すり続けた。途方もない時間が過ぎ去ったような気がしたが、実際にはそれほどでもなかったのかもしれない。 その瞬間は、唐突に訪れた。 ぱかっと音を立てるような勢いで、御手洗の瞼が上がった。 彼は瞳をギョロリと一周させ、私の視線とかち合ったところで止める。 「やあ、おはよう、石岡君」 そう言って微笑んでから、ひとつ大きな欠伸をした。 声が、出なかった。 御手洗が動き出すと、死んでしまったようにさえ思えた身体がありありと生命力を取り戻す。しかしその姿を目の前で見ているにも関わらず、私には現実感がまるでなかった。夢をただ傍観するように、御手洗の動きを追う。 彼は浴槽の中で身を起こし、凝り固まった手足をほぐすように曲げ伸ばしてから、ようやく立ち上がった。軽く背を反らすと、途端に眉を寄せ、「痛い……」と呟く。 その言葉に、私は我に返った。 「痛いって、どこが!? 頭、打ったのか!?」 殴りかかるような勢いで御手洗に詰め寄ると、すぐに私の危惧の意味を悟ったのだろう。彼はいつもの皮肉っぽい笑みでその勢いを押しとどめる。 「石岡君、心配してくれるのは有り難いが、よく考えてくれたまえ。頭を打って意識を失った人間が、浴槽の蓋を閉められると思うかい?」 「じゃあ、こんなところでどうして……」 「寝てただけだよ」 「……寝てた?」 「そう! 君はよく風呂に入りながら考え事をして、のぼせたりしているだろう。しかし浴室内というのは音がよく響く。声だけならいいが外の喧噪まで響いて、よくこんな落ち着かないところで考え事などできるものだと常々不思議に思っていたんだ。ところが浴槽に蓋をしただけで、まわりの喧噪が気にならなくなるんだ。音が聞こえないわけではないのに、まるでこの世から隔絶されたかのようでとても気分が落ち着いた。少々窮屈で身体が痛いけど、久しぶりに心地よい眠りにつけたよ……石岡君?」 御手洗の言葉通りがんがんに彼の声が響く中、しかし私は台詞の途中からもはや立っていられず、へなへなとタイルの上に腰を落としてしまった。 「どうしたんだい、石岡君?」 どうしたんだじゃないだろう。 そう言い返してやりたかった。 だが、私の口からは言葉が出ず、ただ目の奥から熱いものがこみ上げてくる。それはついにはあふれ出し、はたはたと乾いたタイルを濡らしていく。 たまらず嗚咽を漏らした。しゃくり上げる自分の声が浴室に響く。 安堵ゆえか、哀しみゆえか、怒りゆえか、それすらもわからず、すべての気持ちがないまぜになったようで、涙が止めどなくこぼれた。 「石岡君」 御手洗の声が優しい響きに変わった。彼の手が私の頬に触れる。 その手は私の顔を上向かせると、ゆっくりと涙を拭っていく。 「石岡君?」 濡れた目で見上げると、歪んだフレームの中に、戸惑う御手洗の顔があった。拭う彼の手が追いつかぬほど、涙が頬を伝っていく。 「…なく……なったかと……思っ…」 絞り出すような言葉が、彼に伝わったかどうかわからない。だが次の瞬間、私の身体は御手洗の腕の中におさまった。 「ごめん、石岡君」 掠れた彼の声が、耳に落とされる。 「ごめん……」 彼の手が、私をきつく抱きしめた。 失われたと思っていた御手洗の体温を感じると、これ以上外れようもない心の箍が盛大に壊れてしまった。 私は彼にしがみつく。 「…いなく…ならないでくれ……僕を置いて…いかないでくれ……お願いだ……お願い、お願い、お願い……」 みっともないくらいに繰り返し、しがみつく手に力を込めた。 「いるよ」 御手洗が、耳元で囁く。 「ここにいるよ」 折れそうなほど力強く、抱きしめられる。 「君のそばに……いるよ」 私は大声で、泣いた。 その晩。 私は御手洗にしがみついたまま眠りについた。 狭い私のベッドでは窮屈だろうに、それでも御手洗は文句ひとつ言わず、しがみつく私を胸に抱いたまま眠っていた。 私は夜中に何度も目を覚ます。その度に彼の顔を眺め、ざらつく頬に手を滑らせ、夢ではないその存在を確かめる。 そうして私がしがみつく手に力を込めると、眠っているはずの御手洗の手が、それに答えるように私を抱き寄せる。 眠りは浅いものだったが、それでも目覚めは心地よく……そして、少し、気恥ずかしかった。 「で、君はあんなところで、一体なにをしていたんだ?」 昨日の夕飯を温めなおして食卓に出しながら、私は御手洗に聞いた。朝刊を読みながらおかずをつついていた御手洗は、ちらりと私に視線を向けるとすぐに戻し、 「風呂掃除」 と呟いた。 「風呂掃除!? 君が!? どうして!?」 昨日まであれほど考え事にご執心だったくせに、一体どういう心境の変化があったのだ。いつもの単なるきまぐれか? 私が目を剥いて驚いていると、御手洗はなぜかふてくされたようになった。 「だって、一昨日君が言っていたじゃないか。そろそろ風呂掃除しなくちゃって」 ……呆気に取られてしまった。 私の存在など忘れきっていたであろうあの状態で、よくそんな些細なひと言を覚えていたものだ。私にとってはそんなつぶやきはあまりに日常的で、言ったことすら忘れていたというのに。 ぽっかりと口を開け、おそらくは大分間抜けた顔で見つめていたのだろう。御手洗は再びちらりと私に視線を向けると、居心地悪そうに新聞で顔を隠した。その様子がまるで点数稼ぎをして親の顔色を窺う子供のようで、私は思わず吹き出してしまった。 「ありがとう、助かったよ。これから風呂掃除は君の仕事にしようか。僕も助かるし、君もいい気晴らしになるだろ」 「今回は魔が差しただけだよ。いつもあることだとは思わないでくれ」 まるでそれが自分にとって悪いことのように言う。それでも笑い続ける私に、御手洗は憮然とした。 「昨日君に言ったことも嘘ではないよ。僕は君の家事能力を高く買っている。才能はよりよい方向に発揮すべきだ。しかしだからと言って、僕がそれだけの為に君と同居をしているとは思わないでくれたまえ。君の小言には実際辟易させられることがよくあるが、その程度のことで僕が出ていってしまうと考えるのは短絡的すぎる」 「うん、そうだね。……ごめん」 彼が進歩のない私に対して、もどかしい思いをしているのは本当かもしれない。しかしそれでも同居を続けるのには、それなりの意味があるのだろう。その意味を、今の私は思い量ることができないが。 「いや、僕のほうこそ……すまなかった」 ようやく聞くことができた御手洗の謝罪に、私は昨日怒っていたことを棚に上げて笑ってしまった。 「らしくないね、君が謝るなんて」 「そうかい? 僕だって悪いと思えば謝るくらいのことはするさ」 「……なるほど。つまり普段は悪いと思っていないわけだな」 私がわざと怒った口調でそう言うと、御手洗は黙り込み、再び新聞紙に顔を埋める。 またひとしきり笑った後、不意に沈黙が訪れた。しばらく無言で食事をつついていたが、私はふと思い付いて顔を上げる。 「御手洗」 「……ん?」 「もしも、君がいなくなる時には……」 言いかけたところで、御手洗が顔を上げた。だが彼が口を開く前に、私は言葉を続ける。 「必ず、僕に伝えてくれ。ひと言だけでもいいから……」 でないと私はまた、この部屋で一人孤独に悩んでしまうだろう。しかし、いなくなる前にひと言だけでも伝えていってくれれば……きっと悩みながらも、待つことはできる。それが自分にとって良い事か悪い事かはわからないけれど。 御手洗はしばらく私の顔を見つめると、溜息を漏らした。 「……書き置きくらいは、残していくさ」 そう言うとまた新聞に目を戻す。 素っ気ない台詞だったが、その約束を得られただけでも、私は十分満足だった。 その後、御手洗は相変わらず黙ってふらりと姿を消す。しかしそんな時は大抵その日のうちに戻ってくるし、戻れない場合には電話を入れるようになった。そして長期間家を空ける時には前日に口頭で伝えるか、約束通り書き置きを残していく。仕事が終わった後、長の籠城から出てきて時折その書き置きを目にすると、例え用件だけの短いものでも私は安堵した。しかしそんな書き置きに安堵しながらも、心の奥底には微かなさざ波が立つ。 いつか、私が御手洗に捨てられる日が、本当に来るのかもしれない。そんな危惧が、私の中には絶えず消えずに残っている。 でも、もしも、そんな日が来たとしても。 書き置きが一枚でも残されていたら…… 私はたぶん……御手洗をさがさない。 |
(2000/09/12) |
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