Chaparral

「あー……」
 言葉が出ない。
 どうしよう。
 彼女はこんな筈ではなかったと思いつつ、目の前のよく知る青年を見上げた。
 人々が忙しなく行き交うロビーで一つ頭の飛び出た赤みがかったその頭。
「……背伸びたね」
 一年前は自分と大して差のなかった青年。急速に成長しているのだと、思わずこぼれた感慨。
「なんだよそれ。今更だなあ」
 対して返ってきたのは苦笑混じりの呆れ顔。
 やけに大人びたその表情と声音が相まって、大河は不覚にも束の間ぼーとしてしまう。
 慌てて我に返り、
「くっ、士郎の癖にぃ」
「ん?」
「なんでもないわよぉ」
 認めるしかなかった。弟同然の男の子の成長を。相変わらずのニブチンだが、彼はもう少年とは呼べない存在だった。
 だから大河は首を振る。何も言わぬまま。青年とのこの場は来るべくしてきたのだと。
「……」
「……」
 互いに言葉はなく、お互いの顔を名残惜しげに眺めるのみ。
「あー……」
 間がもたくなり、大河は背後を振り返る。
 士郎の横にわざわざ並び、彼と視線を同じくする。
 誰もいない、けれど大勢の人いきれで賑わうロビー。まるで一人この世に取り残された気分になる。
 胸が冷えた。何かがすっと取りすぎる。
 本当にこれで。
「良かったの?」
「ああ」
「そう」
 ならもう何も言えることはない。
 すでに伝えるべき思いは伝えてしまった。
 それでも不満は消えず、士郎の横顔を盗み見る。
「?」
 いや、聞いておきたい事がもう一つ。
 これから旅立つ家族の本音を知りたいと。
 思いついたのだ。
「ねえ、士郎」
 その場でくるりと振り返り、人差し指を胸に突きつけた。
「これから、貴方は何を目指すの?」
 戸惑う彼の胸の内。それが知りたくて、目一杯鋭く尖った針を突き刺した。
「やっぱり、切嗣さん?」
 手の平から巣立っていく男の子が、どうか自分自身を騙してしまわないように。
 はっきりと問いかけ、
「それとも……」
 彼女は彼の答えを待つ。

 *****

 夢を見た。そんな気がした。
 薄暗い部屋の中で、少し強めに目を擦る。
 見た内容は覚えてないけど、きっと変わった夢だったのだろう。
 夢の名残に胸の奥は締め付けられるように苦しくも心地よい。
 なんだそりゃ。
 自分で自分に突っ込んで、起き上がる。
 布団をたたんで押入れの奥に。
 微かに残る眠気を洗い流しに、洗面所へ向かおうと思いきや。
「先輩、もう起きてますか?」
 独りでに襖が開き、そこから覗かせる見なれた顔。桜だった。
「おはよう。早いな今日は」
 既にエプロンを装備済みの桜は、「はい。おはようございます」と頷いた後、
「でもそうでもないですよ」
 室内の時計を指さした。
 時刻は6時を少し過ぎた所。
 え、6時?
 思わず目を疑った。
「えーと、すまん。俺の寝坊だな」
 いつもなら5時過ぎには起きているのだが。
 今日は思った以上に眠りが深かったのか。
 不覚な事態を自戒していると、
「できればこのまま寝ていてもらいたかったんですけど」
 いきなり不穏な発言が飛び出た。
 目前には、さも残念そうな顔で惜しかったですと零す桜。
 こら、聞こえているぞ。
 くっ桜め。そこまで俺に朝食を作らせない気か!
 師を追い越そうと虎視眈々と狙うその魂胆。
 見下げ果てたものだなぁと大げさに手振りで伝えようとした所で、
「でも仕方ないですね。どうぞ」
 手に持った電話の子機を差し出された。
「遠坂先輩からです」
「え、とおさか?」
「はい。ではわたしは朝食の支度をしてますから」
 と言って居間の方へ向かっていった。
 俺は手の中の保留中の子機に目を落とす。
 額に浮き出た汗が流れる。頬に一筋跡を残し。
 ものすごく出たくないんだが。
 嫌な予感だけがヒシヒシと伝わってくる。
 だが、出ない訳にも行かなくて。
 そんな事すればどうなるか考えるだけで恐ろしい。
 仕方なく通話のボタンを押して受話器を耳元に。
 それから向こうで痺れを切らしているだろう遠坂に声を掛けた。
「あーもしもし」

 *****

 風に揺れる供えの花。
 丘の上の教会の横手には共同墓地が存在した。
 その墓前に、間桐桜は他の花々と同じように花を供え1分ほど黙祷した。
 風が吹く。春を告げる風が再び花々を揺らす。
「もう1年以上も前なんですね」
 顔に掛かった髪をそっと手でよけ、横に立つ青年を眺める。
 その顔は小さな寂しさはあれど、すでに過去と割り切ったものだった。
 けれど固く一文字に結ばれた口元は、彼の心中を示している。
 呆れるくらいの頑固さ。
 貴方の所為ではないのに。
「まだ許せませんか」
 貴方自身を。続く言葉は声に出さず、彼女は彼を思う。
 どうしても許せないというなら忘れてしまえばいいのに。
 背負うべきは貴方ではない。
 そう彼女は彼に告げたいと思った。
 けれど。
「多分、死んでも許せない」
 彼が零した言葉を耳にし、桜は吐息を零す。
 疲れたような、やはりと感心したような少し艶めかしい小さな呼気を零す、言葉と共に。
「兄さんは恨んでませんよ。きっと」
 ただ妬んでいただけだ。わたしを、あなたを。
 兄は自分が最も欲していた才能を持った人間を妬み、持たざる自分を嫌悪し続けていた。
 それだけなのに。
「それでも、俺はあいつを救えなかった」
 やはり想いは通じない。
 返ってきたのは固く、今にも壊れてしまいそうな脆さを必死に隠す、固く強張った声。
 例えるなら、そう。
 まるで己の自重で潰れそうな壊れかけのブリキの玩具。
「だから」
 そして彼は声にならない声を振り絞り口を噤んだ。
 そんな彼を横目で窺いながら桜は、本当に困った人だと苦笑した。
 この人はきっと思いもしないのだろう。
 救えなかった誰かの存在で、時には救われる誰かがいるのだと。皮肉な現実もあることを思いもしないのだから。
 それが可笑しくて、悲しくて……本当の所はどっちなのだろう。

「桜?」
 気づけば、気遣うようにこちらを覗う彼がいた。
「いえ、なんでもありません」
 ただ考え事をしていただけだと首を降る。
 ああ、そうか。
 その時ふと胸を過ぎた思い。
 いっそのこと放っておけばいいのに。見なかった振りをして。
 気づいてしまったなら、放っておけないのだと。そういう人なのだと知っている。
 それでもまれにその融通の利かなさが腹立たしい。
 彼はこのまま気付かず行くのだろう。
 けれどいつか気付く、その時は。
 その事実がやはり可笑しくて、悲しかった。

「この後はどうするんですか?」
 言わなければ、いつまで経っても動きそうもない彼に話を振る。
 彼は暫し考えた後、
「街をさ。見て回ろうかと」
 桜はどうする?
 そう目で問いかけてくる。
 予期せぬ嬉しい誘い。
「わたしは」
 もちろん、一緒に行きます。
 口に出る筈の言葉は、
「もう少し居ようかと」
 何故か異なり。
「なら俺も」
「だからお気になさらず、先にいってください」
 続く彼の言葉を有無を言わせず遮った。
 言った後で。
 しまったなぁ。
 桜の胸に後悔が溢れる。
 気にしないでほしい。
 その言葉は本音で建前。
 けれどそれでは本当に欲しい答えは返ってこないのだと、そう言った彼女が一番よく知っていた。

「分かった。でもほどほどにな。風邪なんて引くなよ」
「はい。先輩も」
 一人納得した彼は、予想違わず去っていく。
 それを桜は無言で見送る。
 遠ざかる彼の背中。
 行かないで欲しい。
 それは紛れもない本音。
 けれどどうして言えよう。
 届きもしない言葉なんかを。
 つまめそうなくらい小さくなった彼の姿に、我を忘れて手を伸ばす。
「行かないでください」
 聞こえる訳もない言葉が口を出た。
 いつの間にか握り締めていた掌を空っぽと知りながらゆっくりと解く。
 追えもせず、引留めることもできない。
 ただ待つしかできない汚れたこの身が呪わしかった。

 一陣の風が丘の上を吹き抜け、再び桜は墓標を見下ろす。
「ねえ兄さん」
 その顔は能面のように何もなく。
「時々貴方が」
 その声は吹き消される程か細く罅割れ、
「羨ましくなります」
 紛れもない彼女の本音。
 春の風が墓前の花々を揺らす。
 動けぬ魂を慰撫するが如く。

 *****

 珍しい奴がいた。
 あまりにもレアな光景に思わず気付かず素通りするところだった。
 それぐらい不可思議な状況だったのだから仕方ない。
 こんな機会に恵まれるなら我が母校への休日出勤も捨てたものじゃないかもしれない。
 どうにも浮かんでくるバカな考え振り払いながら、いつまで経ってもこちらに気付かないバカに声をかけた。
「アンタ何やってんの?」
「ん、ああ美綴か」
 やっとのことでこちらに気付くおバカ。
 何が面白いのか見続けていた校庭から、あたしのいる廊下側に視線を戻した。
「で、何やってんの?」
「ん、なんとなくな」
 はあ? 熱でもあるんだろうかコイツ。
 はたまた衛宮にしては珍しい返答。
 内心の驚愕は表に出さず、まあ春だしそんなことも、と結論付ける。
 強引に動揺を静め視線を衛宮に戻す。
 再び窓の外のなんの変哲もない風景をぼんやりとした顔で眺めていた。
 あー、どうやらこいつは重傷らしい。
 衛宮も人の子だったんだなぁ。
 妙な感慨が湧きつつも、新境地を切り開いたアンニュイ衛宮の肩にそっと手をのせる。
「どうかしたのか? 悩みがあるなら相談にのるよ」
 警戒させないように優しく微笑んだ。
 なのに対する当人は、怪訝な顔でこっちを見た。
「どうした美綴、変な顔して。なんか気持ち悪いぞ」
 くっ、アンタねぇ。
 とりあえず一発殴っておいた。

 横に並んで校庭を眺める。
 休日でも陸上部や野球部、その他の部活連中が忙しく動き回っている。
 なんてことはない三年間見慣れた日常風景だ。
「で、本当にどうしたんだ?」
 尋ねるも、聞かれた本人は頭をさすりながらふて腐れている。
 無視ですか、そうですか。
 拳を振り上げ、再度問う。
「もう一発いっとく?」
「ただ外見てただけで、そんなに変かよ?」
「ああ、衛宮らしくない」
 正直にそう告げると、見るからに肩を落とした。
 さすがの衛宮も傷ついたか。
 けど本当なんだからしょうがない。
「悪い悪い、でも似合わないだろ。衛宮には?」
 さらに肩を落とした彼は諦めたように息を吐き、ようやく聞きたかった答えを口に出した。
「なんとなくさ。見ておきたくてさ」
「そっか」
 うんまあ、春だしな。
 そういうこともあるか。
 仕方ない、付き合いましょう
 予想以上に重傷だった彼に倣い、あたしは見納めとなる母校の校庭を眺め始めた。


 暫くして気が済んだのか。
 衛宮は外を眺めるのを止め、窓を締めた。
「どうする? 俺はもう行くけど」
「あ、ああ、あたしも職員室に用があっただけだから」
「そうか。じゃあ、またな美綴」
 そう言って彼は背を向けた。
 普段なら気にも留めない何気ない言葉。
 見慣れた別れの合図。
 けれど、あたしは思わず引留めていた。

「なあ、衛宮。どっかいくのか?」
 なんだか彼が途方もなく遠い場所に行ってしまう気がして。
 このまま行かせたら二度と会うことがない気がして。
 あたしは必死に彼を振り向かせる。
「また帰ってくるんだよな?」
 そこんところ白黒はっきりしろと問い詰める。

 なのに衛宮はあたしの言葉にぽかんとしていた。
 言われて始めて己の本心に気付いたのか。
 それとも見当違いの問いだったのか。
 それからひとしきり可笑しそうに笑った後、
「またな美綴」
 また明日とでも言うような素振りで去っていった。
 まったく最後まではっきりしない奴だ。
 呆れつつあたしも学校を後にする。
 毎日通った坂道を歩きながら、帰ったら遠坂に連絡しようと予定を立てる。
 夏と冬ぐらいは、首に縄を引っかけてでも一緒に連れて帰ってこいと。
 釘を刺しとかなきゃな。
 自然と足取りは軽くなった。

 *****

 扉の外に近付く人の気配。
 わたしは布団の中に潜り込む。
 案の定、わたしを呼ぶ声がした。
「お嬢さま。いい加減、機嫌を直してくださいませ」
 知らない。
 メイドのセラの困った声、でもわたしは無視した。
「もういいではありませんか。お嬢さまの御心を無下にするような、あんな下賤な輩など忘れてしまえば」
 そうよ。
 シロウなんかもう知らないんだから。
 人がせっかく忠告してあげたのに。
 シロウのバカ!
 脳裏に浮かんだ青年に自然と悪態が零れ出す。
 その内、疲れた吐息とともに離れていく足音がした。
 やっといったわね。
 どうやらしつこい彼女の撃退に成功したとほくそ笑む。
 けどそれも一瞬、彼の事を思い返したわたしは布団の中で唸り続けた。

 ひとしきりシロウを罵倒し終えると、再び扉の外で立ち止まる足音。
 もう一人のわたしのメイド。
 彼女はその場に立ち続け、無言で何かを問いかけてくる。
 非難されているような空気が堪えるも、わたしは意地になって黙秘を決め込んだ。
 そして、ついに口を開いたのは彼女から。
「イリヤ、ホントにいいの?」
 よくない。
 良いわけがない。
 けど、たとえ誰であろうとシロウは止められない。
 きっと彼女でも無理。
 そんな偏屈なところはキリツグと一緒。
 似てほしくない所まで似ている。
 やっぱり親子だ。
 でも、どうしたらいいのだろう。
 このまま行けば、シロウはきっと彼になる。
 それだけは許せない。
 でもどうしたら……。
 再びくり返し始めた思考のループに、頭を抱えていると、扉の外から再びリズの声がした。
「そういえばイリヤ、この前タイガからこんな言葉を習った」
 珍しく饒舌なリズ。
 けど今はそれどころじゃない!
 リズのささいな言動さえ、無性に苛立つ。
 無視しようと毛布を深く被ろうと、
「押してもダメなら、引きずっていけ」
「それを言うなら、引いてみろでしょ!」
 思わず突っ込んでいた。
 それはもう毛布が吹き飛ぶほど盛大に。
「そうともいう」
 そうとしかいわないわよ。
 悪びれないリズの相槌に内心で毒突く。
 まったくタイガはろくな事を教えないんだから。
 如何にも彼女が口にしそうなへんてこな言葉。
 困ったものだが、どんな時でも一歩も引かない彼女らしい。
 いやむしろ、あの頑固すぎる弟を持つ身としては、それでちょうどいいのかもしれない。
 どちらも引こうとせず、結局はシロウが折れる二人の口喧嘩が想像でき、
「もうバカねぇ」
 自然と苦笑いが込み上げた。
「やっと笑った」
 一緒にいるから分かる安堵の響き。
 どうやら心配を掛け過ぎたらしい。
 軽くなった心とともに、閉じていた扉を開け彼女を部屋に迎え入れる。
 自分の不徳を素直に詫びた。
「面倒かけたわね」
「もう大丈夫?」
「ええ、それで少しお願いがあるんだけど」
 わたしは思い付いた企みを相談する。
 せっかくだから、もう一人の姉の言葉を参考にさせてもらおう。
 気付けば、わたしの中の悩みは、綺麗さっぱり消えていた。

 *****

「まいったなぁ」
 士郎は大橋の歩道から、沈みゆく夕陽を眺めていた。
 珍しく彼は自分自身の事で悩んでいた。
 自分で自分がよく分からなかった。
 それというのも、学園の後に立ち寄った柳洞寺とバイト先で同じような誘いを受けたのが原因だった。
『後生だ衛宮、俺と共に仏門に入ろう。お前ならこの寺を任せられる』
『ねえ、エミヤやん。本気でうちの店継ぐ気ない?』
 本格的な修行のため剃髪した友人と、長年お世話になったバイト先の上司から再三に渡って聞かされた誘いの言葉。
 いつもなら嬉しいがきっぱり断る筈の誘いを、何故だか今日は惜しいと思ったのだ。
 彼らが示してくれた道は魅力的だが選べない。
 それが彼自身の根幹に根差した在り方だったからこそ、余計に分からなくさせた。
 なんで俺……。
 そういえばと思い返す。
 美綴に言われたとき感じたことも、少し似てるな。
 何故か自分では考えもしなかった、またこの街に帰ってくるという選択と浮かんだ思い。
 また帰ってこよう。
 そう思ったらなんだか心が軽くなった。
 どうにも自分はこの街から離れがたく思っている。けれどそれは留まれるほど強くもない。
 妙な気持ちの出所がはっきりとせず、士郎は橋の上で立ち尽くしていた。
 突然それを破る音がした。
「なーに、たそがれてんのよ士郎」
「いいだろ別に」
 いつの間にか彼の横には大河がいた。
「準備は? 出発明日でしょ」
「もう終わってる」
 彼女はマジマジと彼を見た後、小首を傾げた。
「じゃあ、なにしてんのこんな所で」
「なんか。はっきりしなくてさ」
「ふーん」
 まるっきり納得していない大河の口調に、心配しなくとも夕飯までには戻る。
 そう言おうとした所で、急に腕を掴まれた。
「ちょっ、藤ねえ!?」
 いきなり引きずられ始め抵抗するも、
「いいから、ちょっと付き合いなさい」
 それから無言のまま自宅まで連行された。

 *****

「なんなんだよもう」
 着いた場所は自宅の道場。
 わたしは士郎の言葉に耳を貸さず、壁に掛けられていた竹刀を投げる。
「これから一本付き合いなさい」
「いいけど、別に」
 不満を見せつつ頷く士郎を尻目に、わたしはもう一本の竹刀を手に取り、ゆっくり正眼の構えを取った。
「ただ、もし貴方が負けた場合は、留学やめなさい」
「なんだよそれっ!」
 勝手な言い分だと彼は怒りを露にするが、取り合わない。
 ただ無言で構え続ける。
 そんなわたしを士郎は迷ったような視線で見た。
 それでもわたしは黙って竹刀を構える。
 何を悩んでいるかは知らない。
 けれど此処で悩むくらいなら、やめてしまった方がいい。
 半ばそう本気で考えながらも、ついわたしは可愛い弟の後押しをしてしまう。
「迷っているなら、ここで負けてしまいなさい」
 そして彼は何もかも吹っ切ったような顔で、ゆっくりと竹刀を構えた。
 うん、それでこそ士郎。
 でもそう簡単には負けてあげないんだから。
 半ば八つ当たりだとは思いつつ、姉の意地を示すべく本気で打ち込もうとした。
 瞬間。
 士郎の唇が微かに動き、
 スパン!
 あっけなく面を取られた。
 何が起こったのか、ようやく理解したわたしは、悔しさを噛み締めながら士郎を睨む。
「何かしたでしょ今」
「ああ」
 素直に認める人間離れした動きを見せた弟。
 一体どんな手を使ったのか。
 反応できなかった悔しさはあれど、真剣勝負だ、それもまたありだろう。
「まあいいわ。それで気は済んだ?」
「それは俺の台詞だ」
 と言った後、竹刀を片付け道場を後にする。
「すぐ夕飯作るから、おとなしく待ってろよ」
 それから彼はいつも通り茶化しながらそう言うと、
「ありがとうな藤ねえ」
 少し照れくさそうに背を向けた。
 まだまだ手のかかる弟だ。
 そう思いながらわたしは、誰もいなくなった道場で一人静かに感慨にふけった。

 *****

「それとも、会いにいくのはセイバーさん?」
 はあ?
 見送りにきた藤ねえの唐突な言葉。
 いきなりに何を言うのかと驚き彼女を凝視した。
 何故か顰められた不満げな顔。
 意味不明だ。
「なんでそうなるんだよ?」
「士郎が行くのはイギリス。プラスセイバーさんの地元。ならイコールは逢引きじゃない!」
 なんなんだその計算式は。
 思わず痛み出した頭を押さえる。
 けれど言われてみればおかしなことじゃなかった。
 対外的には彼女はイギリスに帰国したと伝えてあったのだから。
 それでも事実を知っているからこそ違和感は拭えない。
 彼女はイギリスにはいない。
 もうどこにもいないのだ。
 そんな当たり前の事実の再認識に、ふと胸が詰まる。
 彼女と駆け抜けたあの街での思い出が過ぎり。
(ああ、だからか)
 俺は自分の本当の気持ちを知った。
 彼女と交わった唯一の場所。
 だから俺はどうにもあの街を離れがたく、
「本当のところ、どうなのよぉ?」
 それでも訪れた別れが、少し寂しかったのだ。
 俺は未だ不満げな藤ねえに笑いながら首を振った。
「いいや、違うよ」
「ほんとう?」
 しっかり頷いてみせる。
 そう違うのだ。
 これから行くのは俺の道だ。
 その過程で彼女と出会うことは決してない。
 それでも、心の何処かで信じ続ける。
 いつか出会う彼女に胸を張って誇れるように、今は自分の道を精一杯走り抜けようと。
 二人で駆け抜けたあの道を、今度は一人で。

 そうして手に入れた答えを反芻していると、
「ああーっ、やっと来た!」
 指をさして叫ぶ藤ねえに正面を向く。
 そこには、勢いよくこちらに駆け寄ってくる集団。
 一成と桜と美綴とネコさん!?
「遅ーいッ!」
「仕方ないでしょ。こっちは仕事があるんだから」
 怒る藤ねえに、走って疲れたのか気怠げにネコさんが返すと(それでも息一つ切らしてないのはさすがです)、
「すまん。思いの外、行を抜け出すのに手間取ってな」
 と言って、一成が申し訳ないとばかりに禿頭を下げてくる。
「いや、間桐がしぶとくてね。ほら」
「すみません。やっぱり来ちゃいました」
 がっちり横に抱えた桜を美綴が突き出す。
 俺は恥ずかしそうに頬を染めた桜に、本心を告げる。
「来てくれて、ありがとな桜」
「先輩……」
 本当にありがとう。俺なんかの見送りに来てくれて。
 言葉では伝えきれない感謝を少しでもみんなに伝わるよう、俺は深くゆっくりとおじぎした。
「先輩、わたし一緒には行けないけど。待ってます! ずっと待ってますから」
「そうそう、いつでもコペンハーゲン1号店の店長の座は空けとくからさ」
「柳洞寺の住職の件は、それまで俺が預かっていよう」
「向こうで落ち着いたらさ。一度遠坂と帰ってきなよ」
 ああ……俺は大馬鹿野郎だな。
 みんなにここまで言われてやっと気付くなんて。
 たとえこの先に彼女がいなくとも、俺は独りではなかった。
 送ってくれる仲間が、迎えてくれる家族がいる。
 その幸福な事実に胸の奥が熱い。
 突っ立ったまま何も言えずにいる俺に、藤ねえは何もかもお見通しだと、自慢げな笑みを浮かべて頷いた。
「だから士郎、何も気にせずいってらっしゃい」
「……行ってきます」
 擦れた俺の言葉は、空港の雑踏に解けて消えた。
 と思いきや。
「お嬢さまァァァ!!」
 突如ロビーに木霊した悲鳴に、見事なまでに打ち消された。

 *****

「遅ーい。もう待ちくたびれたじゃない」
「ねえ、衛宮くん。どういうことかしら。これ?」
 ロンドン・ヒースロー空港のロビーには、眉間に皺を寄せながら肩を震わせる遠坂がいた。
 その横には、邪気のない笑みで大変機嫌が良さそうなイリヤさん。
 分かっていたが、分かっていたが、なんてことをしてくれたんだイリヤ、オマエッ!
「よくご無事で、お嬢さまぁ」
「イリヤお待たせ」
 魔力の抜けた等身大の身代わり人形を片手に泣きつくメイド1号と、さも当然といった無表情で片手を上げるメイド2号。
 その当の主といえば、
「これからもよろしくね。お兄ちゃん」
 大変可愛らしくおじきをしてみせた。
 対する俺はといえば、
「ねえ、衛宮くん。納得いく申し開きをしてくれるのよね?」
 勘弁してくれ……トオサカ。
 機内で受けたメイド1号による罵詈雑言のフルコースの後は、青筋立てた彼女によるガンド混じりの説教のメインディッシュ。
 逃れられそうもない運命に、滲んだ視界で彼女の故郷の空を見上げた。

 セイバー、俺、もう満腹だよ。

 よく晴れたロンドンの空の下、士郎は早くもあの街を恋しく思いながら彼女を想う。

(完)















【あとがき】
コンセプト
 作品イメージはセイバールート後のロンドン編を書くとしたら、そのオープニング。
 冬木市を離れがたい士郎と、その周辺の風景はこんな感じかなと。
 実はホロウを経験しているという設定でバゼットさん(修行をつけてもらう)や
 カレン(桜のあとおしをする)も出そうかと思ったけど、まとまらなかったのでカットしました~。
 そして士郎はいつの日かラストエピソードにたどり着くのでした。

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