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■ London Scramble zero |
Fate/stay night |
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作者/バリゾウ:掲載/2006/12/23 |
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――そう、今になって思い出すのはあの霧の都での日々。中でも、この胸の奥に焼き付き色褪せずに残るのはあの日あの時の出会い。
――それは身を捩るぐらいの恥辱と共にあれども決して忘れることのできない記憶。
――あれはそう、夏を迎えたロンドンでの……
「London Scramble zero~7月のメアリー~」
ロンドンの郊外に位置し、世界有数の蔵書量を誇る大英図書館の一室を恐れ多くも占拠する輩がいた。
青いドレスを身に纏い、同じく青いリボンで特徴的なその金髪縦ロールを纏めた見るからにお嬢さまなその人は、魔道の名門であり、フィンランドの一貴族でもあるエーデルフェルト家の現当主ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトであった。
彼女は椅子に腰掛け視線を宙へ向けたまま、どこか在らぬ場所を見ているかのように微動だにしなかった。
見ると机の上には紙の束が乱雑に散在していた。
「――――!?」
(きました、主が降りてきましたわ――!!)
突如、机の上に転がっていた万年筆を手に取った彼女は、猛烈なスピードで置かれた紙に何かを書き殴っていく。
筆を持った手には無意識に放出された魔力が迸り、驚くほど濃度の高い魔力がその筆の先にまで薄く纏い、どうやら尋常でないスピードの速記に一役買っているようだった。
そして白かった紙は瞬く間に黒い文字で埋められていく。しかし、己の作業に没頭していた彼女は気づかなかった。
――コン、コン……
とある来訪者の存在を。
◆◆◆◆◆
ひと段落着いたルヴィアは、ようやくその手を止めた。それから筆を置き、黒い文字で埋まった紙の束に視線を落とした。
「――……問題ありませんね。ん?」
今自分で書いた文章を一度読み直し確認した後、ルヴィアは酷く咽喉が渇いていることに初めて気づいた。
そして、すでに時間が経ちすぎて冷めてしまった紅茶のカップに手を伸ばそうとして、
「へぇー、貴女にこんなものを書く趣味あったんだ?」
背後から聞こえた声にピタリとその場で停止した。
「えーなになに。ハリーは言った『ロン、さあ、君のその剣で僕を突いてくれ! 覚悟はできている』……エー、ナニナニ。ハリーは半月型の眼鏡をかけた老紳士に縋り付いて叫んだ『校長先生、僕を見捨てるんですか!? あの日交わした僕と貴方の絆はなんだったんですか!』…………えー、ハリー総受け?」
ルヴィアの背後から手を伸ばし数枚の原稿用紙を取り上げた凛は、目に留まった幾つかの文章を声に出して呼んだ後、気まずそうに問い尋ねた。
その問いにギギギと音が鳴りそうな程、ぎくしゃくした動作で後ろを振り返ったルヴィアは、己の背後に立っていた凛の姿が幻でないことを確かめた後、ようやく驚愕を示す悲鳴を上げた。
「ぴぎゃァ――!?」
「なによ、さらなる巨大怪獣にでもあった怪鳥みたいな声で」
「な、なっなっなっなんで貴女がここいるんですの、ミス・トオサカ!!」
ルヴィアは背後から突然出現した遠坂凛に食って掛かった。
「なによ、用があったから訪ねてきたに決まってるじゃない」
「そ、それは一体なんのようです、いえ、ど、どうしてここが? そ、それよりも、私の断りなく入って来るなんて非常識ですわ!」
動揺のあまり思いついた疑問を矢継ぎ早に投げかけるルヴィアに、凛は呆れながら溜息を吐き答えていった。
「まず、言っとくけどノックはしたわ、それも何度も。それと、この場所だけど、貴女の屋敷を訪ねた時に貴女の侍従だって方が教えてくれたの。そしてルヴィア、貴女への用だけど、合同課題の内容提出の締め切り明後日でしょう? 忘れていないわよね、何か他に疑問ある?」
凛の言葉に忘れていた重大事項を思い出した。この夏の間に出された必修課題のひとつで、他の魔術師との合同研究の成果を提出しなければならないのだ。
何故それが凛となのかは大いに不満を持ったが、とにかく二人で研究内容をどうするかで話し合ったのだった。
結果、互いの主張を曲げぬまま丸一日費やしたが結局決まらず、現在までもつれ込んでいたのであった。
この場所に来たのも凛が頷く以外にない研究案を考える為だったではないかと思い出したところで、聞き捨てならない凛の呟きが耳に入った。
「て、まさか貴女がやおい小説を書いているなんてね……」
「お待ちなさい! 貴女何を勘違いなさってるの! これは、貴族の嗜みとも思わなくもない殿方同士のめくるめくるボーイズでラブな愛憎劇などではありませんわ! 純粋なハリネズミの少年ハリーとその仲間たちが活躍するスリルとロマン溢れる児童ファンタジーですわ!!」
少しひきぎみの顔で呟いた凛にルヴィアは顔を真っ赤に染めて否定した。
己が書いてるものを間違われては堪らないとばかりに凛の手から奪い直した原稿用紙を一旦、机の上に散らばっていた原稿と合わせ順番通りにした後、再度凛の眼前に突き付けた。
その原稿を凛が読んでいる間、ルヴィアは鼻息を荒くして待っていたが、次第に熱が引き冷静な思考が戻ってきた。
(……あら? 私、何故ミス・トオサカに最重要機密とも言えるものを読ませているのでしょうか?)
小首を傾げた姿勢から我に返ったルヴィアは、ガバッと形容したくなるくらい凄い勢いで凛に向き直った後、凛の手の中でしっかりと読まれている自分自身の作品に再度絶叫しようとした所で、
「ふーん、結構面白いじゃないこの作品」
凛の予想外な感想にまたもやその場で動きをピタリと止めた。
「それは、本当ですの!?」
そして叫びながらルヴィアは再始動した。
「え、ぇえ? ざっと流して読んだ感じ、文章自体にはまだ粗が目立つけど、作品の全体構成も、キャラの心情もよく書けていると思うわ」
ルヴィアの噛み付くような問いかけに少しひきつつも、凛は作品を読んで感じた有りの儘の印象を口にした。
「ええ、そうでしょう、そうでしょうとも。やはり貴女にも分かりますか? 今回の作品には私、絶対に面白いと確信を持っていましてよ……」
共感者を得た嬉しさからか、またもや自分自身の世界に突入したルヴィアは勢いよく捲くし立てるように作品の解説を始めた。
取り合えずルヴィアの説明が終わるまで大人しく待っていた凛は、ここでようやく疑問に思ったことを訊いた。
「分かった、分かったわよ、貴女がこの作品にかける意気込みは。でもだったらどうして本にして出さないわけ?」
凛が読み通したところルヴィアの作品は一大長編もので、すでに単行本2冊は出版できる程の分量が書かれていた。ルヴィアの財力なら、本の一冊や二冊を出版することは容易い筈だった。凛は常日頃からいろんな書店へ冷やかしに行くが、こんな作品は一度も見たことが無かった。
だから、単純に訊いてみたのだが、
「ぇっええ、まあ、確かにいつかは本として出そうと思ってはいるのですが……」
言葉を濁すように口ごもったルヴィアはちらりと在らぬ方に視線を逸らした。
凛がその視線の先を追うと、机の上に散らばった数枚のデッサン用紙。
其処には、
「はぁはッ~ん。そういうこと?」
子供のラクガキのような絵がいくつか描かれていた。
明らかに作品のキャラクターを描こうとして失敗したラクガキを見て、凛は何か納得したかのように頷いた。
「言いたいことがあるならはっきり言葉にしてはいかが!」
恥ずかしそうにデッサン用紙を集め始めたルヴィアの様子に、凛はニヤニヤしながらもその中から素早く一枚抜き出し、デッサン用紙に筆を走らせた。
抗議の声を上げようとするルヴィアを尻目に手が霞むくらいの速度で筆を動かした凛は、すぐさまデッサン用紙をルヴィアに返した。
「これは!?」
突き返されたデッサン用紙に目を落としたルヴィアは、口と目をみっともなく開いたまま心底驚愕した。
何故なら其処には、想い描いていた世界風景とその世界で生きるキャラクターたちがまさしく自分の想像通りに描かれていたのだ。
「どう? 単なるラクガキだけど貴女のイメージとしてはそんな感じでしょ。これでも以前、挿絵のバイトをしたことがあるのよ。イラストレーターを募集しているのなら考えてあげるけど?」
人の弱みを見つけて面白がっているのは明らかな凛に、ルヴィアは助けなど必要ないと断言しようとしたが、言葉を発する瞬間、何故か躊躇い口を噤んだ。
そして、もう一度紙に描かれたイラストへ視線を落として暫く見詰めた後、迷いの消えた真剣な表情で告げた。
「では、お願いしますわ。内容はこちらが指定した場面のイラストを候補含めて三点ずつ、それと表紙、裏表紙、中表紙、加えて主要キャラクターの紹介用イラストを見開きで。期日は一週間後でよろしくて?」
淡々と依頼内容を告げるルヴィアに一瞬驚くも、凛はすぐに悪戯めいた笑みを引っ込め、対等な取引相手に向ける顔で訊いた。
「ふーん、随分キツイ締め切りね。その内容でもできなくはないけど、仕事として請け負うならそれ相応のものを貰うわよ」
「えぇ、勿論です。前金でこれだけ。後は仕事の出来次第では、貴女の言い値でお支払いしますわ。いかが?」
どこからともなく取り出した電卓で提示してみせた前金の額は、無駄な出費はビタ一文許さないルヴィアだとは思えぬくらい破格の待遇だった。
この依頼がルヴィアの本心から出た嘘偽りないものだと判断した凛は、それならばこちらも納得させるものを期日までに描いてくると告げ、ルヴィアから本文原稿と前金分の小切手を受け取った。
その後、凛としては本題だった研究内容の話し合いに移った。
珍しくルヴィアの反論が無いまま凛の案を主軸にすることで話が纏まり、凛が部屋を退出しようとしたところで、
「ミス・トオサカ、そういえば貴女はどんな作品の挿絵を描いていらしたの?」
ふと、投げ掛けられたルヴィアの疑問に凛は、ぎくぎくと強張るように歩みを止めた。
「べ、別にたいしたものじゃないわ。有名じゃない作品の挿絵だしね。今じゃ絶版になっているし」
「そうなのですか? それは残念ですわね。少し興味があったのですが……」
さほど気にしていない質問だったのか、それ以上は引き止めてこなかったルヴィアをこれ幸いとばかりに凛はそそくさと逃げるように退出していった。
部屋を出た後、凛は一気に老け込んだように見える顔で呟いた。
「言えない。まさか、ライトノベルのそれもエロの方の挿絵を描いていただなんて。その時のペンネームが櫻アヤ子だったなんて、口が裂けても言えないわよ……」
そして凛は、聖杯戦争後の資金繰りで様々なバイトへ身を投じた灰色の日々に思いを馳せるのだった。
一方その頃、そんな凛の苦悩を知る由もないルヴィアは、己が書いた本が全世界で売り上げ1億部の大ベストセラーになる夢を見るのであった。
◆◆◆◆◆
時間は流れ、イラスト締め切り前日の夜、凛は共同で借りているアパートの自室で一人黙々と筆を走らせていた。
「よし、終わった――」
そう言って明日までの課題を終わらせた凛は筆を置き、座りっぱなしで凝り固まった体を解きほぐそうとその場でウーンと背伸びをした。
――コン、コン
タイミングよくノックされた扉の外に、凛は呆れたようなそれでいて嬉しそうな微苦笑を漏らして声を掛けた。
「どうぞ、開いてるわ」
同時に扉が開き、湯気の立つカップを載せお盆を運ぶ少年の域を超えたばかり青年が入ってきた。
凛の前にカップを差し出した後、青年は口を開いた。
「お疲れ、遠坂」
「ありがとう、衛宮君」
凛は鼻腔に広がる香りに心が落ち着くのを感じながら冷めぬ内にと、淹れてくれた紅茶に口を付ける。
口に広がる仄かな甘味と心地良い香りに、最初の頃と比較して紅茶の淹れ方が信じられぬほど上達しているのを感じた。
記憶の中のある人物の淹れてくれた紅茶の味にどんどん近づいているようだとそんな気すらした。
そう思ったのも束の間、凛は浮かんだ感慨を打ち消し、このアパートの同居人兼魔術師としての従者である目の前の青年、衛宮士郎に冗談めかして告げた。
「ん、合格」
「そうか、ならよかった」
凛の言葉に一度笑みを浮かべた後、士郎は退室した。
士郎が出ていた自室で凛は残りの紅茶を飲みながら、一人もの思いに耽っていた。
――それは、あの戦場でかつて経験した幾つかの出会いと別れ、そしてこのロンドンまでの経緯……
――プルルル
凛の回想は突如鳴り響いた電子音と、
「悪い遠坂、今手が離せないから頼む――」
キッチンから聞こえた士郎の声に霧散した。
凛は、途切れた回想を少し残念に思ったが、電話に出る為にリビングに向かった。
凛が受話器を取り耳に当てると、
「そちらはミス・トオサカの自宅で間違いありませんね?」
断定の口調での聞き覚えのある第一声が聞こえてきた。
「て、その声はルヴィア?」
「そう、私です。こんばんは、いい夜ですねミス・トオサカ」
ルヴィアの言葉に、窓の外に広がる雲ひとつ無い月夜を横目で見ながら、凛は浮かんだ疑問をぶつけた。
「ええ、まあいい夜ね。でもわたし、貴女にここの番号教えてないわよ?」
「確かに勝手に調べさせていただいた無礼は謝罪いたしますが、依頼人としては仕事の進行具合を確認させていただきたく思いまして、お電話させていただきましてよ?」
「?」
ルヴィアの話の内容が一瞬理解できず、凛は何のことか訊こうと……
「!? ああ、挿絵の件ね! もちろん、大丈夫よ、すでに終わっているわ」
「そうですか。無用な心配だったようですね。それでは明日11時に……、ええ、ピカデリーサーカスの噴水前で待ち合わせるのはいかが?」
ルヴィアは場所を間違えることのないように、ロンドンでは有名な待ち合わせ場所を指定してきた。
その言葉に、凛は「ええ、了解、それでいきましょう」と告げ受話器を下ろした。
「まっずー、忘れてた……」
受話器越しであった為ルヴィアには分からなかったが、凛は顔中に冷や汗を掻きながら会話をしていた。
何故なら、今の今までルヴィアからの依頼を完全に忘れていたのだ。
「おーい、遠坂、電話誰からだったんだ」
士郎の言葉に壁にかかっている時計を見ると、時刻は丁度夜の7時を告げるところであった。
キッチンからはもうすぐ完成するであろう夕食の香ばしい匂いが漂ってきて、
――くぅ
と、その匂いに釣られた凛のお腹は可哀相な鳴き声を上げた。
(そういえば、今日は昼も抜いてたんだっけ……くっ!)
思い返せばこの数日、課題を終わらせる為に徹夜の連続で食事もまともに取っていなかった。
しかし仕事して請け負ったからには、何としても朝までにイラストを終わらせる必要があった。
「ごめーん、士郎! わたし、用事できたから夕飯いらない――!」
キッチンでもうすぐ夕食の準備を終えるはずの士郎に申し訳ないと思いながらも一声かけ自室に戻った。
そして凛は、机に広がっている明後日までの締め切りの完成した論文を横にどけ、うっすらと涙が滲んだ鬼の形相でイラスト制作にかかっていった……。
◆◆◆◆◆
窓の外では真っ白に明けた空の下、カラスが鳴きロンドンの朝を告げる頃、暗く澱んだ怨念が篭った部屋の中で、遠坂凛はラスト一枚となった表紙の着色を終えるところだった。
凛が作業している机の上には完成したイラストと、矛盾のないように参照した原稿が散乱していた。当の凛本人も髪は見るも無残に乱れ、その瞳の下にはくっきりクマができていた。
そして肩から指先まで否頭から爪先までその身全体がプルプルと勝手に痙攣していた。それでも尚、最小限必要な右手の震えを気力や意志を超越した何かで必死に抑え、遂に凛は最後の色を入れ終えた……。
――バタンッ
その直後、一言も発することなく、凛は力尽きて机の上に倒れ伏した。
ただただ仕事への中毒性が成せる技だったのか、無意識の動作で完成したイラストは汚れぬように脇へしっかりとどかされていた。
死んだように寝入った凛の横で、窓の隙間から射し込む朝日がキラキラと、凛の仕事を誇らしげに照らしていた。
しかし、窓の隙間からその様子を付け狙う黒い死神の存在に、哀れ凛は気づくことができなかったのだ……。
◆◆◆◆◆
ロンドンの32特別区のひとつシティ・オブ・ウェストミンスター区の広場ピカデリーサーカスの噴水前でルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトは待ち惚けを食わされていた。
時刻は正午丁度、念願である己の書いた作品を本にして世に出せることに興奮を隠し切れなかったルヴィアは、まだ空が明けぬ朝4時から目を覚ましていた。
それから午前中を屋敷の中でそわそわと落ち着きなく、時計を眺めては溜息を吐くといった奇行を繰り返して過ごしたルヴィアは、仕舞いには側近の女侍従に仕事の邪魔だと屋敷を追い出され、目的もなくロンドン市街を散策した後、約束の1時間前から天使像が聳える待ち合わせの噴水前で待っていたのだ。
1時間も遅れている相手に、流石に痺れを切らしたルヴィアの機嫌は、周囲に剣呑な空気を撒き散らすほど危険な域に達していた。
その証拠に日差しを遮る為に差していた日傘が、時折ぶるぶると震えている。
「遅いですわ、何をしていらっしゃるのですかミス・トオサカは。はっ! まさか――!?」
凛が遅れている理由を考え始めたルヴィアは、最悪な想像に行き着いた。
(私の作品の素晴らしさに目を付けて自分の作品だと偽って出版社に横流しをしたのでは――お金に意地汚いあの魔女なら有り得ますわ!!)
作品の印税で得た札束をほくそ笑みながら数える凛の様子が、ルヴィアの妄想内を駆け巡っていた。
最悪な展開に打ち震えたルヴィアは突如周囲に響き渡る大声で叫び、
「そうはさせませんわ――! て……」
駆け出そうとした途端、急ブレーキを踏んだ。
何故なら、前方から息も切れ切れで疲労困憊な様相を呈した凛が、ふらふらと走ってきたのだ。
「ゼハァ、ゼハァ、カッハァ……」
「ようやく来ましたのね、ミス・トオサカ。通常でしたら違約金が発生する程の遅刻ですけど、まあ、今回ばかりは大目に見てあげましょう」
先程まで完全に疑っていたことなどすっかり忘却したルヴィアは、その声色と顔色に喜びを隠せぬ態度で凛を迎えた。
その声に反応してふらふらと顔を上げた凛は何処か虚ろな瞳でルヴィアを眺めた後呟いた。
「ああ、なんだルヴィアか、そういえばお待たせ」
「なんだではありません、ミス・トオサカ。それで肝心の依頼した物は何処に?」
見たところ手ぶらの様子の凛に嫌な予感を覚えたルヴィアは肝心の要件を尋ねた。
「うんそう、依頼されたイラスト、それなんだけどね……」
何かを誤魔化すように言葉を濁す凛にルヴィアは眉を顰めて詰問した。
「まさか、出来ていないなんてことはありませんわよね?」
「ヤダなー。そんなことあるわけないじゃない。完成はしてるわ。完成は……」
またもや何か言い難そうに口を噤んだ凛に我慢できなくなったルヴィアは凛の襟元に掴みかかった。
「では、どこにあるというのです! はっきり白状してはいかが――!!」
その途端、何かが風を切る音と共に、
――バサ、バサァッ――
突如二人の視界に影が差した。
「あッ――!」
次の瞬間、空を見上げていた凛は大声を上げ、ルヴィアの背後を指差した。
「え、何ですの?」
反射的に凛が指した方向に目を向けると、
「クワァ――」
三羽のワタリガラスが、噴水の頂点に佇む翼を広げた天使像の上に留まっていた。
「あのね、依頼されたイラスト、預かった原稿なんだけど……」
気まずそうな声音で凛は、再度噴水を指差した。よく見ると、天使像の上に留まるカラスたちは口に紙の束のようなものを咥えていた。
「ま、まさか……?」
「うん、ごめん――あれが、そう」
心身共に疲れた声で肯定された凛の言葉にルヴィアは思わず言葉にならない絶叫をした。
「□×%#&――――!!」
◆◆◆◆◆
凛の口から説明された事の起こりはこうだった。
――今朝凛が目を覚ますと、窓が全開になっていることに気づいた。
見ると、机の上に置いてあったはずの原稿とイラストがない。慌てて探すものの、部屋にはないことが判明した。
ひとまず冷静になって考えてみたところ、何者かが窓から侵入し盗んだ可能性が最も高いと判断に至る。
それならばイラストに付着した己の魔力の残滓をたどれば現在の在り処が分かるのではないかと思い至り、魔力を探ってみたところ犯人はロンドン中を自由に動き回っていることが判明する。
そして、疲労した体を抱えながらもその犯人の動きを追っていたところで、ルヴィアに出会い現在へ繋がるのであった――
「それで、今のこの状況があるというわけですか――」
息も切れ切れに説明する凛のことは放置し、ルヴィアは怒りでこめかみをぴくぴくさせながら呟いた。
二人は口論をしている間に噴水から飛び立っていったカラスを追って、ロンドン市街を駆け抜けているところであった。
怒り心頭ながらも獲物を狙う獣のような俊敏さで駆けるルヴィアと対照的に、徹夜三日目に突入していた凛は疲労困憊で死に掛けという言葉が相応しいゾンビのようにふらふらと体を揺らしながら辛うじて足だけが動いていた。さすがの凛も現状を招いたのが己であることを自覚しているからか文句ひとつこぼさず走っていたが、遂にその顔色さえ青みがかって怪しくなってきた。
「ねぇ、ルヴィア? 原稿のコピーはとってないの?」
一縷の望みに縋って問いかけた凛の言葉にルヴィアはきっぱりと答えた。
「私、生原稿主義ですの。それにたとえコピーがあったとしても私の作品をどこの馬の骨に奪われるかも分からない状況を見過ごせませんわ!」
ルヴィアの言葉に凛は引き攣った泣き笑い顔を浮かべながらも、先程から追跡している方角に嫌な予感を覚えていた為もう一度問いかけた。
「ねぇ、ルヴィア? もうひとつ訊くけどこの方角って、まさか……」
「えぇ、あのカラスたちには大分離されてしまったみたいですね。この方角ですとロンドン東部、グリニッジ天文台の方ですわ」
魔力の残滓をたどるとどうやらカラスたちはテムズ川に沿って東に移動し、ロンドン郊外のグリニッジ地区に入ったようだった。
その言葉に凛は最後の力を振り絞って恐る恐るルヴィアに尋ねた。
「ねぇ、ルヴィア、さすがに地下鉄かバスを使わない? 自由が利かないというならタクシーでもいいんだけど、もちろん代金は半分出すからさ――」
ルヴィアは凛の言葉に不快そうに顔を歪めはっきりと拒否した。
「私、無駄な出費は好きではありませんの。それに本日現金を持ち歩いておりませんわ」
「あぁ――そうなんだ……」
言外に込められたこのまま走り続けるしかないという死刑宣告に凛はゆっくり最後の力が抜けていき、同時に肉体が奈落の底へと沈んでいくのを感じた。
「ごめん……限界……」
「何をしているのですかミス・トオサカ! 貴女、こんなとこで休んでいいと思っているのですか――!!」
凛を抱き起こし遠慮容赦ない往復ビンタで覚醒を促したが、一向に目を覚ます気配のない凛にルヴィアは諦め置き捨てていくことに決めた。
「ちっ、使えないですわね。仕方ありません、あの黒い畜生どもを捕まえるのは私だけでも十分ですわ――!」
今一番憎き敵を思い出したのか猛然とダッシュを再開したルヴィアは去り、後に残されたのは行き倒れた浮浪者の如く道端に突っ伏した凛。
ルヴィアが放り捨てた場所が固い地面ではなく芝生の上だったのは、せめても慈悲なのかは定かではない。
ただ――凛の眠るその表情はようやく求め続けたものを手にしたかのような、穏やかさに満ちたものであった。それだけは確かだった。
◆◆◆◆◆
一人でカラスたちを追ったルヴィアがその後どうなったかというと、見るも涙、語るも涙な惨状であった。
簡潔に説明すると、グリニッジ天文台で羽休みをしていたカラスたちに追いつくも、相手は数の有利を武器に三方向へと飛び去った。
無論、原稿も三方向に離散し、さすがのルヴィアもどの方角に向かうか判断できず迷っているうちにまたカラスたちと距離を離されてしまったのだ。
「キィッ――――!!」
自らの無様な失態に怒髪天を衝いたルヴィアは、何もかもかなぐり捨てて、鬼神の如くの速度と形相でカラスたちを追い掛け回した。
ロンドン南西部ウィンブルドンのスタジアム内にカラスが入れば同じく入場して追い駆け回し、ノッティング・ヒルのポートベロー・ロードで買い物客を縫うように追い駆け回し、ベーカー街のシャーロック・ホームズ博物館内にカラスが入ればしぶしぶ5ポンド払って入場し追い駆け回し、バッキンガム宮殿をカラスが横切ればそれを追って交代儀式の途中だった近衛兵の列を横断し不審人物として追い掛け回され、現在ギネスに登録されている世界最大の観覧車ロンドン・アイへ器用にもカラスが乗り込むと続いてカップルが乗ったカプセルにお構いなしに便乗し、頂上付近でカラスが飛び立つとそれを追うようにカプセルから飛び出そうとしたが、同乗していたカップルに必死な形相で掴み止められしぶしぶ断念した。
カラスたちを追ってあったかもロンドン観光でもしているかのようにロンドン中を駆け回ったルヴィアはその後、遂にカラスたちと正面から対峙していた。
場所は敵の本拠地とも言えるワタリガラスたちの住処、ロンドン塔。
その中央にあるホワイト塔の屋根の上でルヴィアとカラスたちは向かい合っていた。
「フフ、もうここまでですわ。これ以上逃げることは許しません」
さすがのルヴィアもロンドン中を駆け回った所為でどこか壊れた笑みを浮かべながら、ゆらりと手を差し出して最後通牒をカラスたちに告げた。
「今ここで、大人しく私の作品を返せば、ローストチキンにするのだけは大目にみて差し上げますわ」
「クヮックワー、カァカァー、ガアガア」
その言葉にカラスたちはルヴィアへ尾羽を向け挑発するように左右に振りながら、咥えた原稿を落とさぬように器用に鳴いた。
この三匹のワタリガラスたちは普段は飛べないふりをして、他のワタリガラスたち共にこのロンドン塔でぬくぬくと人の手によって飼育されていた。
その為、完全に人間を軽く見ていたのだ。
「そうですか。交渉決裂というわけですね。それならば――」
原稿を差し出す様子のないカラスたちにルヴィアの口から淡々としたそれでいてどこか冷たい言葉が零れる。
最後にルヴィアは一瞬躊躇うも、
「私の手に戻らないというならば、いっそその存在ごと消えてもらいますわ――!!」
突き出したままの手に魔力を込めた。
ここにきてようやく野性の本能が訴える危機感に気づいたカラスたちは一目散に飛び立つが、途中で透明なガラスに阻まれているかのようにそれ以上先に進めなくなる。
「グワァ――!!」
それでも尚、カラスたちは焦ったように鳴き羽をバタつかせ進もうとするが、次に呟かれたルヴィアの言葉にピタッと動きを止めた。
「無駄ですわ。すでにこの空域は360度を完全に私の結界で囲んでいます」
ルヴィアの差し出された手からは魔力が渦巻き、その魔力の渦からは夏だというのに蒸気が上り陽炎で空間が揺らめいて見えた。
神の金属でも熔かしそうなくらい熱い魔力を纏った掌を差し出したまま、ゆっくりと優雅とも言える仕草で歩み寄ってくるルヴィアにカラスたちは恐怖で震えた。
「さあ、安心してください。原稿の消し炭ひとつ残らないよう燃やし尽くしてあげますから」
そう微笑を浮かべながら告げたルヴィアにカラスたちの恐怖は最高潮に達し、嘴を恐怖でがたがたと鳴らした途端、
「あっ!」
その場の誰もが予期せぬ形で原稿はこの危機的状況を脱出した。
ひらひらと宙を舞い四散して落下していく原稿たちに、
「お待ちなさい――!」
反射的にルヴィアは飛びついた。その瞬間、周囲に張っていた結界も解け、我に返ったカラスたちは一目散で空へ飛び逃れていった。
反対にルヴィアは、
「キャア――――!!」
重力制御の魔術を覚えていなかった為、地上へと落下していった――
◆◆◆◆◆
ルヴィアがロンドン塔の屋根の上でカラスと対峙していた頃、その様子を目撃した人たちの間ではルヴィアが自殺するのではないかと大騒ぎになっていた。
また同じ頃、ロンドン塔の横を流れるテムズ川の岸辺で遊んでいる途中に溺れてしまった幼い兄妹を助けた衛宮士郎その人がいた。
衣服が濡れてしまったこと以外は子供たちに問題がないことを確認すると、士郎は安堵の息を吐きながら笑みを浮かべた。
子供たちの塗れた衣服を乾かす為、子供たちの手を引きながら移動しようとしていたところで、士郎の耳にもそのロンドン塔での騒ぎが届いた。
その瞬間、自分たちを助けてくれた青年の顔が笑顔から一転、怖いくらい真剣味のあるものに変わったことに気づいた男の子は言わなければいけないと感じた言葉を口にした。
「行ってあげてお兄ちゃん!」
士郎は少し躊躇うように幼い男の子を見つめた。
「大丈夫、僕たちはここで待っているから、きっとその人もお兄ちゃんが助けてくれるのを待っているから!」
男の子はいやいやして士郎の手を掴んで離さない妹をしっかり抱きかかえて、幼いながらも真剣な瞳で士郎の瞳を見つめた。
――互いに視線を交わすのも刹那――
その言葉とその表情に背中を押され駆け出した士郎は、一度兄弟たちを振り返り「すぐ戻ってくるから」と言い残しロンドン塔を目指して去って行った。
「がんばれ――!」
凄い勢いで小さくなっていく正義の味方の背中を見送りながら、男の子は誇らしげな笑みを浮かべた。
◆◆◆◆◆
――落下までの短い時間、己の死に直面したルヴィアはようやく本来の鋭利な思考を取り戻していた。
ルヴィアが現状において自らが生き残る方法を冷静に分析した結果は、
(地面に激突する瞬間、最大魔力を叩きつけて落下の衝撃を緩和するしかありませんわね。けれど骨の数本は覚悟する必要がありますわ)
といったものだった。
かかっているのは己の命、その所為か、今までの生涯でもずば抜けて高い集中力を維持し地面はあたかもスローモーションで接近しているように知覚できた。
ゆっくりと実際は高速でタイミングを計り、魔力を込めていく。
「――!?」
しかし突如、ルヴィアの視界に影が差した。
何事かと上空を見ると、同じく落下してくる何かが日差しを遮っていた。
「なあっ――!?」
そしてそのシルエットは人間の形をしていた。
後を追って誰かが落下してきたという最も合致する見たままの状況を信じられずルヴィアは自分の目を疑った。
「!?」
またもやルヴィアは驚き慌てた。何故なら、追いついたその誰かの手によって力強く腰を抱きかかえられたのだ。
ルヴィアは目を凝らすも日差しで相手の顔は見えない。
――同調、開始――
明らかな魔術行使の呪文と同時に相手の体から流れ出る魔力の渦を感じ、反射的に警戒したルヴィアは即時対応できるよう身構えた。
「――!?」
だから、すぐに理解した。
自分では存在すら忘れていた日傘をいつの間にか手にした青年が、その日傘を差した瞬間に魔術で強化した傘でパラシュートを模して、落下速度を落としたことを。
加えて傘に日差しが遮られ、己の腰を抱いている者の正体が東洋人の青年だと分かったのはいいが、依然地面に激突するのを止められる気配はない。
それもそのはず、二人分の落下速度を完全に殺すには、傘の面積も時間さえも少なすぎた。
そしてルヴィアは瞬時に判断した。
(落下速度は落ちましたけど、二人分の衝撃を相殺する為に苦労が二倍になっただけですわね)
それでも、ルヴィアは自らが失敗するとも、青年を犠牲にして助かろうとも、考えなかった。
もうすぐそこまで迫っていた地面を見据え、再度魔力を込め直した。
「傘をしっかり持っててくれ!」
ところが耳元で青年に叫ばれ、反射的に未だ手にしていた傘の柄を強く握り締めた。
「何をするつもりですの――!」
青年の言葉の意図が分からず、ルヴィアは叫び返した。
地面まではあと僅か、このままでは激突は免れない。
「大丈夫絶対助けるから――!」
しかし、揺るぎない確信を持った言葉を風に掻き消されないように大声で青年は叫んだ。
――投影、開始――
「風王結界!」
「――!?」
突如、手に持った傘を強く浮かすように風が吹いた。だから傘を飛ばされぬように柄を持つ両手にさらに力を込めた。
そして、ルヴィアは傘を手にしたまま空を飛んだ。
まるで有名な児童書の登場人物ように風に乗って空を飛んだ……。
そんな驚くべき事実よりも青年の口から紡ぎ出された神秘に、ルヴィアは今度こそ自分の目を疑った。
一瞬で消滅したが彼女は確かに見た。青年の手に握られた黄金の光を。
あれはまるで、かの伝説に登場する聖なる剣の中の剣……
「もう、大丈夫だから」
青年の言葉にルヴィアは呆然と目を向けた。青年は少年のような無邪気な笑みでルヴィアに笑いかけた。
その青年の笑みを見た瞬間、ルヴィアの心臓は一度ドクンと大きく脈打った後、激しく高鳴りだした。
それから、青年の顔をまともに見ることができなくなったルヴィアは火照りだした自身の頬も相まって青年から必死に顔を背けた。
すると、それまで気づかなかった周囲を回転していた原稿の群れがルヴィアの目に留まった。
「これは、私の――!?」
ルヴィアの言葉に反応するかのように、原稿の群れは徐々に回転する周囲を狭め、遂にはひとつの束に纏まり青年の手の中に納まった。
途端に二人を持ち上げていた風が弱まりゆっくりと降下していた。
この時初めてルヴィアは自分がテムズ川を横断しロンドン塔の対岸まで飛んで来たことに気づいた。
地面に着地した青年は抱きかかえていたルヴィアに怪我がないのを確かめた後、どこか心ここにあらずのルヴィアの手を取って原稿とイラストの束を渡した。
「これ、大切なものなんだろう。じゃあ俺行くから」
地面の上にルヴィアを立たした後、一声かけてから駆け去っていく青年の後姿を見て我に返ったルヴィアは叫んだ。
「もし貴方のお名前は――!」
「シーロ――」
ルヴィアの耳にはそれ以上の単語はかすれて聞こえなかった。青年はそのまま橋を渡って対岸へと消えてしまった。
それと同時に体中から力が抜けてルヴィアは思わずその場に座り込んだ。
「――ルヴィア!」
遠くから聞こえてきた己を呼ぶ声に、ルヴィアはのろのろと首を持ち上げた。
見ると橋を渡って凛が駆けてくるところだった。
近づいてきた凛にルヴィアは一縷の望みをかけて尋ねた。
「ミス・トオサカ、貴女途中で東洋人の殿方を見ませんでしたか?」
「え、何でそんなこと聞くわけ?」
駆けつけた途端、聞かれた質問に凛は目をぱちくりさせて首を傾げる。
「いいですから、見たのですか! 見ていないのですか!?」
ルヴィアの掴みかかるような剣幕に、凛は仕方なく真剣に思い出した。
すると、途中で同居人と似たような後姿を見た気がした。
「ええと、東洋人の男性よね。あまり気にしなかったけど、うん、そう言えば知り合いと似ている人が駆けていったかも……」
「その方を知っているのですか!?」
凛の言葉に思わず反応するルヴィア。
「ええ、まあ、見間違いかもしれないけど……」
「構いませんわ。私にその方を紹介してください!」
その言葉にルヴィアには同居人兼従者である存在をまだ紹介してないことに凛は思い至った。
(そうね。士郎を紹介するいい機会ではあるし、それになんかやけに拘っているみたいだし……ものはついでに……)
ルヴィアの妙に固執する態度から凛は駄目もとで取引を持ち掛けてみた。
「まあ、構わないけど。その代わりに今回の失態はチャラにして欲しいんだけど――」
ルヴィアの表情を伺いながらも問いかけてみるが、みるみる強張っていくルヴィアの顔から咄嗟に冗談だと口を開こうとして、
「よろしいですわ。今回のことは違約金をいただこうと考えていましたが水に流しましょう」
「――ヤダなー、もうジョークに決まってるじゃ……て、え?」
まさか了承されるとは思っていなかった凛は耳を疑った。
「貴女のお知り合いのその方を紹介してくださるなら、今回のことはなかったことにすると言ったのです。それとも?」
「!? ダイジョブ! それでOK! じゃあ明後日にでも時計塔で待ち合わせましょう。詳細はまた連絡するから」
何はともあれ、凛はルヴィアの気が変わらない内に約束を取り付けた。
「それではよろしくお願いしますね。連絡お待ちしておりますから」
その後ルヴィアは屋敷から迎えに来た車に乗り帰っていった。
ルヴィアが去った後、一人残された凛は少しだけ残念そうに呟いた。
「こんな簡単に認めるなら、もう少しふっかければよかったか……」
◆◆◆◆◆
後日、凛から連絡を受けたルヴィアは時計塔の入り口へと歩みを進めていた。
その足取りは突然に強張ったようにぎこちないものに変化したと思ったら、次の瞬間にはスキップを踏むかのように軽やかなものに変化するといった具合に奇妙な程忙しなかった。
周囲の魔術師たちはルヴィアを見ては「あの人が例のロンドン塔の……」と何かを噂していたが、彼女は自分自身が注目の的になっていることなど気づく様子もなかった。
後日、不名誉な二つ名をもらったことを知り憤慨するルヴィアだが、今は凛との待ち合わせの場所へ足を急がせる。
「ルヴィアー! こっちよ!」
聞こえた声の方にルヴィアが視線を向けると、凛の横には東洋人の青年が立っていた。
(あの方は――間違いありませんわ!)
ルヴィアの目に映ったその人物は、まさしくロンドン塔で二つとない奇抜な状況下で出会った青年だった。
――――ドクン
ルヴィアは早まる胸の鼓動と歩調を抑え、青年の下まで歩み寄っていった。
そしてルヴィアは、二度目の邂逅を果たした目の前の青年に、できる限り自然で優雅な動作を心掛けてエーデルフェルト家の当主として礼をした。
「私はルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトと申します。先日は、助けていただいたのに感謝の言葉もなく失礼いたしましたわ」
「ああ、そんなこと気にしないでくれ。ルヴィアさんでいいかな? ルヴィアさんのことは遠坂からよく聞いていたから」
普段であれば雑だと言わざる得ない青年の言動も、今のルヴィアには素朴で飾らない態度に見え好感が持てた。
そして青年を見ていると胸が高く鳴る理由にルヴィアがはっきりと自覚しそうになった瞬間、
「ごめん、紹介まだだったわね。彼はわたしの従者であり、今のアパートで同居している衛宮士郎です」
何かを遮るように青年の横に立っていた凛が肝心の紹介を始めた。
凛ははっきりと横に立つ青年を示して己の従者だと明かし、最後に二人の関係の深さを表すように目線で暗に挨拶を促した。
「ああ、衛宮士郎です。今後も遠坂ともどもよろしく頼む」
そして、その言葉とやり取りを理解するまでの刹那、ルヴィアの世界は時を止めた――
「…………なあ!? それはどういうことですの!」
――再び時が動き出し我に返ったルヴィアは、寝耳に水の事実に凛へと詰め寄った。
「どうも何も、士郎はわたしの従者として時計塔に在籍しているのよ」
凛にとっては当然のことなので問い詰められても訳が分からないという表情を浮かべるしかなかった。
どうあっても覆らない事実だとようやく理解に至ったルヴィアはぷるぷると体を小刻みに震わせた後、士郎を睨み付け叫んだ。
「私の気持ちを裏切りましたのね――!!」
「ちょっと!? 何いきなりわけ分かんないこと言ってるのよ!」
今にも士郎へと攻撃を開始しようとしていたルヴィアに混乱しつつも凛は止めに入った。
目の前を遮った凛に今度はルヴィアの矛先が向かった。
ルヴィアは凛を睨み付け、大きく頷いた。
「ええ、そうですわね。この方は貴女の従者、従者の責任は主が取るもの――」
そしてルヴィアは目にも留まらぬ速度で白手袋を外し凛に投げつけ高らかに宣言した。
「――ミス・トオサカ、貴女に決闘を申し込みますわ――!!」
この日の日付は折しも七月七日。二人の間を隔てる溝は夜空を煌く天の川をよりも広く果てしなかった。
そしてルヴィアが士郎への気持ちにはっきりと気づくのはもう少し後のことになる。
今はただ、夏を迎えたロンドンでこの先繰り広げられていく、暑い熱い日々の始まりを告げるだけであった――
◆◆◆◆◆
一月後、ロンドンの小さな書店で無名の新人作家による新刊が発売されることになる――
――が、内容を誤解した店員が一部の女性向けジャンルの棚に配置した為、この時出版された児童書が稀代の名作として日の目を見るのは当分先のことになるのであった……。
(End)
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