Chaparral


 新市街の外れにある、とある大型デパートの駐車場――
 僅かな蛍光灯に照らされている薄暗い道を、制服姿の少年が歩いていた。
 辺りを窺いながら歩いているが、その足取りは速い。中性的な顔立ちはにっこりと微笑めば少女のように可愛く見えるであろう。しかしその目は幾分か窪んでおり、暗い光を放っている。どこか影の差した表情である。
 少年の名は速水厚志。熊本にて転戦を続ける5121小隊所属の、士魂号3号機複座型の専属パイロットである。
 劣勢となって久しい人類側の中、恐るべき幻獣共を狩り続ける聖なる異端児。少年ながら今となっては存在自体で人類誰もが希望と畏怖を知ることのできる唯一の存在である。

「……」

 速水は更なる奥の闇へと進み続ける。
 突然彼は弾かれたようにその場から飛び退き、近くの柱の脇に身を沈めた。歩いてきた方向へと拳銃を構えた。しばらくじっと息を潜める。しかし、やがて現れた影が野良犬であることを知ると、静かに立ち上がった。犬は突然現れた速水に気圧されるように、弱々しい泣き声を残して去っていった。
 尾行を想定しながらここまで来た為、何者かの尾行は無いはずであった。しかし、相手は芝村の一族であり、セプテントリオンの可能性もある。あらゆる可能性を想定しなければならない。僅かな油断もできない。
 再び歩き始めた。
 突き当たりにぶつかる。速水は曲がろうとしたが、突然のシュポッという高い音に振り向いた。
 大きな柱の傍である。無言の人影が立っていた。ライターを点けたらしく、わずかな火が揺らめいている。速水が振り返った音はライターの音だったようだ。暗い中人影の全体的なシルエットしか見えない。季節はずれのコートを着ているため、ゆったりとしたシルエットである。おまけに帽子を被っているため、どのような体格か全く分からない。速水はゆっくりと歩み寄った。ようやく全てを知る男に出会えたのだ。
 不思議と芝村舞とのこれまでの馴れ初めが頭をよぎった。


 速水には芝村舞というパートナーがいる。共に士魂号複座型にまたがり、地獄の戦場を駆けた少女。運命を共にする中いつしか愛し合っていた存在。もはや戦友であるとか、恋人という言葉では括れない関係であった。
 今まで速水がそのような存在を得ることは全く想像できなかった。なぜなら速水はヒトに期待しないし、する価値もないと考えている。自覚している部分は大いにあるが、歪んだ生い立ちと環境がそんな彼を作り出した。
 速水の両親は幻獣共生派であることを理由に処刑された。速水が物心つく前の出来事であり、それ以来幼かった彼は軍の実験施設に強制的に入れられることになる。その後実験体として男性には発現しない人口超能力のテストのため、異常な量の女性ホルモンを投与された。そのころの自分と言ったら……彼は今でも思い出すたびに苦笑いしてしまいそうになる。
 自己防衛の為、ヒトは全て敵であると思っていた。敵も味方も無い。自分か他のヒトか、が判断の全てである。まず実験施設の人間は利用できるものは利用し、全て事故に見せかけて抹殺した。その後偽造した身分が、「速水厚志」である。本名も、両親の姿かたちも知らない。ただ、彼の根本に染み込んだ世の中への敵愾心と、隠された凶暴性が彼そのものであった。
 その後姿を消した彼だったが、自由となるための権力を得るために軍へ入ることを考え、芝村の一族の末姫である舞に接近する。そして複座型のパイロットとなるまでは計算どおりであった。だが、速水には運命的ともいえる幸運な誤算があった。
 芝村舞である。
 舞は戦車学校に入った頃から高圧的な態度や物言い、何よりもかの芝村の一族に連なるものであるということから周囲より煙たがれ、孤立することが多くあった。「ぽややんとした男」を装っていた速水はあたかもそのような事を気にするような人間ではないかのように接していた。無論、その本心は打算的な懐柔の為であった。
 しかし、速見は次第に自分でも不思議に思ってしまうほどに激しく舞に惹かれていった。
 絶望な数の幻獣を単独で壊滅させ、後の語り草となる熊本城攻防戦などの激戦を経て舞も速水に惹かれていくことになる。
 やがて数回の「デエト」などを経て、付き合うようになるまで時間はそうかからなかった。


 速水が駐車場に訪れる頃より、時は七時間ほどさかのぼる。
 速水と舞は日曜日を利用し市立図書館にてプログラムについての検討を行っていた。閉館時間に図書館から出た二人は、桜満開の今町公園近くの川沿いの土手にて語らっていた。

「それにしても厚志。そなた最近疲れているのではないか」

「えっ、何故だい舞」

 驚いて振り向いた速水の顔に、舞は指を指した。

「その顔を見ればわかる……他の者は気づかなくとも私にはな。それに……私の話を聞いているのかいないのか分からない時があるぞ」

 舞は少し頬を赤らめながら速水を睨む。それを見て速水は素直に可愛いと思ったが同時に反省した。ここはとぼけることにする。

「そうかなぁ。自分ではいつもと変わらないつもりなんだけど」

「たわけ」

 舞は悪戯っぽく笑う。速水にしか見せない表情である。突き出した指で速水の鼻をピンと弾く。

「こんな時は嘘でも私に頼っておくのが良いぞ。そなたが心身共に持続力があるのは良く知っているが、本来パイロットは休息を取る義務がある。もっとゆっくり休め」

「そうだね。けれどもまだまだ課題が山積みだよ」

 舞は真剣な表情に戻る。

「その通りだ。今日のプログラム作成方法にしても、まだ私のレベルに追いついていない点が多い」

「けど、それについては舞が十分なレベルなんだから、僕が君ほどにならなくても大丈夫じゃない?」

「同じ複座型に乗っているとはいえ、私が無事な保証は無いぞ。同様に私もそなたの様な軽快な操縦方法を一刻も早く……」

「舞」

「な、なんだ」

「そんなこと言わないで」

 速水は優しく笑う。

「僕が絶対に守るんだから」

 とたんに赤面する舞。

「ば、ば、馬鹿者。な、な、な、な、何を今更」

「けど甘えても良いかなー」

「何だ」

 気を取り直すように、腕を組む。

「こんなに桜が綺麗だから、一旦帰って夜桜見物と洒落こもうよ」

「夜桜? う、うむ。いいだろう。それがそなたの甘えなのだな?」

「いや、その時に膝枕でもしてもらおうかな、と思ってね」

「……膝枕っ!! 何を言われても驚かないようにしたが……そなたはの悪いところは意地悪く事前にそうやって言うところだな」

 舞は再び速水を指で指しながらも後ろずさる。枝垂桜が舞の頬を優しく撫でた。その美しい情景に速水は思わず目を細める。

「あー。オッケーなのかい?」

「馬鹿者、オッケーとは何だ。了承したわけではないぞ」

「じゃあ駄目なのかなー」

「ああ、違うっ! いや、違うことは無いが……ええいっ。とにかく1900同地点にて集合だ。了解したな。人数分のサンドイッチを忘れるでないぞっ。ではしばしの間さらばだ!」

 必要なことだけまくし立てると、舞は砂塵吹き上げんばかりに猛スピードで走り去っていった。速水はのんきに手を振って見送りながらも、

(人数分って言っても、僕と舞しかいないことはわかりきっているのに……ちょっと無理言い過ぎたかな)

 このような日常の一コマのなかで、ふと彼は思う。自分は変わったのだろうか、と。
 孤独にして最も冷徹なモルモットに過ぎなかった過去があり、今の自分がいる。振り返らないようにしてはいるが、それは否定しようのない事実だ。無事に生き延びる、世界への復讐を果たすために存在していた自分。彼は造り笑いと甘い虚構の囁き、そして誰より深層を見つめた人間観察で必死に生きてきた。自由に自身を律し、自在に表情を操れる彼であった。そこには過去を振り返ろうとする余裕も意思もなかったのだ。
 だが、最近の彼は鏡に映った自分の表情を見て違和感を覚える。「本当にいいのか? それで」。彼自身がそう問いかけているかのようであったのだ。そして、彼は僅かな恐れを伴って思うのだった。――自分は変わっているのだろうか、と。


 1915。予定の時刻を15分も過ぎてしまっている。しかし、舞は一向に現れる気配は無かった。舞は今まで学業、訓練、そしてプライベートにおいて、時間には極めて正確であったため、珍しい。前例がないと言ってもいい。
 痺れを切らせた速水は人口水晶体にアクセスした。舞が作成した、特殊人口水晶体である。高度な同調能力を利用した、完全に速水と舞の間だけを繋ぐ回線であり、他者は一切関知できない。しかし、反応が無い。機能不全である。おかしかった。たとえ、舞自身が睡眠などで意識の無い状態でもこのような状態になることは無かった。

――舞の身に、何かが起きた?

 嫌な予感があった。


「強さとは? 人の持つ本当の強さとは?」

 広い駐車場に声が響いた。誰ともなく呟いたような声であった。

「簡単だ。私は思う、人の持つ根源的な強さとは弱さそのものなのだ。弱いから考え、弱いから身になんらかを纏い、弱いからなんらかを手に取った。それが結果的に勝利に繋がり栄えた。つまり、ヒトは基本的に弱さを内包した存在なのさ。それにどう向き合っているかで強さ、弱さを決めているに過ぎない」

 速水は構わず影に向かって進む。甲高い声である。軽さと知性そして絶対的な自信を内包しているような声である。

「だが、稀に。本当に稀に、弱きヒトの中から強さを持ったものが生まれ得る……だから、捨てたものではない、と私はまだ思うことができる」

「あなたたち、芝村を名乗る人間たちのことですか」

 速水は立ち止まる。ようやく、男の口元が見えるか見えないかという距離である。

「違うな」

 男は力をこめて言い、口元で笑ったかのように見えた。頬の傷がわずかに歪む。

「はじめまして、舞のお父さん。速水厚志と申します」

「ああ。不肖の娘が世話になっているようだな。お父さんだ何てやめてくれ。私の事は好きに呼べばいいさ」

「では、ユーリとでも?」

「少しは勉強したようだな」

「探りを入れてから、およそ七時間。こんなに早く面と向かって会えるとは思いませんでした。語られている伝説というものを過小評価していたかもしれない」

「いや、君が優秀なのさ。わずかな時間とわずかな手がかりを駆使して私まで辿り着いてしまった。速水厚志君。私までたどり着いた方法を簡単にご教授願えるかね」

「本題に入りましょう。昨日舞が誘拐されました。犯人は、恐らく芝村」

「何故そう思うのかな」

「まず最初に、他層世界のハッカーにコンタクトしようとしましたが、何らかの方法で妨害されました。また、他に誘拐の瞬間の目撃情報など、追ってみるべき手がかりが十ほどありましたがこれらは全ては用意されていた偽の情報でした。他層世界との接触を防ぐことや、情報規制の完璧さは反芝村のどの組織にもないものです。だとすれば、セプテントリオンであり芝村が行ったことであると考えるのが自然です」

 男は深々と煙草を吸った。

「いい線だな」

 声の質がほんの僅かに変わったように思えた。しかし相変わらず表情が見えない。速水は続けた。

「あなたへの接触ですが、私は舞との情報の共有は順調に行えておりますので。あと、坂上先生にも協力していただきました」

「坂上か……かの盟友ならば可能、か」

「坂上先生との接触の際も十分注意は払いましたが、彼はセプテントリオンを騙せている稀有な存在なので簡単に実現しました」

 Aは黙って煙草をふかしている。

「しかし、そこからがわかりません。一体何のために舞を」

「理由を知りたいのか。それで私を頼った」

「ええ」

 今や世界に隠然たる権力を持つ芝村一族だが、その実情には謎が多い。だが中には組織の外部にも存在が公然と知られた人物がいる。その中でも伝説的な存在がA、青の青などとも呼ばれる目の前の男である。また、舞が時々語る父親のことである。
 Aは煙草を捨てた。

「言わないならば、その懐にぶら下げた物を使おうって面だ」

「必要とあらば当然」

 ここで速水は初めて微笑んだ。速水にとって懐の拳銃を使うには上着のボタンが外れていた方が使いやすい。それを踏まえてのAの発言である。ボタンは外していた。

「その前に、ほんの少しお互いの話でもしないか。世間は物騒だ。一期一会なんて事は考えたこともないが、確かに次は無いかもしれない。お互い会う意思がって、こうやって会いたくて出会ったわけだ。軽い世間話があってもいい」

 少し考えるそぶりをしたが、速水は黙って上着のボタンを締めた。目で先を促す。

「君はラボ出身のようだが、どのような実験処置が君に対して行われているか理解しているのか」

「ある程度は自分のことは自分で調べてあります。超能力の発現の為の女性ホルモン大量投与。ラボから脱出する時に研究員たちから得た情報です。しかし、これは嘘でしょう。研究員たち自身嘘を信じ込まされていたと思います。セプテントリオンの目的はそれだけではないはず」

「そうだ。本当の狙いは君自身だ。君がどう育つかさ。竜の生成過程を知る為の実験が行われている……今現在もな」

 両者の間に緊張が走る。

「しかし、君を見れば分かる。やはり、竜は我々如きに制御できるものではあるまい…それをわかっていないのだ。芝村はおろかセプテントリオンも。実際は私にもな」

「冗談でしょう。あなたは世界の成り立ちでもご存知な方でしょう」

「世界の成り立ちよりも、人が分からないこともある。その証拠に、あの子は私の見立てでは既に死んでいるはずだった」

 Aはため息混じりに語った。

「熊本城ですね」

「ああ。そして君がほんの少しだけ覚醒するはずであった。きっかけさ」

「舞が死に、私が覚醒する。そうなる為の見殺しですか」

「……」

「できなかったのですね。そして、間接的に私を鍛えた」

「人もよく分からんような男だ。できることは限られているよ」

 Aは、宙を睨んだ。

「介入を繰り返し条件を整え、成長の過程を見る。セプテントリオンとは実に悠長でこの上なく不遜な連中さ」

「彼らは舞をどうするつもりです。答えてください」

「今回のような強硬手段をとったのだ。処理する気なのだろう」

 速水は息を呑む。

「馬鹿な」

「方向転換さ。ことごとく予想を超える君に対し、恐れ始めているのかもしれないが、同時に多大な興味も持ち始めている。舞のよく言う、決戦存在ってやつとなるかどうかさ。そこで、変化を与える。醜い芋虫が蝶へと変わるには何が必要かわかるかな?」

「変化しようと思う動機でしょうか」

「渇望だ。変化の渇望だ。君がいやでも変化せざるを得ない状況を作ろうと考えた」

 速水は興味なさそうに頷いた。

「なるほど。それが彼らの理由。それであなたは舞をどうなさるおつもりです」

「どうもしないよ」

「……」

「君に助けてほしい」

「ふざけるな! あんたの娘だろう!? 何故救おうとしない!」

「私はもはや、舞とは会えない。会えばセプテントリオンが黙っていまい。必ず舞を捕らえようとする」

 再び煙草に火をつける。

「私の情報は血眼になって探しているはずだからな」

 舞は捕らえられてもいかなる尋問にも屈することは無いであろう。しかし、芝村の記憶のチェックは彼らの重要な任務である思想チェックと同様に自らの意思では防ぐことのできないものであった。

「生憎、舞を私が助けた所でセプテントリオンが黙ってはいませんよ。こうなった以上不本意ではありますが、全面的に争う覚悟もあります」

「その心配は無い。今回の一件は、芝村の組織の一勢力が起こしたに過ぎない。セプテントリオンにおいては内部抗争などありえないが、セプテントリオンの下で動く芝村においてはまだ歴史も浅いこともあり一族の総意でないことも起こる。舞を救出するにあたっては、かの勝吏ならば協力も辞さないだろう」

「なるほど。それを最初に言わないとは随分底意地の悪いことですね。それならば準竜師とコンタクトを取ってすぐにでも動きます」

「確かにセプテントリオンは不遜で愚かな連中だ。しかし、あの子に対してそれなりの利用価値も見出しているはずだ。殺すはずは無いよ」

 僅かな沈黙が流れる。Aは僅かに俯きながら煙草をふかしている。

「先ほどの話ですが」

「……」

 Aは視線だけで、速水を見た。

「本当の強さを持って生まれた者とは舞のことでしょう。彼女は誰にも口にしませんが理想と友情のために命を投げ出せる勇気を持っています。それの尊さをあなたはご存知のはずだ」

 Aは答えない。速水の視線は遠くに向けられる。

「私が彼女に惹かれるのはそこです。彼女の並ぶところない高潔な意思です。……しかし、確かめようもないが、その私の感情さえも調整されているのかもしれない」

 少年は長年にわたる疑問を吐露するかのようであった。

「そのようなこと、考える必要はない。正しいと思うことを行うが良いさ」

「ええ。今はセプテントリオンが許せない。これは私の確かな意思であり、正しいでしょう」

「十分だ。セプテントリオンもたいした男を敵に回したものだな」

 Aは時計を見る仕草をした。

「今日は余計なことまで話してしまった。君は聞き上手らしいな。そして思ったよりも、顔に表情が出る。その割に急かさなかったのは何故だ。例のぽややんって奴かね」

「舞の話では、あなたはいい父親のようでしたので。いたずらに時を消費させるようなことはないと考えました。まだ間に合う」

「ふっ」

「それにこう見えても、信頼できる人間の基準くらいは持っています。では失礼致します。舞のお父さん。ありがとうございました」

「一つ言っておくが私はちっともいい父親ではないぞ。あれは先天的に強い。そのように作られ、調整されてはいるが本物だ。それ故に君のために……いや、やめておこう。それではまたな」

 速水は答えなかった。Aに背を向け歩き出す。数歩進んだが振り返り、銃を向けた。風のように素早い仕草であった。しかし、柱の影にAはおらず、既に虚空に風が吹いただけであった。
 速水は何故自らが銃を抜いたのか自分でもわからなかった。ただ、突然の強迫観念じみた思いが彼にそうさせた。危険と判断したのか、Aの放った何かが彼にそうさせたのか。ただはっきりしているのは、短い会話を通じてAが味方にはなり得ないと感じたことだけであった。想定通りではあるが、現時点では敵味方ではくくれない不思議な男であった。
 銃を懐のホルスターに収めようとして、彼は気づいた。射撃が苦手な彼は、ボタンをきっちり締めた状態で今のようにスムーズに射撃体勢に入れたことがなかった。

「限界突破だよ、舞」

 苦笑混じりに一人ごちる。

「ただ、何にしたってお前がいなければ意味が無い……」

 速水は再び歩き出す。もう彼は過去を振り返らない。懺悔も躊躇も知らない。現実だけを考える。彼にとって現実とは幻獣との戦闘であり舞である。そして、彼が懐かしさを覚える日常も最早それらだけであった。
 枝垂桜に紅くなった頬を撫でられた舞を思い出す。取り戻さなければならなかった。彼女のまっすぐな視線に比べ、鏡に映った自分の何と矮小なことか。彼女のまっすぐな意思こそが彼を導くものであり、かつて自らの体がどうやっていじられたかも知らない未熟な自己にとっての存在理由である。ヒトを救うためにヒト以外になるつもりは無い。しかし、舞を救うためならば。
 ふと、速水の頭を何かがよぎる。最後にAが言い残そうとしてやめた言葉はなんだったのか。しかし、それこそ過去の話である。彼の冷徹な頭脳はもしもAを撃ち殺していた場合と殺さなかった場合の、予想され得る相違性について考えを巡らせていた。
 再び歩き出した速水はもう二度と振り返らなかった。


――後に青の青と呼ばれるブルーへクサ速水厚志がセプテントリオンに対し大規模なクーデターを実行する、5年前の出来事であった。




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