Chaparral


――曇天の日の事。
 二人の男と一人の少女が道の端を歩いている。
 男たちに連れられるようにして歩いてる少女。彼女の名はおらん。
 硬い表情ではあるが、容姿端麗にして藍色がかった柔らかい髪を持っている。
「……」
 彼女は浮かなかった。
 だが、彼女に逃げることは許されない。自ら売られに行こうとしているのだから。


 世は戦国。
 幾多の国主達が覇権を競っている時代。
 ある者は自らの本能の赴くまま、ある者は自らに課した崇高なる使命のまま。
 だが大部分の者にとって世界とは家族や仲間など自分の周囲であり、それを守り発展させる事以外は考えない。
 それこそが、最も身近に感じられる幸せであろう。
 この時代の貧富の差はあまりに大きく。例えば貧農に生まれた者にとって、この世の幸せも知らずに一生を終える事は珍しくない。
 だから、おらんもこの運命すら割り切れれば幸せなのに、と考えた事も決して無い訳ではない。
 貧農らしく生き、日々のささやかな幸せをかみ締め、貧農らしく死ぬ。
 彼女の周りは常に諦観と倦怠に支配されていた。
 だが、彼女には疑問がある。
 常に抱えている胸のわだかまり。疑問に身を委ねる度に、まるで彼女を咎める様にチクチクと痛む胸。
 これは、一体何なのだろうか。
 彼女の周りの人々は、同じ状況にありながらも感じていることが余りにも違っていた。
 自らの生まれを受け入れ、あくまで運命に従順。
 ここ尾張は織田の統治の下、貧しくとも平穏ではあった。他国に比べれば悪くない。生きてはいける。
 だが、生きているだけでは足りないのだ。
 ある日、馬に跨った武士が颯爽と駆けている姿に目が釘付けになった事がある。
――自分もあのように……
 だが、彼女自身にも抱えているものの正体が分からず日々を過ごしていた。
 だからこそ、分かち合える者もおらず、彼女の魂は異質のものであった。


 おらんに家族はいない。
 両親や兄弟は数年前に死んだ。
 妖怪大戦争。
 時の妖怪王、狂星九尾・末知女殿が「魂縛り」を人の世に解き放ち混沌に巻き込んだ戦争である。
 平定の為に立ち上がったのは当時のJAPANにおいて最大勢力の首領であった先代織田信長。
 尾張の民はその余波を受け、多くの者が死んだ。
 おらんの家族も死に、一人助かった彼女は親戚の家に預けられた。
 だが、親戚とておらんの両親と変わらぬ貧農である。
 彼女は早朝から夜まで田畑での仕事や子守を手伝った。
 だが、やがておらんに親族は非情の決断を行う。
 苦しい家計を理由に女郎宿と話をつけたのだ。
 もちろん、彼女には何の選択肢もない。
 口減らしを目的とした人の売買など珍しいことではない。たとえ、その先が女郎であろうとも。
 だが、彼女の魂はそれを好しとせず、胸はチクチクと痛むばかりであった。


 約束の日になると二人の女衒が家までやってきた。
 彼はおらんの身体を値踏みするように眺めた後、親戚に幾許かの金額を渡したらしい。親戚は頭を下げて礼をしていた。
 家を出ても振り向くことのない気丈なおらんに、二人の男は薄ら笑いを浮かべた。
 彼らが家を出たのは夕刻。
 曇天というのもあるが、日が落ちるのが早くなったこともあり辺りは薄暗い。
 人気の途絶えた道で、彼らはおらんに声をかけた。
 彼女が売られる花街までは、およそ一刻とのことである。
 何もしなければ半刻もかからないがな、と笑う男を相方が大笑いしながら窘める。
 頭のいい彼女は彼らが何を言うのか分かったが、今更何をする気にもならない。ただ下を向いて胸の痛みに耐えるばかりである。
 その時、大笑いした男の顔、顔の上半分が無くなった。
 吹き出る鮮血が、おらんにまで飛び散る。
 一瞬で、数人の頭巾を被った男達に囲まれていた。
 野盗たちであった。


 彼らは残った女衒から金を盗ると、あっさりと殺した。
 おらんの腕は男たちに捕まれ、あっという間に道から外れた草むらの中に引き込まれた。
 腕を振り、足をバタつかせ必死の抵抗をするが、相手は数人の大の男である。
 抵抗空しく着物に手がかかったその時。
「やめなさい」
 轟いたのは、威厳ある声。無精ひげの若い男が立っていた。
「か弱き少女に狼藉を働くとは……いけないね」
 大声を出しているわけではないが、低く通る声であった。
 野盗たちの動きは素早い。
 おらんは突き放され、男たちは組織立った動きで若い男に襲い掛かる。
「愚かな、やってしまいなさい、滝さんっ」
 野盗たちにずかずかと近づきながらも男は命じる。
 すると、男の影より人が現れた。黒装束の男である。
 滝さんと呼ばれた黒装束が何かを投げると、野盗の二人が倒れた。
 たちまち乱戦となった。
 二人斬られた野盗は残りが四人。
 黒装束が飛び込むが、野盗は思いのほか手練らしく接近戦となると二人しか相手に出来ない。
 髭の男が二人を引き受ける。
 防戦に徹していた髭の男だが、機を逃さずに一人を屠る。
 その頃には黒装束も二人を料理していた。
 生き残った男は草むらに逃げ込む。
 その方向にはおらんが居た。


 走ってくる野盗。
 お乱を人質にするか、そのまま草むらの奥に逃げ込む気か。
 どちらにしても、助からない確信があった。
 身体が硬直したが、倒れた野盗の刀がすぐ足元にあるのが見えた。
 ならば刀を手に取るしかない。だが、そうして、どうすればいい?
「刀を取れ! 身を守れ!」
 髭の男が叫ぶ。
 それが、おらんの背中を押した。
 刀を手に取った――

 生々しい感触が身体全体に残っている。
 おらんはへたり込む。緊張が解けてどっと汗が出た。
 何も考えられない。呆然と、自分の手を見る。
「見事だね」
 突然背中に浴びせられた声。
 それは、柔和の笑みを浮かべた髭の男。
「うん、見事」
 男は繰り返し、つかつかと野盗の下へと歩み寄った。滝さんと呼ばれた黒装束はいつの間にか消えていた。
 ほほー、などとしきりに納得しながら死体となった野盗の裂傷を眺めては感嘆の声を上げる。
「大した天稟だ、お嬢ちゃん」
 振り返った男の笑顔に、ようやく思考が回り始める。
 小ぶりの刀を一本下げており、地味な着物を身に着けている。武士にしては痩せている方だ。おらんに合わせるように屈んでいるが、動作のどこかに俊敏さと共に気だるさを感じさせる。
「農民かい」
 言い当てられてビクッとした。
 殺した男の身分によっては、農民である自分が無事で済む筈が無い。武士の身分でありながら野盗を働くような者もいると聞いたことがあった。先ほどの男が武士であるかも知れない。
「……はい」
 それは男の笑顔のせいか、彼女が取り乱していたせいか、素直に答えてしまっていた。
「そうかー」
 男はどこか嬉しそうに呟いた。
 頭を掻きながら立ち上がる。
「斬ってどうだった? ……って、年端もいかない女の子に何を聞いてんだろうね。俺は」
 男は踵を返した。
「じゃあね、今日のことは忘れてしまいなさい」
 と歩き出した。
 おらんは、脳裏に今までの迷い、諦め、そして痛みを思い出しながら――男の裾を掴んでいた。
「どうした?」
 男は振り返らない。口長は変わらないが、確かに先ほどとは何かが違う声。この時、野盗達を成敗した時のように男の影が一瞬蠢いたが、男が手で制すとそれは一瞬で消えた。
「人を斬って……初めて霧が晴れました」
 もはや、とめどなく溢れる言葉を止める気にもならない。
「私は、私はずっと。もっと小さい時からずっと、自分は周りと違っていて……田畑を耕しても誰かと遊んでも何をしても本気じゃなくて。誰も、私自身でも自分のことを分かってなくて……自分が自分じゃないみたいで。きっと、こうやって悩みを抱えながら生きていくんだと思ってました。いつか自分じゃなくて周りの皆と同じ人になるって思って。でも、初めて霧が晴れたから……」
 ――連れて行って。
 そう言ったつもりだったが、涙でくしゃくしゃになった声できちんと伝わったか自信がなかった。
「家族は?」
 未だ振り返らない男の質問に、彼女を売った親戚を思い出す。
「いません、この身は天涯孤独」
「……」
 男はおらんの声から何かを悟ったか、何も言わない。
「危ういね」
 男は振り向かない。
「?」
「危ういから」
 男は振り向いた。
「名をあげよう」
 呆然とするおらん。
 うーん、とひとしきり唸った後に男はおらんを見た。
「君の名は?」
「おらんと言います」
「なら、そうだな。これからは乱丸と名乗りなさい。うん、いいね。凛々しい貴方にぴったりだよ」
「……」
 胸が詰まった。乱丸。私の名。目の前の男の背中を守る自分の姿が思い描かれた。
「お乱」
 男は再び歩き出す。賢い乱丸だったが、今更気付く。男が名を与えたのは連れて行ってくれるという意味なのだ。
「あ、あの。貴方は」
 今更ながら、相手の名も知らずに連れて行ってと頼んだことに気付く。
「俺かい」
 男は静かに天を指差した。
「……この尾張を統べる空。民を潤す清流。大地を照らす太陽」
 うっすらと笑った。
「……であるべき希代の大うつけ、織田信長……今宵はささやかな歓迎の儀と洒落込もうか。お乱」
「あなたに救われた命です、あなたに尽くそうと思います……この命に代えて」
「……霧は晴れたのだろう? 自分の為に生きればいいんだよ」
 まあ、止めはしないけどね。信長はばつが悪そうに頬を掻き呟いた。
「人が自分の為に生きれないのはその人が弱いからだよ、お乱。君が思いを貫きたい、思うがままに生きたいと思うならね。温く生きていてはダメだ。それならいっその事」
 柔和な笑顔。
「熱く死ぬべきだよ。あの真っ直ぐに咲いた花を見てごらん、少しも迷っては無いだろう?」
 その言葉は、痛みを忘れた胸に刻まれた――
「それでも私は、あなたのお役に立ちたい……」
 乱丸の言葉に信長は笑顔のままで目を閉じ、もう何も言わなかった。


 重い太刀を抱いたままついて行く乱丸だったが、足取りが覚束無い。
 色々と試したが、それを振り下ろした時のように背負うのが一番持ちやすかった。
 信長は彼女を待つと、共に並んで歩き始めた。
 先ほどの言葉は、不思議と彼の本音に近い部分が出たと思う。
――花か
 横顔が、つくづく美しい少女である。
 このような時勢でなければ、さぞかし幸せになれただろうに。
 それに、素直だ。どのような環境の中であろうと花のように真っ直ぐであるのは簡単ではない。
 この子のような人間を増やさない為、自分は生きていかねばなるまい……この命の燃え尽きるまで。静かな誓いであった。




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