伏見城で、彼はいつも藍よりももっと濃い、ほとんど墨色の着物を身につけていた。華やかな色の着物が好まれる京において格別にそれは目立った。上洛の際には彼をとり囲む兵達の華やかさと言ったら、市井の噂にいつまでも残るほどであったのでその落差も激しい。だが彼自身はそんな色の着物を着ていてもひどく目立つ。回廊の向こうから彼が歩いてくると、なにやらさわさわと囁き声がさんざめく。それは彼の見目のいい容姿もあろうし、その右目を覆う大きな刀鍔の眼帯のせいもあろう。彼は昔のように長い前髪を下げ髪にせず、その鋭い稜線の額を露わにしている。眼帯に覆われていない左目は切れあがって鋭く、並み居る諸侯をねめつけたかと思えば、その次には柔和な笑みの上にあった。しかしその目はけして笑ってなどはいない。
 互いに歳をとった、と真田は思う。小さな坪庭越しに彼の背中を見送り、廊下に足裏を滑らせる。真田と伊達がただのひとりの人間として刃を合わせられるような、そういう時代はもうずっと昔のことになってしまった。十年。彼の雷刃を最後に受けてから、もう十年にもなる。そのうちに武田信濃守信玄は上洛を果たし、織田・豊臣の両雄を討ち果たしてしまった。今、伏見城には武田菱が高々と掲げられている。信州から越後に攻め入り、関東は今川を落とし、駿府の徳川、西は毛利・長曾我部と盟約を結んだ。そのどれもが、かつていくさばで斬り合った雄ばかりである。
 しかし武田の天下のもとこの伏見城に集った彼らが腹の内でなにを考えているかなど、奥に座した信玄公にはお見通しであろう。いつこの天下が傾くか、それが誰によって口火を切られるか、そのときそれぞれはどう動くか、そういう腹の探り合いの行われる場所である。そういう、政ごとの場である。名乗りを上げ槍を振るい、馬を駆ってその懐に切り込むような真似が許されるところではない。畢竟、ここは、真田の居場所ではない。
 そう思ってこの数年を生きてきた。足早に廊下を歩きながら、何回も思考の海に浮かんだその一節を噛みしめる。一番大きな奥歯ですり潰し、苦いものを飲み込む気持ちで何度も嚥下しても、消化されることはなかった。腹の中でとぐろを巻いて、時折その太い胴で胃の腑を締め付けてくる。そのたびにきりきりと痛むのを堪えては、留守にしている上田からの書面に目を通し、社交のために宴に顔を出す。
 そんな真田の様子を揶揄したものか、炎槍を振るっては恐れられたあの赤鬼はもうおらぬと、そういう話もよく聞いた。真田はそれに頷かざるを得ない。俺の魂はここにはないのだ。置いてきてしまった。十年前のあのとき、あの場所に。
 上田様、と呼び止められて首を巡らせた。顔を向ければ、京で懇意にしている茶人である。上洛した折、京での作法などで世話になりそのままつきあいが続いている。歳はわずかに真田が上だが、根っからの武人の真田に気負うことなく話しかけてくるので真田も心をすっかり許している。彼の、竹を割ったような性格は主をも思い起こさせた。軽く頭を下げると、彼は大仰に両手を振った。上田様に頭を下げられるいわれなぞございませんぞ。……そちらこそ、上田様はよしてくれと申しておるのに。
 そう、ここでは呼ばれている。上田守、上田殿、上田様。本音よりも、建前や形式が優先されるここらしい呼び方であるとよく思う。そうして、それは真田の腹のうちの安定要素にもなり得た。ここにいるのは真田源次郎幸村ではなく、記号の上の上田なる者である。そういう人間を演じているだけだ。ここ十年で、そういう小手先のことには随分と長けてしまった。腹でなにを考えていようが笑顔を絶やさず、しかし隙を見せず、無防備な背中を向けず、目を笑ませてはならない。そういうことである。
 例の件ですが、結構なことでございます、と。彼の細い目がさらに新月の前の三日月のようになった。かたじけない、そう言って頭を下げる。これで上田様は私の弟分ですな。まったくだ、もう頭が上がりませぬぞ。はは、と並べた肩を揺らせてくる。……彼の師匠に、茶を習うことを申し入れていた。最初は彼に習おうと思っていたが、それは身分を考えてもよくない、私が師匠に話を付けるからそちらで稽古を、そう言って突っぱねられた。真田としては正直、彼に断られたときにこころが萎えかけた。しかし、茶の一つでも、とは信玄公の達しでもある。なにより真田が茶を習いたいと申し出たときの、彼の嬉しそうな笑顔にほだされた。あの上田様が、そう言ってあの三日月の笑顔を見せる。
 では、と回廊の辻で茶人と別れた。その背中を見送る。師匠の付き添いなのだろう。彼の師は信玄公をはじめ他の大大名にも茶を指南している。その末席に真田も連なることになる。上田守として。……それは口約束や書面では表されないが、不定形で緩やかなつながりの一つと言えた。一つため息をついて、回廊の屋根から空を見上げた。秋の空は目が眩むほどに高くて、めっきり低くなった気温もあいまってひどく白い。白いと言うより、色がない。この目はめしいてしまったかもしれぬ、と真田は思う。あのときから、もうこの目は鮮やかな色をとらえられぬ。
 あるいは、と思っていた。あるいは、上洛に応じた伊達の姿を見れば、真田の世界に色が戻るかもしれぬ。そう考えていた時期が確かにあった。己の赤と彼の青の、極彩色のあの時間が取り戻せるかもしれぬ。一瞬一秒がひどく長く、濃く、血の騒ぐものでみっしりと詰まっていたあの時間である。それがゆえに、伊達の上洛を心待ちにしていた。こういう関係になった今ではもう気安く互いを行き来することもままならぬ。
 あの日、信玄公に上洛の挨拶に来た背中を見たとき、真田はこころの震える思いがした。しゃんと伸びた背筋は十年前と変わらず、座敷に響き渡った声も張りを持ってうつくしかった。記憶にあるままにその背中が真田を振り返り、眼帯の下のその薄いくちびるが歪むのを想像した。その手には雷をまとった六爪を、己の腕には炎にあぶられた朱槍を。……知らぬうちにそういう気配を出してしまっていたものらしい。気づけば座敷中の視線が真田に集中していた。……伊達殿と上田守は信玄公の上洛以前からの仲であろう、皆も承知しておる、暇があれば手合わせなどどうか。列席していた長曾我部が場の空気を払うようにそう声を張り上げた。はっとして、伏せていた目を上げる。伊達の黒い背中の向こうに信玄公のやわい笑みがあった。かかと笑って、それはよい、座興にもなろう、懐かしいことよ、そう言って扇子を開く。ハッと返事をして頭を下げた。上目にうかがうと、遠く向こうに伊達もまた頭を下げている。ゆるゆるとその背中が起き上がり、肩が少し揺らいだ。彼の耳、顎の稜線、黒の眼帯。あのとき、俺だけを見つめていただろう彼の左目。
 そのときの絶望を、真田は言い表すことができない。世界は戻らなかった。彼の白い面は能面に似ていた。露わになった眼帯の奥に、殺気さえ感ずることさえできぬ。彼の切れ上がった左目は真田を一瞬映したが、しかしそこに真田の切望するものはなかった。視線は有象無象を眺めるかのごとく真田の表面を撫でて、そうしてあっけなく逸らされた。
 自惚れていたのだ。あの竜も、俺と同じようにこの太平の世に居場所なくとぐろを巻いているはずだと、そう決めつけていた。しかしどうだ。陸奥守はあれから方々を飛び回って、この京の過ごし方というものをすっかり身につけている。刃と雷ではなく、言葉と視線でいくさごとをする、そのやり方をだ。
 もうあの男といくさばで刃を交えることはない。視線すら絡まぬ。あの口元から、俺の名前が叫ばれることも、なにもかも。……背中になにかがぶつかった。随分長い間、ぼうと突っ立って空を見上げていたらしい。首の後ろが少し痛んだ。その首を巡らせる。回廊の向こうに、あの男が立っている。ぶつかったのはあの男の白々しい視線であろう。墨染めの着物をシュ、シュ、と捌いてこちらに大股に歩み寄ってくる。その薄いくちびるが開く。真田はそのたびに、耳を塞いでしまうどころか鼓膜をつぶし中のかたつむりを引きずり出してしまいたくなる。
 上田殿、と伊達は真田を呼んだ。十年前と変わらぬ、あの日幸村と嬉しそうに呼んだのと同じ声で。

その声ひとひら 一葉(121111) 二葉>>