伏見の庭には冬に葉を落とすような木は植わっていない。椿がつやつやとした、緑の眩しい葉を茂らせている。それでもやはり、盛夏のころの植物の勢い甚だしい頃を思えばもの寂しい庭である。ふとその椿の枝に腕が一本伸びた。一枝手折り、しかし蕾もついていない枝に落胆したのかぶらぶらと揺れる。その様子を、持ってこさせた茶を飲みながら真田は見つめている。筋の張った腕が墨染めの着物をまとい、肘から先だけだったのが、二の腕、肩、胴体、足と再構成されてゆく。そうして最後に頭が現れる。結い上げられた緑の黒髪、その後頭部を走る眼帯の紐。……伊達殿、茶が冷めまするぞ。湯呑みの底に残った緑の濃いそれを見つめながら、そう寄越した。しゃんと伸びていた背筋が歪み、濡れ縁を向く。手折った枝を振り振り、伊達は足をこちらに向けた。手入れをされて、砂一粒ついていない椿の葉が真田の前に滑らされる。上田殿も、茶をされるとか。一口茶碗の中身を含んで彼はそう呟いた。
……伊達が真田をそう呼ぶ必要はないに等しい。朝廷から形だけ下賜された位をとってもその差は歴然としているし、領地の石高から言ってもそうである。徳川や毛利がそうするように上田守とでも呼べばよい。昔のように、名を呼び捨てにしても構わない。何度かそれを面と向かって伝えたが、無言で伊達はそれを拒んだ。白々しい顔をして真田を上田殿と呼び、真田にもそれを強いた。もう、昔のように気安く政宗殿とは呼べない。
最初は、なにかの遊びだと思っていた。伊達らしい、人を食った遊びである。上洛したその後、いくさばで槍を振るうこともなくすっかり落ち着いてしまった真田をからかっているのだと。しかしそう考えるたび、あの日伊達の寄越した冷えた視線が思い出されてしまう。有象無象を見るような目。真田の記憶にあるような、いたずらを仕掛ける子供のような笑みの上ではけしてなかった。彼の姿形は、十年前とそう変わってはいないというのに。そうして、真田は堂々巡りの渦の中にはまってしまう。畢竟、認めたくないのだ。からかっているのではなく、本当に彼は俺に失望しているのだと、認めたくない。
お館様の達しでござる、茶の一つもたしなめなくてなにが一人前と言えようか、と。縁に腰をかけた伊達の肩が少し揺れた。笑っている。そういう所作は見慣れている。そこにいるのは真田の記憶通りの伊達であるので、尚更その差異が真田をさいなんだ。……勢い余って茶碗を割られたり、せぬよう。左目が真田を振り返る。細められた目の奥、あの特徴的な細い虹彩が真田を刺した。そのようなこと! ……冗談と、切り捨てられよ。反駁した真田をそう一言で黙らせて、伊達は立ち上がった。皺ひとつない着物の背中を見上げ、真田は眉をしかめる。伊達殿、その。呼び止めたはいいが、一瞬その次の言葉が出てこなかった。頭の中に浮かぶのは、幾度繰り返したかもう判らない言葉である。腹に溜めた息をゆっくりと吐き出すようにして喉を震わせた。しかし出てきたのはまったく違う一節であった。
伊達殿は、なさいませぬか。茶を? ええ。……上田殿のお誘いとあらばいつでも駆けつけましょうぞ。真田を見下ろす左目がやわく細められた。あ、いや……。咄嗟に出た一言が思わぬ引き金を引いてしまった。口ごもる真田から視線を外し、伊達は白っぽい空に顔を向ける。まだ上洛して日も浅い故、なにもかもが物珍しい。そうして真田を振り返った。彼は一歩二歩歩み寄り、真田の膝先に置かれた椿の一枝を拾い上げる。そのときは、これを届けてくだされば。鼻先に寄せられたそれを手に取ると、さっと伊達は一歩下がった。……上田屋敷の茶室の畳は、草の一本も生えぬつくりでしょうな。そう言って、左目を細めてにやりと笑う。途端、頭の血が音をたてて下がっていった。その一瞬に放った殺気を伊達は見事にかきけして踵を返す。呆然と小さくなってゆく背中を見つめた。枝を握りしめるてのひらに、わずかに汗をかいている。
キシッと床が鳴る。随分長い間、そのまま座り込んでいたらしい。そのかっこうのまま幾度となく先程の伊達の殺気を反芻していた。懐かしい気配だった。記憶の補正はかかっておろうが、それでも心地いいと思えた。左手に持った椿の枝を目の先に持ち上げる。緑の、鮮やかな葉の色。……あれほど気取られるなと、言いつけたはずだったが。申し訳ありません。草の声は震えてひどく、低い。
上洛している諸大名にはそれぞれ真田忍びを配して怪しい動きがないか報告させている。特に武田上洛以前より幾度となく交戦し、遅くまで上洛に応じなかった伊達には昼夜問わず草をつけていた。今のところ、伊達に大きな動きはない。彼は京での日々を謳歌しているように思えた。伊達に当たっている者をすぐに外させよ。は、と応えて草の気配が途切れる。つやつやとした葉の一枚を摘み、その根元をねじった。弾力のある枝は容易にはちぎれない。
……相変わらずおっかない殺気だね、向こう三軒まで雀も鴉もいなくなっちまった。庭師のかっこうをした猿飛が置き石のかたわらに腰を下ろしている。お前が伊達に当たるか?勘弁してよ、そういうのはもっと若いのにやらせて下さいよ。椿の葉をいじりながら、真田はふっと笑う。老けたな、佐助。旦那もな。…… そのせいかな、あの方はもう俺を昔のようには、幸村とは呼んではくださらんのだ。
なんどその背中に懇願しても、思い描く左目はもう真田を振り返らなかった。無言の圧力はなにより雄弁である。もうなにを言っても無駄なのではと頭の隅にちらつく。それでも叫ばずにはいられない。それを止めてしまったとき、真田源次郎幸村という男が徐々に死んでいってしまうのではないかという恐怖がある。坪庭の向こうに消えていった伊達の背中をまなうらに思い浮かべ、薄く開けた目で茶碗の中身を見下ろした。緑の、もう冷えてしまった液体が底に凝っている。腹の中も、頭の中も、体中が冷えて冷えて仕方がない。猿飛は困ったように笑って、頬についた泥を手拭いでぬぐった。俺からしてみればどっちもどっちだけどね。……なんだと? いや、こっちの話。言って、猿飛はくるりと姿を消してしまう。後にはふわりと鴉の羽が飛んだ。その一つが、真田の膝先に落ちる。雲間から差し込む光の加減で、わずかに青緑に照った。目にしみる鮮やかさである。せめて、昔のように青い着物は着てはくださりませぬかと、そう訊けばよかった。心底、そう思う。
しばらくして、捨てるわけにもゆかず居室に生けていた椿の枝を戯れに小姓に持たせて使いにやった。真田の住む上田屋敷と伊達屋敷はそう遠くはない。走れば往復半刻ほどである。そうして戻ってきた小姓は屋敷を出て行ったときと同じく椿の枝を手に持っている。案の定の結果で、追い返されたかと訊くと、とんでもございませんと返事をしてくる。走ったせいで赤くなった頬を緩ませて、明日参りますとの仰せでしたと、そう言う。
小姓が両手に捧げ持った椿の枝を受け取ると、根元に近いあたりの葉が一枚もぎとられたらしく、青々しい傷口をさらしていた。