屋敷の片隅に設えた茶室は狭い。茶器を扱う音、息遣い、衣擦れの音、そういうものばかりが薄暗い部屋に沈澱していって、口元のあたりまで埋まってしまう。畢竟、言葉はない。視線も、いっとき絡むのみである。障子紙を透かして淡い光が畳を照らした。その上を無言で互いの手が行き交う。少しの緊張とともに真田は茶を点て終え、茶碗を畳の上に置いた。伏せた視界に、伊達の節くれだった指が映る。首を戻した先に、椿の一枝が活けられている。この部屋に入ってきたときに伊達がその椿にくれた、鋭い視線を思う。
そういうやりとりを交わして、もう片手の指がほぼ握られるほどになった。日時のみを薄紙に書き、椿の枝に括りつけて伊達屋敷に送ってやると、葉が一枚もぎとられて真田に戻ってくる。最初にもぎとられた葉の付け根の跡はもう擦り切れて茶色に変色した。そろそろ枝の葉も残り少ない。この枝が丸裸になるとき、そのとき俺は伊達になんと声をかけるのだろう。この言葉を禁じられた茶室で、唯一許される言葉はどんなものだろう。そういうことをよく考える。
関係は少しずつ変質していた。少なくとも、この二人しかいない空間では真田のこころは凪いでいる。伊達は、ここでは真田のことを上田とは呼ばぬ。無言ではあるが、そちらのほうが真田にとってはよほど心地よかった。あの日、伊達の昔と変わらぬ殺気を浴びたせいもあろう。末端から、血が少しずつ熱を持ってゆくのが判った。笑ってしまうことに、真田はこの茶室の時間を、昔の伊達との一騎打ちの時間に重ね合わせていた。これは真田の一方的なものではない。この部屋に草を近づけさせるなと、そう言って寄越したのは伊達のほうだ。
茶碗が置かれる。しばしの無言のあと、伊達が不意に身動きした。袂からなにか取り出して、畳の上を滑らせてくる。少し体を傾け、視線を送った。銀杏の葉である。薄暗い部屋の中でも鮮やかな黄色と判る。
近くに、銀杏屋敷と称される貴族の別邸があった。庭に、首をどれだけ傾けてもてっぺんの見えぬ大木がある。季節になればその葉が風に乗って真田の屋敷の庭にも吹き込んできた。銀杏の葉は他の落ち葉と比べて水分が多い。放置しておくと厄介なことになるので、屋敷の者が毎朝掃き清めている。時折、屋敷の中にまで吹き込んできたのが板間の上に散らばっていることもあった。
銀杏の上に置かれていた伊達の指がそれから離れようとする。思わず腕を伸ばしてその手をとった。伊達はそれにも動揺することなく、伏せた目でその様子を見つめている。伊達のてのひらは、茶碗を持っていたためか熱く血流を巡らせていた。すぐに、真田の体温とも馴染む。真田は少し、手汗をかいている。それに気づいて、唾を飲んだ。言葉は禁じられている。そのまま、膝を突いて半腰になった。視線が合うのは今日初めてであったように思う。左目の、黒い部分が真田に向けられる。同じくしてその薄いくちびるが開きかけたが、物言わずして閉じられてしまった。真田のてのひらから逃れようと腕が引かれる。するりと抜けてしまう。真田はもう一度もがくように手を伸ばしたが、伊達が身を翻すほうが早かった。もとより本気の鬼ごとではない。
伊達のいなくなった茶室で一人、銀杏の葉を手に取った。その手が、いや己の体がどくどくと脈打っている。一つ深く息をする。たかだか手に触れたのみだ。だのに、覚えたての餓鬼のように高揚している自分が情けなかった。独眼竜政宗、その名前は真田の脳裏に青いものとして刻まれている。今は亡き上杉謙信のような氷術の使い手ではない。かの人が纏うのは殺気をその末端にまで巡らせた蒼雷である。一度触れればなにも感ずることなく焼き切れるだろうその狂暴な雷。色からの連想であったかもしれない。いつもあの人が叫んでいた、あの言葉によるものであったかもしれない。触れたことなど一度もない伊達のてのひらは、その体はしんと静かに冷えているものだと真田はそう思っていた。……銀杏の葉の下で、己のてのひらはじっとりと汗をかいている。くちびるを歪ませて、真田は着物にてのひらを擦りつけた。茶室を出、回廊を巡る。気配をあらわした草に銀杏の葉を見せ、居室へと足を向けた。伏見に、のぼらねばならない。
懸念すべき事柄がある。駿府の動向である。東海道に新たに砦を建てているという噂がある。噂のみで、草に動向を探らせている段階ではあるが油断は出来ぬ。堺の商人が頻繁に徳川屋敷に出入りしているという報告もある。……銀杏の黄色は、徳川の戦装束の色。
天守から京を見下ろして、武田は顎を撫でている。その様子をかたわらで眺めながら、真田は少しだけ目を細めた。薄い雲間から覗いた陽が眩しい。そういう穏やかな光の中にあっても、武田の顔色はいいとは言えなかった。先頃、急に冷え込んだあたりから風邪を引いて、それがずるずると続いている。外は寒うございますと言っても、お前に心配されることではないわと跳ね返される。
鋭い風が吹きこんで、真田は思わず首をすくめた。侍従もまた、武田に中に入るよう促している。その背中に続いてきざはしを下る。……伊達の小僧は、竹千代と懇意であったか。不意に放たれた問いに、しばし呆けた。……は、同じ東国の雄の上、歳も近ういらっしゃいますが。
かか、と笑い声が部屋に響いた。下がれ、と手を振られる。引き続き駿府と伊達の動向には注意を払うことを言い渡され、深く頭を下げた。その理屈ではお主もそうじゃの。つむじのあたりにそう告げられ、数度まばたきをした。
あれから、いつも懐にあの銀杏の葉がある。少し考えすぎかもしれぬと、武田に諭されて思い始めていた。徳川が動き始めたことを伊達がこちらに流そうとしているのであれば、銀杏の葉のみというのはいかにも弱い。そもそも伊達がそういうことをするとは考えにくい。武田にそんな貸しを作り、懇意であるはずの徳川を売るようなそんな男ではない。ただ単に、屋敷に吹き込んできた落ち葉を寄越しただけであるかもしれない。むしろそうであって欲しいと、そう思う。そう思うとなにやら少しでも伊達に暗いものを見た自分が恥ずかしくなり、懐の銀杏を押さえた。
そんなときだった。少しの罪悪感もあって椿の枝を伊達屋敷に寄越すと、なにやらいつもと雰囲気が違う。使いにやった家臣が戻ってきたのはひどく遅くなってからだった。どうしたと問うと、なにやらお客人が、と応える。差し出された椿の枝には薄紙がくくりつけられていた。真田の書いたものではない。開けば、薄緑の紙に「俺も混ぜろ」と記されている。銀杏の葉の半分が挟み込まれている。伊達の筆跡ではない。しかし見覚えがある。
紙を握りつぶし、真田は板間を蹴った。侍従の止めるのも聞かずに庭に飛び出す。伊達の屋敷はそう遠くない。走ればすぐに着く。息を切らせて砂利道を、門のあたりで大きく胸を喘がせた。この寒空、薄着で息を切らせている様子に門の中からいぶかしげな目を寄越してくる。上田と名乗ると、すばやく身を引いた。伊達殿はおられるか。……少々お待ち下さいませ。構わぬ、どこにおられるかだけ申せ。しかし。くどい! ピシャリと言い放ってその男を睨みつけると、もごもごと口を揉んだ。東の、と小さく寄越してくるのに頷いて屋敷の中に上がり込む。造りなどどこも同じようなものだ。迷わず真田は廊下を蹴る。途中、幾人もが真田を真ん丸な目で見つめてきたが構いやしなかった。
音をたてて襖を開ける。そのさきに、見覚えのある背中が二つある。その一方が乱入者に声もなく振り向き、そうして破顔した。よう、久しぶり。気安く上げられた腕に小猿が纏わりついた。
真田は笑顔の前田を無視して伊達に目をやる。笑んでいた伊達の口元は、それに気づいて真一文字に結ばれた。視線はゆっくりと外される。外に向かって吐かれた煙はゆっくりと白い空にのぼった。無視するなよー幸村ー。前田はにやにやと笑いながら立ち上がり、肩を組んでくる。真田は眉をしかめてその手を抑えた。昔から、この男は苦手だ。
深読みをしすぎたことは否めない。黄色い銀杏の落ち葉、風に吹かれてどの屋敷にも入り込む。その時点でこの男を思い浮かべるべきだった。真田は二人の座っていたあたりに置かれた杯を睨みつける。すでに干されて、濡れた底をさらしていた。
なに?俺に会いたくて走ってきちゃった? 胸を喘がせる真田の肩を軽く叩き、前田は手に持った杯をあおる。……昼間から、ご苦労なことで。真田は努めて低い声でそう寄越し、伊達に足音高く近づいた。……どうなさった、約束は明日のはず。真田に目もくれずそう寄越してくる。真田はふ、と息をもらして手に持った椿の枝をその膝元に投げる。……某の笑い話でも酒の肴にしておられましたか。そのようなことは。かすかに伊達の肩が揺れる。そうだよ幸村、俺らがそんなことするわけないだろ。後ろから、前田はまたも肩を組んでくる。……政宗もさあ、なにその他人行儀な喋り方、昔はそんなんじゃなかったろ。
音のするようだった。伊達の左目がかっと開き前田を睨みつけるのを、真田は恐ろしく冷たい気持ちで眺めていた。凪いでいる。握りしめた緑の紙を、半分の銀杏の葉を床に投げ捨てた。懐に腕を差し入れ、あの日伊達が寄越したあの葉もその場に捨ててしまう。結界を作ったまじないはすでに破られていた。お膳立てをした伊達の手で破られた。
……陸奥守殿、明日の約束はなかったことにしていただきたく。伊達の手が床に落ちた椿に伸びる。真田が乱暴に掴んできたために、葉は落ちかけていた。次はもうない。それでいい。笑ってしまう。浮かれていた。昔のあのときに少しでも戻れるのではないかと、そういう夢を見ていた。夢でしかなかったが。
キキッと前田の小猿が鳴いた。真田はそっと伊達に近づいて、その手から椿を取り戻す。痛んだ枝を二つに手折って握りしめた。某をからかって遊ぶのは楽しゅうございましたか。伊達の額がゆっくりと上向く。目が真田を向く前に踵を返した。首を傾げている前田の横をすり抜け、部屋を、回廊を抜ける。伊達屋敷を出、息を吐くと白く顔にぶつかった。嫉妬などと、そんな感情を持てるほど俺はひとに対して熱を持っていられる人間だったろうか。
首を巡らせると、大銀杏が遠くてっぺんをさらしていた。それが、白い空に浮きあがっている。額に腕を押し当てて、少し笑った。