行李は埃にまみれていた。ふうと息を吐くと、障子から薄く射し込む陽にきらきらと光る。蓋を開ける。その中身に手を伸ばす。柄はところどころ削れて無惨だ。拵え直したほうがよいかもしれぬ。そう思う。しかし掲げた先の穂先の輝きは失われていない。立ち上がり、障子を開けた。縁の先に胡座をかき、陽に透かせてみる。血曇りひとつない。手入れ道具を持ってくるよう言いつけると、侍従はぎょっとした顔で真田を見つめてくる。……さように驚かずともよい、少し気が向いただけよ。そう、口元を緩ませながら言えば安心したような顔で奥へと走っていった。
おうおう、怖い怖い。そう、柱に背を預けた男が呟いた。持参したらしい瓢箪の酒をあおり、口元を拭う。その指先を膝先に持っていって、くるりと空に丸を描いた。その軌跡を追うように小猿が体を踊らせる。夢吉のこどもなんだこいつは、よく似てるだろ。訊いてもいないことを呟いて、また酒をあおる。
あんな目をして大層な武器持ってさあ、よく気が向いただけだなんて言えるよなあ。さて、なんのことやら。持ってこさせた紙で柄を拭ってやると、わずかながらその鮮やかな朱色が取り戻されたような気がした。気をよくして刃をなぞる。親指の腹を押しつけると、すうと切れた。己の魂のこもった穂先である。そう思うと腹の底が震えた。
長い間、行李を開けていなかったのはそれを確かめるのが恐ろしかったのだ。この穂先の曇るときは、それこそ己が死んだときである。半死の状態で生きながらえてきたこの数年、槍を持たなかったのはそれをまざまざと目の先に突きつけられるのが恐ろしかったからだ。しかし槍をこの手に取らねばますます昔の自分が薄れていくようで、畢竟、そこにはなんの光も見出せぬ日々であった。
ことりと、膝先に杯が置かれた。そこになみなみと瓢箪の酒が注がれる。飲めよ、と隣の前田が言う。昼間から酒を飲むほど暇人でもござらん。どうせ暇人だよ俺は。ニヤリと前田は笑った。どうせやるなら派手にやったらどうだい。言って、その杯の酒を庭に撒こうとする、その一瞬、真田は穂先を睨みつけた。眼球の奥がチリチリと痛む。視界が血のように赤く染まる。それが、真田に幼い頃から備わったものであった。穂先に小さい火種が生まれたかと思うと、瞬く間に赤く凶暴な炎がそれを包む。前田の手によって撒かれた酒精がそれを煽った。ハハッと横で笑い声があがる。いいねえ、いいねえ。
炎、氷、風、闇と光、そして雷。それらの術を持つか持たないかが、一騎当千の才を受けるか受けないかの違いであった。元服も済ませていない幼い頃に、早くも炎術の兆しを見せた真田はそれが知れるや否やにすぐに武田菱の元に送られた。信玄公もまた炎術の使い手である。鍛錬はまずその炎を御することから始められた。それまでの真田といったら、指の先に炎を宿し全身を炎で巻き、きゃっきゃと笑い走り転げるような、そういうこどもであったので。
よく覚えている。暗く寒い部屋の中央に座らされ、その周りに次々とろうそくが運び込まれてゆく。そのろうそくすべてに火を灯してゆかねばならない。指先一つ動かしてはならぬ。その芯を睨みつけ、そこに炎の灯るのを目の裏に思い浮かべ、ぐっと奥歯をかみしめる。一つ灯る。少しだけ部屋が明るくなる。しかしろうそく一本のぬくみなどあってないようなものだ。息をつくまもなく次のろうそくを睨みつける。最初のろうそくが燃え尽きてしまうまでに、すべてのろうそくに火を灯さねばならぬ。……長ずるに従って、ろうそくの数は増えていった。最後の夜のろうそくの数はどうだったか真田はもう覚えていない。広い道場に一人こもり、隙間なく立てられたろうそくに一つ二つと火をつけているうち、ものを数えるのが億劫になって止めてしまった。それでも、見渡す限り火の灯っていないろうそくのないことを確かめて道場を出ると、まだ夜は明けていない。月のない暗い夜に、真田の灯したろうそくの火のみが確かであった。ふとその瞬間に、己のうちの炎を確かに感じたと思う。指先に灯るようなちっぽけなものではない。臓腑を焦がし身の内を熱くする、そういう炎である。それが魂であると、信玄公はそう言った。道場の外に端座し、真田の出てくるのを待っていたのだ。指先に灯る炎を御するより遙かに難しいことよと、そう言って真田を叱咤する。これよりはその炎を御することに努めよ。
そうして、槍を下賜された。身の内の炎を御することが叶えば、その槍を振るうがよい。……それがこの炎風である。
俺は嘘をつき続けている。信玄公もそれをお知りだろう。槍の穂先に舞い上がる炎を見つめながら真田はじくじくと痛む胸を押さえた。魂など、御せるものではない。炎を見つめる目の奥が熱い。きっと赤くなっている。人を信じる目が青く、人を憎む目が赤いというのなら俺は最初からそういう道の元に生まれてきたのだ。
隣の男の視線を感じた。まだ怒ってるのか。大真面目な顔をしてそう寄越してくるものだから、真田はいっとき頬を緩めた。……だから、邪魔したのは謝ってるじゃないか。そんなことはもうどうでもようござる。じゃあなんで。……さあ、某にもよう判らぬ。前田は大きなため息をつく。もう少し、話し合いや考える時間を持ったほうがいいと思うけどな。……考えたとて、結局のところは同じこと。
あれから日が十程変わった。矢庭に上田屋敷に現れた前田は真田が訊きもしないのに顛末をぺらぺらと喋り始める。それに真田が眉の一つも動かさないので、勝手に渋面を作ってはよくないと呟いた。……あの日真田が寄越した椿の枝を、伊達は最初隠そうとしたのだと言う。
だとしても結果は同じだ。前田が無理を言ってあの紙を巻き付けたのだとしても、結局そのまま真田に寄越したのは伊達であるし、それがどういうことになるか、あの男が考えないわけがない。からかっているのだ。あの茶事であっても、最初はそういう意図であったのだろう。慣れない遊びに真田が四苦八苦する様子を眺めて哂いたかったに違いなかった。そうとつとつと続ければ、前田は哀れむような目で真田を見てくる。なんでそういうふうに考えるんだよ。そうとしか考えられぬ。じゃあ、なんで政宗があんたをからかうような真似をするのか、考えたことは?
ふと、思いも寄らなかったところを突かれた。穂先の手入れをする手を止めて膝の先をじっと見つめる。板の間に、ちらちらと雲間の陽が光った。……昔から、あの男はそうだ。単騎でふらりと上田に現れたかと思うと一騎打ちをせがみ、勝負のつかないまますっと姿を消してしまう。この時間が永遠に続けばいいと嘯くそばで、受ければ心の臓を止めるだろう一撃を繰り出してくる。竜の考えることなど、地を這う二つ足のけものには判りはせぬと、そう思っていた。
なあ幸村、ひとっていうのはまっすぐできてないんだよ、からだもこころも曲がった線でできてるんだ、だからひととひとがくっつくときはお互いになにかを曲げないと寄り添えないんだよ。前田はくうになにかぐにゃぐにゃと線を描きながらそう寄越してくる。その前田の目さえ少し暗い様子なので、この男もそういうことで苦労したのだと思う。仔細は知らないが、確かかの豊臣とこの男は友垣の仲ではなかったか。
しかし伊達という男の臍曲がり具合や意地っ張りなところは前田も真田も重々承知している。あれが折れることはこの先絶対にないだろう。そういう男である。彼の稲妻は目の覚めるような鋭角に空気を区切る。畢竟、それは最初から無理な話だ。俺と伊達は、いくさばで言葉もなく刃を繰り出し、茶室で声もなくやりとりをするような、そういう仲でしかあり得ない。
十年前なら。槍を行李にしまいながら真田はそう呟いた。前田が隣でやはりなにか言いそうな顔をしているが、気づいていないふりをして部屋の中に足を向けた。
駿府・東海道の要所に大量の木材が運び込まれているのは確からしい。細かく文字の連なったこよりを燭台で燃やし、真田は膝に手を突いた。ジジ、と芯が燃える音がする。猿飛の名を呼ぶと、じきに天井裏にその気配が現れる。堺の商人に接触せよ、最近大量に火縄の買い付けをした者について、……そうだな、そういう者がいたかと訊くだけでいい。六文銭を出しますか。いや、そうあざとい真似はしなくともよい。御意。
燭台の灯が揺れた。天井裏の気配は消えぬ。どうした、佐助。……庭に、誰ぞ。その瞬間猿飛の気配はかき消えた。冷たい板間を足裏が擦る。障子を一気に開け放つと、見覚えのないこどもがガタガタと震えながら庭に立っている。どこぞの寺の小坊主か、着ているものは粗末ながらも小綺麗だ。暗闇にふらふらと入り込んでしまったか、不安そうに視線をさまよわせた。……上田守様にござりまするか。いかにも。これを。
差し出されたのは椿の枝であった。あの日真田が握りつぶしたものではけしてない。細い枝に葉が一枚頼りなさそうに揺れた。呆気にとられている真田に、不安そうにもう一度こどもが呼びかけた。はっとして縁に出て受け取ると、こどもはぱっと庭から駆けだしていってしまう。差し出し主を言うこともない。後ろから燭台の明かりがそれを照らした。手元に目を落とすと、その葉の付け根に小さなつぼみがひっそりと身をかたくしている。
人を呼び、花瓶を持ってくるように言いつけた。手の中の椿に目を落とす。親指の先ほどもないつぼみである。板間に腰を下ろして、柱に背をもたれさせた。重たい雲の覆う空を見上げる。この数日から急に寒くなった。雪が降るかも知れぬ。故郷の雪を、奥州の雪を思い起こした。判りあえぬと諦めていたのならば、俺はなぜあのとき伊達の手を取ったのか。なぜ彼が上田殿と俺を呼ぶ度にこころが捻じ切れるような思いをしていたのか。……てのひらを押しつけた目の奥が熱い。きっと赤くなっている。魂の未熟な、己が心底憎らしい。
武田の風邪が治らない。床にふせったまま、もう数日が経つ。目通りは叶わず、暗い顔をした勝頼公と視線を交わす日々が続いた。
駿府と毛利と、勝頼公が会談しているのを座敷外で控えながら聞いている。徳川の、張りのある声が勝頼に不安なことはなにもないと励ましている。……毛利はまだいい。あの男は中国の安泰さえあれば他のことなどどうでもよいと思っている。だが徳川はよくなかった。いっときは己の手で太平の世を作るのだと、そういう気概を陽のように振りまいていた男だ。この時代でなかったら頼もしい男だと思えただろう。だが今、天下は武田菱の元にある。そういう世の中では徳川のそのこころいきは苦々しいものでしかない。だが、中央の反武田を睨みつつ更に東西にこころを配ることは今では困難になりかけていた。武田の体の不調は、重く伏見にのしかかっている。それは真田の背中を丸くさせ、自然、視線は膝に強く握りしめられた拳に落とされた。
ふと膝先に人の気配がある。顔を上げるより早く、少し高いような、耳に残る声が左衛門佐と真田を官名で呼んだ。臓腑をえぐられる思いで顔を上げる。涼しい顔をした伊達がそこに立っている。俺はとうとう、上田とも呼ばれぬようになったらしい。息苦しさに眉をしかめると、勝頼公は中かと問うてくる。いかにも。信玄公のご加減は? いまだ床にて。叩頭したままそう答えると、すっと裸の足が床を擦ってゆく。**殿の、御指南は?
思いも寄らないことを訊かれた。真田の茶の師匠である。呆然と顔を上げれば、やはり無表情の白皙がそこにある。……変わらず、ご指導いただいておりますが。伊達は少し眉をひそめ、考えるふうに視線を空にさまよわせた。そうして、もう真田には目もくれず踵を返す。その際、伊達のくちびるが何事か呟いたのを、鋭敏になった真田の耳はどうしてか拾ってしまう。あの椿、とそう言った。確かに、そう言った。