銀杏屋敷の銀杏はすっかり散ってしまった。裸の黒い幹を遠く晒している。それと同時に前田の姿も見ない。あれからちょくちょく庭先に顔を出しては、酒はないのか、茶を点ててみろ、蕎麦が食べたいなどと言っては侍従を困らせていたのが、初雪が降ったのと同時にふいと消えた。夜半から朝方にかけて降った雪は庭木の葉を覆うように薄く積もり、じわじわと上がる気温にすぐ溶けてしまった。しかし晴れ間が覗いたかと思えば、すぐに分厚く水分を抱え込んだ雲が西のほうからぐんぐんとやってくる。屋敷のそこここに火鉢が置かれ、炭のはぜる音が家鳴りの音にまぎれた。……あの男のことだ、寒いのは嫌だと花街にでも潜り込んでいるのやも知れぬし、実際に足をのばして南のほうに出向いているのやも知れぬ。ひととひとの間の和を保つには、この季節は厳しすぎたのだろう。あの日小坊主が寄越した椿を横目に真田はそう思う。つぼみはあれからすっかり大きくなった。一日、日一日、もう咲いてしまっただろうかと花瓶の置いてある部屋をのぞき、はなびらがこぼれてしまっていないことを確かめる。そうして、安堵している己を嫌悪した。……どうせ、あの前田の寄越した椿である。捨て置けばよい。もうなんの関係もない。花が咲いたからとてなにが起こるわけでもない。
十年前なら。縁側に出て柱にもたれながらそう考える。瞼を閉じて、二槍に炎の灯る様子を想像する。それを切り裂く雷光。悪夢のようにこびりついて離れない光景である。俺はなぜあの頃から一歩も踏み出せないのだろう。極彩色のあの世界に絡め取られたまま、墨の流し込まれた体でもがいている。……あの頃真田は、己の槍と彼の六爪でもって、それですべての意思の疎通ができていたと思っていた。言葉などいらぬとそう思っていた。だが本当のところはどうだ。前田の言ったとおりである。己の口は、喉の震えるこの機関はなんのためにあるというのだ。
だがもう言葉が届くような距離にない。額を押さえてうずくまっていると、幸村様という侍従の声がする。指と指の隙間からうかがうと、なにやらかしこまった表情である。伏見より……。その言葉を聞いた途端背筋がピンと張った。すぐに参上いたしますとお伝えせよ。言いながら、立ち上がる。こんなことで悩んでいるよりも、大切なことがある。
登城した先、通された部屋には武田と徳川が座っていた。縁も間近な場所に叩頭すれば、ここに座れと指示される。武田の扇子で示された場所に膝でにじり寄り、再び頭を垂れた。久しぶりに顔を見たわ、とかけられる声に低く返事をして、前をうかがい見た。武田は禿頭をつるりと撫でて笑っている。顔の血色のよさにひとまず胸を撫で下ろした。
して、本日は……。武田、徳川と、順に目を合わせれば、今度はその二人が笑い含みに視線を合わせている。いぶかしげに眉をひそめるとやにわに武田が口を開いた。……竹千代がの、お主に話があるそうじゃ。
いや信玄公、信玄公からお願いいたします。なんじゃ、さっきの威勢はどうした。いや、こういうことは信玄公からのほうが角が立たぬというもの。
話が見えぬ。くちびるを真一文字に結んでいると、また前の二人は視線を合わせてくくくと笑った。竹千代がのう、天下が欲しいと言いおった。は?
言葉の意味を解すのに時間がかかった。目の前で、武田と徳川は先程までのやわい表情を捨てている。額を風が打った。ぴしぴしと小さな石が頬をたたく。ここはどこだ。伏見の奥の一室ではなかったか。額を打ったのは風ではない。紛れもなく殺気である。真田は無意識に腹に力を入れた。やらねばやられる。そういう、もう味わうことのないだろうと思っていた空気の中に身を置いている。そうして、その意味を知ったときの体の熱さ。
気がついたら、腰に刺した短刀を徳川の喉元に突きつけていた。少し上向いた彼の顎の皮膚一枚を刃は貫いている。ちっとも悪びれた様子のない徳川は、中腰の真田をぎらぎらとねめつけた。そのくちびるが引き延ばされるようにして笑みの形になる。真田はそっと奥歯を噛んだ。顔の皮膚がひきつるのが判る。この手首に、少し力を入れれば徳川の喉も掻き切れよう。
……真田、その刀をしまうなら俺につけている草も即刻外せよ、腹の探り合いはもうやめだ。なんの話をしておられるのか、判りませんな。ならばこの場でこの喉掻き切ればいい、その瞬間……。淀みない徳川の言葉を、上座の武田が遮った。ぱしりと扇子が畳を叩く。そうして、下がれと真田に寄越した。ぐうと真田は喉を鳴らせて、上座を仰ぎ見る。鋭い目で武田は真田を睥睨して、小さく首を振った。二対二じゃ、老体を少しはいたわれ。しかしこの場には武田と徳川、真田の三人しかおらぬ。じりじりと徳川の喉元から刃を離そうとするその矢先、二人のものではない殺気が真田に背後から襲いかかった。誇張でなく手が震えた。
振り向いた先、座敷の隅。墨染の着物。白皙に黒い眼帯。左目の、その細い瞳孔までもが見えるようだ。まばたきの一つでもしたら、その隙に腹を爪でえぐられるだろう。眼球はからからに乾いていたが、それから目が逸らせない。真田の手から短刀が払われる。徳川のため息が小さく真田の鼓膜を震わせた。
政宗、もういい。
その声さえもう遠かった。真田の目にはもう伊達しか映っておらぬ。伊達のその面に正対して、拳を握る。その手の中になぜあの二槍がないのだろうと思う。……徳川殿、草の件は承知いたした、だが武田の天下は揺るぎませんぞ。……お主がいる限りか。なにを仰いますやら、そこな方が、勝頼公がいらっしゃる限りにございます。
足裏が畳を擦る。ちりちりと熱い。座敷の隅で伊達は変わらず面を上げて真田を睨みつけている。真田に焦点を合わせた目は外れることがない。奥歯が震えた。つばきを一つ飲み込んだ。その斜め横、ぎりぎりの間合いの距離で足を止める。後ろを振り返り、腹に力を入れた。……三方が原を、覚えておいでか。……覚えておるわ、あのときは、忠勝の調子が良ければなあ。徳川のくちびるが緩む。その向こうでかかと武田が笑った。
本多殿も、昔のようには参りますまい、徳川殿得意の人海でも……、雑兵の千や万など、この幸村の敵ではございませんぞ。
きっと今俺は笑っている。そう思う。その目で伊達を見下ろすと、切れ上がった左の眼がぐるりと動いた。その腕をさらい上げる。真田の手は一度手ひどく払われた。眉をしかめ、もう一度その腕をとる。音をたてて襖を開け、伊達を引っ張り座敷を出た。廊下を、足裏を鳴らせて走る。バタバタと音がするので、女どもや小姓の顔がそこかしこにわく。うるさいと思う。伊達の抵抗は薄い。大人しくついてきている。掴んだ伊達の腕の、その下の筋肉の分厚さを思う。その下の骨、流れる血流、ごうごうという音。
人気のない奥の部屋に伊達を押しこんで襖を閉めた。陽の入らぬ小さな部屋はほの暗く、影さえ薄い。目の先で、す、と伸びた背中がゆっくりと捻られる。一瞬真田を映した左目はすぐに伏せられた。襖に寄りかかりながら真田は息を吐く。……あの銀杏は、徳川殿のことでござったか。さて、なんのことやら。前田殿から、椿の枝が届きました。それが?伊達屋敷にも、ございますな。……さあ。
す、と彼の首が動く。鼻筋から顎までの、緩やかな稜線。部屋の調度のほとんどが輪郭をぼやけさせているというのに、伊達のそれはぶれることがない。腹の底で呼吸をしながら、真田は一つうめいた。海の底をさらったときのように視界が利かない。腹の中に撒きあがっているものがなにものなのか掴みかねている。これは憤怒か、歓喜か。それともまた別の、なにものかだろうか。
腕を伸ばした。てのひらはひとつ空を掻いて、その墨染の着物を掴む。二の腕から肩を辿り、首から頬に行き着いた。両のてのひらですっぽりとそれを包んでしまう。伏せられていた瞼はふるりと震えて、ゆっくりと上がった。左の眼の、少し細いようにも見える瞳孔。まっすぐに真田を射る様子にこころが震える。あの日茶室で、この男の手を取ったときよりもずっと近い。吐息が鼻先に触れる、そういう距離だ。
なぜだかそれ以上触れるのが躊躇われて、てのひらを浮かせた。すると伊達の目が少し伏せられる。くちびるは弧を描いて、くっと喉が鳴った。笑ったようだった。意気地がねえ。そう呟いてくる。
細く硬いもので腹を押された。伊達の短刀であろう。抜き身でえぐられれば間違いなく血を大量に失って死ぬであろう、そういう場所である。……たかだか左衛門佐風情が、駿府に刃を向けたこと、忘れてはおるまいな。……今、ここで手討ちにされますか。てのひらは浮かせたまま、親指でこめかみの少しほつれた黒い糸をなぞった。顎が上がり、真田を下目に睨みつけてくる。短刀を押しつけてくるその手首を掴む。
ならば一つ。言って、深く息を吸った。……意気地がございませんのは、政宗殿にござりましょう、某をからかってなにが面白いのかようやく合点がゆき申した。その左目を通り過ぎ、耳元にくちびるを滑らせる。彼の体が、発熱しているのをそこに感じる。短刀を握る伊達の右手と、真田の左手の攻防は拮抗している。あの手この手でいじっては怒らせて、我をなくした俺がこうして線を超えるのを待っておいででしたか。
いっそう左手に力を込めると、負けじと伊達もそれを押し返した。左目を覗き込むようにすると、色の濃い目がゆるゆると瞼の下に隠されようとしているところであった。ふ、と息が吐き出される。それが顎先にかかる。そのやわい感触に、なぜだか背筋が震えた。
……おめでたい頭だ。
そうゆっくりと呟いて、伊達は不意に右手から力を抜いた。あやうく体勢を崩しかけ、すんでのところで踏みとどまる。ぐっと歯を噛みしめたところで、また伊達が小さく息を吐いた。言い置くことはそれだけか? 囁くような声がするすると皮膚を這う。彼の手首を掴んだままの左手に、少し汗をかいている。
ふと、おかしなことを言った、と思った。左手がひきつる。どうした、と伊達が囁く。声が近い。耳元に口が寄せられている。その左手で、伊達の胸を押し剥がした。一気に距離をとる。口元を押さえる。確かに、おかしなことを言った。見開いた目に、薄く笑った伊達が映る。薄暗い部屋に白皙がぼんやりと浮かび上がる。顔を押さえたてのひらが、ひどく冷たい。