線を、と伊達が言った。すらりと刃が抜かれる。伊達が一歩近づくたびに、真田の足が後ろに下がる。とうとう襖に背が当たってしまう。間合いはわずか。きらりと光る白刃が、真田の喉元に突きつけられる。
 線を、と言ったな。低い、静かな声であった。そのくせ左目のらんらんと光ることといったらない。殺気を帯びているのではけしてない。真田の腹に巻きあがるのはそれに共鳴して震える炎ではない。なにか、漠然とした恐怖である。一瞬でも手綱を離れて思いも寄らなかったことを口走った己の肉体と、目の前の、見たこともない顔をしている伊達に対しての恐怖である。
 いや違う、と真田は思う。思いも寄らなかったことではない。そんなことがあるわけがない。表層に浮かぶことがなかっただけで、それはいつも腹の底でとぐろを巻いていた感情に違いなかった。だったらそれは、いったいなんだというのだ。
 冷やりとした金属が喉の肌を舐めた。なんの線だ、と伊達が言う。歯の押し当てられた喉仏がびくびくと震えた。飲み込んだ唾が苦い。いっとき真田が押し返した胸がぐっと近づいてくる。鼻先に息がかかる。すこし細いような瞳孔が真田を覗き込んで、楽しげに細められた。どうした、さっきまでの威勢は。そうして、薄いくちびるが震えるように動く。息のほうが多いような声だった。……幸村。
 あれほどまでに渇望した伊達が目の前にある。その目は俺の表面を通り過ぎてゆくだけではない。こうして突き刺さるほどの鋭い眼光で真田を見つめてくる。片手でその左頬を包むと、すうとその目が細められた。先程触れたときよりも、なぜだか少し熱いように思われた。刃を握っている手をどけさせる。腕を下ろすと、存外に簡単に伊達はそれを床へと落とした。それが畳の上を転がった音が、しんと静まった座敷にひどく響く。ま、さ。その続きを、伊達の耳元に吹き込んで、ぶあつい背中をかき抱いた。充実して熱い。夢の中の薄っぺらく青いものではない。くくっと伊達が喉を鳴らせた。ごそごそと真田の腕の中で身動きをする。腕を抜いて、その黒い蛇を真田に首元に絡ませた。……どうした。
 判らぬとしか答えようがなかった。嬉しいような、恐ろしいような、そういうもので胸が詰まって言葉がなにも出てきやしない。ひとたびくちびるを開けば訳もなくこのひとの名前を繰り返してしまい、その声の情けなさに歯の根が震えた。それを隠すように額を伊達の肩口に押し付ける。ぐっと背中を抱いた腕に力を込めれば、いよいよ伊達は嬉しそうに笑った。合わせた胸がどくどくと速い。ようやくそろそろと腕の力を抜けば、首に絡まっていた伊達の腕も解かれた。かたいてのひらが真田の頬をさすって、ひどい顔だと寄越してくる。自分でもどういう顔をしているのか判らない。頬をさすってくる伊達の手首を、眉をひそめながら掴んだ。伊達の目がちらりとそれを映す。瞬きののちに真田に合わせられた目は刹那、小さく揺れた。
 ……理性では、判らぬとしか言いようがない。だが腹の底でとぐろを巻いて、いまだ正体の知れぬ蛇がそのいっとき真田の体をのっとった。かさついたくちびるをなんども合わせる。濡れた音がしはじめたころ、伊達がそっと閉じ合わせていたそこを開いた。ぬるりとした舌が入り込んでくる。その先をきつく吸ってやる。息が漏れる。なんども互いのそれを擦り合わせ、そのたびに二の腕の泡立つ思いをした。一度くちびるを離す。からだの位置を入れ替えて、伊達を襖に押し付けた。薄く開いた伊達のくちびるの向こうで、誘うように舌が揺れる。なりふり構わず、音のたつほどにそれに絡みあわせた。体が熱を持っている。頬をさすってくる伊達のてのひらさえもひどく熱い。あとからあとから湧いてくる唾液はすべて彼の中に注いでいるために、喉がひどく乾いた。ねだるようにしたくちびるを吸えば、彼の舌がべろりと突き出される。口の中が彼の味のもので溢れた。煙草の味のする、なまあたたかなそれ。
 下帯の中で、陰茎がゆっくりと頭をもたげ始めているのを感じていた。蛇にのっとられた体ではそれを隠すのもままならない。理性は伊達にそれを悟られぬようにと叫んでいたが、どうにも無理な話だった。すでに、境界などあってないようなものだ。着物の上からでもそれと判るまでに成長してしまっている。伊達の太腿がそれをあおった。ごりごりと押し付けられる足の、その間。そっと体を押し当てれば伊達の体もまた、兆しがあらわであった。口吸いの合間に漏れる息が忙しい。舌を絡めるのに合わせて互いに足を動かした。……このままでは、みっともないことになる。だがこの感触を手放したくない。理性の針は振り切れた。背中を抱いていた腕をじりじりと腰に下ろしてゆく。真田の意図を知った伊達が体の位置を合わせた。着物越しの、もどかしい感触がびりびりと背中を伝わってゆく。解かれた伊達のくちびるの端から一筋唾液が垂れた。それをねぶりとってやって、額を突き合わせる。熱い息が互いのくちびるを湿らせた。もう、中はひどいことになっている。完全に勃起したそこから吐き出される体液の、湿った感触が不快とも快ともよく判らぬ。だが時折伊達のくちびるから漏れる、熱に浮かされたような声がびりびりと腰を打って、そのたびに真田は射精しそうになるのを堪えねばならなかった。まだこの感触を楽しみたい。そう思うのに、体をのっとっている蛇は言うことを聞かぬ。後先を考えずに体を合わせ、我武者羅に果てを追おうとする。
 ちゅ、と音をたてて伊達のくちびるが真田のそれに吸いついた。どうすると訊いてくる。このまま、か、それとも。荒い息の中で、それでも口の端を歪めるのを忘れない。細めた左目がぎらぎらと光る。こめかみににじんだ汗を吸い、ほつれた髪を撫でつけてやる。それとも、とは。……みっともないことに、なるだろ。
 言って、伊達は体を離した。頭を襖にもたれさせて、深い息をなんども繰り返す。こんな、とこで、よくやるぜ。……あおってきたのは、政宗殿のほうでござろう。おっ勃てたもん押し付けてきたのはどこのどいつだ、あ?
 汗の浮いたうなじをすっと冷えた空気が撫でて、そこからからだが冷たさを取り戻してゆく。どっと重たくなった体を畳の上に落ち着かせる。その途端、濡れた下帯の感触がありありと伝わって気持ちが悪かった。政宗殿、その。
 上目に睨んでくる伊達は、真田がぱくぱくと口を開閉しているのを見てくっと笑った。訳が判らねえって顔してやがる。……その通りにござる、なにゆえ……。畳に目を落とし、先程までの伊達の様子を思い起こして口元を押さえた。ようやく落ち着き始めたからだに再び火が着きそうになる。振り上げられた伊達の足が、真田の肩を蹴った。……なに考えてやがる。憮然と真田を見下ろす様子を眺めながら、夢のようだと呟いた。それまでの白と黒の世界のなにもかもがである。このとき、真田を見つめてくる伊達の視線や、そのからだのぶあつさは夢でないと言えた。
 蛇の正体が今ではよく判る。真田は額に手を当てて、肩を揺らせた。あの日、前田に煽られて伊達の屋敷に乗り込んでから、確かに真田の腹の底でしゅうしゅうと息を吐いていた。どうあっても俺を見ないというのなら、どうしてやろうかと鎌首をもたげていた。おぞましく醜い感情だ。そのままの姿勢で、真田は伊達の名を呼んだ。彼はだるそうに返事をして、ずるずると襖に背を擦らせる。同じ高さの目線になったその白皙を熱心に覗き込んだ。こんなところでとおっしゃいましたな。……ああ。では、草も生えぬ真新しい畳の上でならば、そのおこころお聞かせ願えますか。伊達はいっとき真田に視線をさまよわせて、その目を伏せた。陰りはじめた部屋のわずかな光に、その睫毛が頬に影を作っている。一文字に結ばれたくちびるがすうっと弧を描いて、くっと笑い声が漏れた。

その声ひとひら 六葉(121111)  <<五葉 七葉>>