![]() その日は晴れていた。 王都の中央広場に面しているという、立地だけはやたらに良い本部の建物の中には 午後の暖かい陽の光がやわらかく差し込んでいた。 内部の一角、記録室と呼ばれる部屋で、一人の少女が本をめくっていた。 長い睫毛が顔にゆるやかな陰影を与えていた。 少女が静かに読んでいる本は、このアクラルの戦史だった。 今からおよそ200年前に終結するまで、この地は人と人との争いが絶えなかった。 『神殺し』や『惨劇のディアボロス』といった異名を冠する将もいた。 しかし、今の世の中は平和なものだった。 多少は魔物が出るとはいえ、数人で退治できる程度のものであったし、 『魔物出没』の報告の中でも、真実に魔物が現れたというものはわずかで、 大半は森や洞窟に潜む獣を見間違えた程度のものばかりだった。 そんな報告書がそこそこの数、彼女の手元にまわってきては、 彼女もそこそこにそれらに目を通し、必要とあれば人を雇い、派遣し、 問題の解決をはかっていた。 彼女は王国の治安を任された騎士団の団長であった。 少女のような顔立ちをしているが、すでに15歳、立派な成人であった。 しかし、 (……退屈……) 部屋の中にひとりっきりであることをいいことに、盛大にあくびをした。 思い出したくも無いいきさつで、成人したばかりというのに騎士団団長という肩書きを 押し付けられてからは、毎日がそこそこの書類ばかりの生活だった。 (こんな毎日じゃ、この名が泣くわ……) 彼女の名はかつての戦乱で功を挙げた女性軍師の名にあやかってつけられた。 そのことを非常に誇らしく思い、その名に恥じぬよう日々精進を努めたものだった。 「でも、治安の番人が退屈ってのは、平和でいいことのはず……」 彼女はほお杖をついて、ため息混じりに口に出した。 「しかし、これからはそうもいかないのですよ」 唐突に、しかし当然のように隣から返答があった。 団長はゆっくりとそちらを見た。 いつからそこにいたのだろうか、いや、最初からいたのかもしれない。 長い髪の美しい女性が隣に立っていた。 「……なぜ?」 団長は女に尋ねた。古い知り合いに出会ったときのような声色だった。 「やっと聞こえたようですね、よかった」 女は詠うように答えた。 「世界に大いなる災いが迫っています。人間にとってはまだ先のことですが、世界にとっては長い時間ではありません」 「……どんな?」 「今ははっきりと見えません。ですが、このままですと百年後にこの世界は滅びてしまいます」 「……本当に?」 「私は"女神”です。女神の言うことが信じられませんか?」 その言葉を聞いて、団長は不意に笑い出した。 「ふふ……いいわ、信じますよ、女神様」 立っていた女は、ここで初めて笑みをこぼし、続けていった。 「今からおよそ20年後、災いの一撃が加えられます。その時、私の言葉が真実かどうかが分かるはず」 「20年……!とても先の話ですね。やはりにわかには信じられません」 「そうでしょう。世界にとっては瞬く間でも、人にとっては短くありません。 あなたはあなたの戦いをこのまま続けなさい。私は街の外れで見守りましょう。 いいですね、まずは20年です。……忘れないでください」 それだけ言うと、女は空気に溶け込むように姿を消した…… わけではなかった。 「もう!エル!だめじゃない、笑っちゃ!」 件の女は団長の隣にすとんと腰をおろすと、怒ったような表情で彼女の顔を覗き込んだ。 「ごめんごめん、アリア。迫真の演技だったよ」 「だったら、笑い所なんてひとつも無いはずだけど?」 「アリアのせいで笑ったんじゃなくて、私のことで笑ったの。 やっぱり私には演技なんて無理だ。どうしてもなり切れない」 「なり切らなくても、団長さまじゃない」 「そうなんだけどね。こんな小説の主人公みたいに魔物と血湧き肉踊るような 任務にあたってるわけじゃないしね。体のいい文官よ」 団長は机の端に置いてある本を手に取った。 それはとても古い本で、ボルンの皮をなめした表紙にはただ『Chronicles』とだけ 題されており、背表紙には何も記されていない本だった。 内容は、このアクラルと似て非なる別のアクラルで起きた、百年に渡る 女神と人間たちとの戦いの記録物語であった。 「……こういう小説みたいな日々ってのも、ちょっと送ってみたいけどね」 「だ・か・ら。そういう非・日常になりきってみるってのが演劇ってものなのよ」 アリアは椅子から飛び降りると、片足の爪先で立ってくるりと回ってから しなやかにお辞儀した。 「私は観る側で十分に非日常を楽しませてもらってるよ、名女優さん。 ……ねぇ、このクロニクルの『女神』はこの世のものとも思えないほど 美しいって書かれてるけど、アリアで大丈夫なの?」 「ひっどい!どういう意味よ!」 「そのまんま」 「ちょっとぉ。そういう態度なら、せっかく今晩のうちの劇場の席を 取っておいてあげたのに、チケット渡さないわよ」 そう言うと、アリアは上着のポケットから券を二枚取り出しひらひらと波打たせた。 「申し訳ありません、女神様。私めが大変無礼を働いたようで…… どうぞお慈悲をお与え下さい」 「よかろう、許す。許すので、クィックリーに着替えて出かけましょ!」 「了解、女神様」 「あれっ。本当にいいの?今日の仕事は終わったの?」 「うん、午前中に全部済んだ。あんまり早く本部を出ると、色々とうるさいからね。 だから記録室にいるようにしてるんだ」 「ふ〜ん……でも、ここって記録ばっかりでしょ?つまんないんじゃない?」 アリアは頭をぐるっとまわしてみせた。 記録室は扉と、その左の面にある窓以外は全てが作り付けの書架であり、 その中にはびっしりと様々な記録を記した紙という紙が詰まっていた。 時々それらは本という束になっていたりもした。 「事実は小説よりも奇なり、ってね。けっこう面白いものだよ。アリアもたまには 小説以外も読んでみたら?」 「え〜……私はいいやぁ。あんまり興味ないもん」 「でも、ご執心のこの『クロニクル』はこの部屋で見つかったんだよ」 「それはそれ、これはこれ!さ、さ、早く行こうよ」 「はいはい、しばしお待ちを女神さま」 机の上に座り、自慢の脚を組んだアリアを残して、団長は記録室を出た。 廊下を歩き、執務室の扉を開けた。 入って正面に年代物の机が一台おかれており、それに合わせて、 やはり年代物の大きな椅子が一脚、置かれていた。 彼女がその椅子に座れば、最低限の動きで、必要な資料や道具を手にとることが できるように計算されて物が配置されていた。 そんな整然とした部屋だったが、壁にはところどころ、法則を無視したような 絵画やポスターが貼られていた。 先代が酔って壁に穴をあけた個所を隠すための苦肉の策だった。 団長はその前に立ち、忌々しげにポスターを睨んだ。 今、王都で一番人気の歌手ヴィヴィ・オールリンのポスターに罪は無かった。 「エレオノーレ……」 不意に名を呼ばれ、団長は振り返った。 「エレオノーレ・エヴァンス」 目の前に一人の女性が立っていた。 「……アリア?」 団長は友人の名で問い掛けた。 目の前の女性は友人にどこか似ていた。しかし、友人であるはずはなかった。 なぜなら、その背には大仰な白い翼があったからだ。 生の通った白で輝くそれは、本物であった。 どんなに有名な針子でも、このように舞台衣装を仕立てられることはできないだろう。 「やっと聞こえたようですね、よかった」 つい先ほど聞いたばかりのセリフだった。 「世界に大いなる災いが迫っています。人間にとってはまだ先のことですが、世界にとっては長い時間ではありません」 知らず知らずに壁に背をついていた。目の端では魔女の衣装に身を包んだ艶やかな 二次元の女性が意味深な笑みで正面を見ていた。 「なっ……馬鹿な……。…………まさか、予言の女神…………?」 震える声で独り言のように吐き出した。女性は表情を変えずに、 災いをとめるべく、十分なちからを持つものを探してここに至ったのだといういきさつを 述べた。 「そう、私は"女神”です。女神の言うことが信じられませんか? いいでしょう。ではお聞きなさい。今からおよそ20年後、災いの一撃が加えられます。 その時、私の言葉が真実かどうかが分かるはず」 団長は声ばかりでなく、体全体が震え始めていた。 これは夢だ。違う、現実だ。心の中で、理性が葛藤していた。 顔を上げて真直ぐに女性の瞳を見つめた。 相手の瞳の中にも暗い葛藤の痕跡のようなものがあった。 それを確認した後、一呼吸置いて団長は女神にはっきりと問い掛けた。 「20年、それは世界にとってはあっという間でも、人にとっては短くない。 あなたの言葉を信じるのには長すぎる時間です。…………。 私には……あなたを信じることが出来ない。他をあたってください!」 女神はやはり無表情に答えた。 「そう、世界にとっては一瞬です。少しの間も惜しいのです。 私が探し、あなたを見つけた。これ以外に何があるでしょう? けれど、私も長く人間を見てきました。あなたの言い分もわかります。 では、こうしましょう」 おもむろに女神は翼の羽根を一枚引き抜き、それで団長の顔の前にかざした。 「目を瞑りなさい」 「……なぜ?」 「目を瞑りなさい」 「……」 団長は警戒しながら、固く目を閉じた。柔らかいものが瞼を撫でていった。 「あなたはあなたの戦いをこのまま続けなさい。私は街の外れで見守りましょう……」 女神の声が遠のくように消え、団長は目を開けた。 夢から覚めてくれればいいという思いで目前に焦点を合わせた。 そこには誰もいなかった。 本当に夢だったのかもしれない。 「エールー!まーぁーだぁーー?」 肩がビクッと跳ねた。 アリアの声が廊下に反響して、いつもの彼女とは違った声に聞こえた。 「いま行く!」 団長は羽織っていた制服を脱ぎ、私服のチュニックに頭を通しながら廊下に出た。 扉を閉める際に、部屋の中に誰もいないことをもう一度確認してから 記録室に向かって歩き出した。 真直ぐな廊下の突き当りには、姿全体が映せる大きな鏡がかけられている。 ふと、違和感を感じて、記録室を通り越して、左右対称の自分を覗き込んだ。 それを見た時にエレオノーレは、女神とは確かに実在し、 真に己の両肩にアクラルの未来が委ねられたことを、はっきりと認識した。 音を立てて頭から血の気が引いていった。 次の話 |