月刊俺の犬

 ビルの間に夕日が沈んでいくのを、木手はバスの窓から眺めていた。
 服飾デザインをもっとちゃんと勉強したいからと選んだ大学は、沖縄ではなく本土だった。
 本土の中でも郊外にある芸術大学で、変わり者の多い場所でもある。
 行き帰りのラッシュが大したものでは無くてホッとしたのもつかの間、知らない土地での初めての一人暮らしは常に木手の背中へ寂寥を背負わせた。

 もっと賑やかな街ならばこんな思いはしなかったのかもしれない。
 郊外の町並みは緑と新興住宅と昔ながらの建物が混在していて、新旧混ざり合ったそれらが不意に故郷の沖縄を思い出させることさえあった。
 あちらは海、こちらは山にほど近い場所だと言うのに。

 大学から駅までの送迎バスに乗り、駅から少し歩いた所に木手のマンションがある。
 駅の周りは流石に栄えた場所ではあるが、それでも鈍行しか止まらない駅では限界があった。
 途中にあるスーパーで夕食にする総菜を買い、家までの道のりを何となくゆっくりと歩く。

 左右の住宅はすでに明かりが灯り、暖かな団欒を思わせる夕食の匂いがどこからともなく届く。
 どこかで魚を焼く匂いがして、初めてこちらのスーパーの鮮魚を見た時にあまりに貧弱な魚の肉付きに驚いたのを思い出す。

「クゥ〜…ン…」

 地元ではあんな魚はいなかったなと思い出していた木手の耳に動物の鳴き声が聞こえてきたのは、家まで後15mほど来たときだった。

「…………」

 元気な鳴き声では無く、弱ったような微かな声。
 どうやら声は右手にある小さな月極駐車場から聞こえてくるようだった。
 興味本位で覗き込んだ木手は、駐車場の入口に薄汚れた段ボールが置かれているのを見つける。

 申し訳程度に敷かれた毛布の切れ端の上に座り込んでいる子犬らしい茶色の毛の塊は、木手が自分を見ているのに気付いたらしく尻尾を振って段ボールから出てこようと躍起になった。
 子犬に段ボールは大きいのか、前足を両方引っかけて登ろうと飛び上り勢いで段ボールが倒れてしまった。
 その反動でコロコロと転がるように車道へ出てきた子犬は、咄嗟に手を出してしまった木手の腕にぶつかって止まりキョトンとこちらを見上げてくる。

 黒々とした大きな目は、一時も逸らされずにその瞳に木手を映した。
 くるりとカールした茶色い毛に覆われている体は、埃っぽいが怪我は無さそうで捨てられたのが最近だと言う事を物語っている。

「捨て犬ですか…可哀想にね」
「クゥン…」
「でもうちには連れて帰れないんですよ。ペット禁止なんです」

 ごめんなさいね、と頭を撫でて抱き上げ子犬を段ボールへ戻す。
 尻尾を千切れんばかりに振っている子犬から顔を背け、駐車場から道に足を踏み出した。

「キャン!」

 甲高い、成犬には程遠い鳴き声につい振り返った木手は自分がこの子犬に懐かれてしまったと気付く。

 子犬は果敢にもまた段ボールを倒し、こちらに駆け寄って来ていた。




「キャン!」
「しー、静かに。見つかったら追い出されてしまうんですよ」

 抱き上げた子犬が口と言わず鼻と言わずベロベロ舐めてくるのを避けながら、木手はポケットに入れていた家の鍵で部屋に入る。
 暗い部屋に入る時に一声鳴いたので思わず幼い子供にするように人差し指を唇に当てて言ってみたが、その人差し指ごと舐め回されてため息を漏らした。

「あまりうろうろしないでくださいね」

 驚かさないように電気を付けてからそっと部屋に子犬を離し、恐る恐る歩き始めるのを横目に冷蔵庫へ買ってきた総菜を放り込み部屋を横切る。

 あの後何度段ボールに戻しても子犬は木手についてきた。
 自分が気にするからだと早足で振り切っても、匂いを辿って来てでもいるのか立ち止まればよたよたと足元に寄ってくる。
 そこまで情を寄せられて振り払えるほど木手は冷酷にはなれず、根負けして抱き上げてしまった。
 暖かさにホッとしたのは、むしろ木手の方だったのかもしれないが。
 
 ジャケットをハンガーにかけてクローゼットにしまっていた木手は、興味深そうにあちこちウロウロしていた子犬が自分のジーンズの裾を噛んだり引っ張ったりして遊んでいるのを咎めて抱き上げる。

「いけませんね、駄目ですよ」
「?」

 眉を寄せて注意するが、腕の中で首を傾げている子犬を見ているとその愛らしさについ微笑みかけてしまう。

「さて、君は何を食べるんでしょうか」

 実家では鳥を飼っていた木手だったが、犬を飼ったことは生まれてから一度もない。
 ドッグフードを食べることぐらいは知っているものの、この家にはそんなもの一つもないし第一子犬がドッグフードを食べていいのかどうかも分からなかった。

 じゃれ付いてくるのを宥めながら携帯電話を取り出し、履歴に残っている旧友に電話してみた。
 幾度か目のコール音が響き、旧友が応答する。

「はい」
「あ、知念クンですか」
「あぁ、ちゃーしたさぁ」

 それほど連絡を取る期間を開けていたわけではないが、懐かしい故郷のイントネーションに木手はどことなく安心感を覚えながらベッドへ腰かける。 
 途端に腕の中の子犬が暴れてベッドへ飛び降り、木手の太ももに爪を立てて引っ掻いた。
 まだ弱い力の所為で痛くはないが、電話をしている木手の注意を引こうとしているのが分かるその仕草に木手の表情が和らぐ。

「犬って何を食べるか知ってますか?」

 子犬の頭を撫でると噛みつかれ、軽い力ではあるものの尖った乳歯が手に突き立って痛みを感じた。
 眉をひそめながらも知念に問いかけると、電話の向こうで長い長いため息が聞こえる。
 それから電話の向こうにいるらしい彼の妹に、犬ってぬーかむんかやー?と質問していた。
 けれど帰ってきた言葉は、ぬーでもかむばぁ?という心許ないものだった。

「妹はぬーでもかむんって。わん犬しかんからよくはしらねーやしが…味噌汁でもご飯にぶっかければいいあんに?」
「知念クン、それじゃ猫まんまですよ」
「あぁ。まぁ…犬も猫も変わらんさぁ」

 おざなりな返事に、ありがとうございますと取り合えず礼を言って電話を切った木手は、携帯をベッドの前に置いているローテーブルに置いてから立ち上がってキッチンへ向かう。

 1DKの部屋は硝子戸一枚でキッチンと寝室が分かれている。
 キッチンと言っても単身用のマンションにありがちなテーブルが置けないほどに狭いキッチンで、自炊にはあまり向いていない。
 その所為か木手も余りこのキッチンで自炊をすることはなく、お湯を沸かすか米を炊くくらいだった。

 だから冷蔵庫を開けても、中に入っているのは申し訳程度の調味料と牛乳のみ。
 味噌汁などこちらに来てから作ったことのない木手の家には、味噌すらない。
 もっとも本土にいた時であっても、作ったのは学生時代に数回あった調理実習の内一度だけ味噌汁と焼き魚と白飯というメニューを作った時のみの一回だったが。

 味噌汁なんてものはだし汁に味噌を溶けばできあがるだろうなんて、案外と大雑把な考えを持っている木手はかといって犬一匹のために味噌を買いに行って出汁を取る気にもなれず牛乳を手に取った。

「……牛乳をご飯にかければ…いや…」

 中にはそのメニューを好む人もいるらしいと聞いた事はあるが、木手自身がその食べ合わせを好まないせいか犬に食べさせるのにも気が引けてしまう。
 どうしたものかと思っていると、テーブルの上に置いた携帯が震えて着信を知らせてきた。
 まさか知念が調べて電話してくれたのかと思って手に取ると、画面には別の旧友の名前が表示されている。

 あぁ、食べるものならこの男がいた、と電話に出ながら木手は思った。

「もしもし、田仁志クン。ちょうど良かった」
『犬の食いもんだばぁ?』
「おや、どうしてしってるんですか」

 田仁志は知念から電話があったのだと言う。
 知念も木手と同じく食べ物であれば田仁志に聞けばわかるだろうと踏んだらしく、木手との通話を切ってから田仁志に知らせてくれたらしい。

「そうですか、ありがとうございます」
『して、犬ってまぎーさぁ?』
「いえ、子犬です。歯は立派なものが生えてるみたいですよ」
『だったら普通のドッグフードでも大丈夫あんに?やしが心配なら湯か犬用のミルクでふやかせば大丈夫さぁ』
「犬用のミルク…」
『ドッグフードぐらいコンビニで売ってるばぁ?そっち東京あんに』

 いくら東京でもコンビニでドッグフードなんか売ってるもんだろうか、そう考えかけて帰りに寄ってきたスーパーにはペット用品のコーナーがあったのを思い出した。
 さっき閉めたばかりのクローゼットの扉を開けながら田仁志に礼を言って携帯を切った木手は、ベッドの上からこちらを見ている子犬を見下ろす。

 置いて行くのは少し不安だが、スーパーに連れ込むわけにはいかない。

 どうしたものかと考えている木手の目の前で、子犬は木手に近づこうとベッドの端に寄ってくる。
 身を乗り出して高さを図っているらしいが、高すぎるのに躊躇して後ろに下がろうとした途端掛け布団が滑って床に頭を打ちつけた。
 やはり、置いて行くのは心配だ。

「大丈夫ですか?」

 驚いた所為か床に座り込んだままこちらを見上げている子犬に一声かけて、木手は大きめのパーカーを取り出した。



 結論から言えば、わざわざスーパーまで行くことはなかった。
 スーパーまでの道のりにあるコンビニで、田仁志が言った通り犬の餌が売られていたからだ。

 袋をガサガサ言わせながら再び部屋に戻ってきた木手は、不自然に膨らんだパーカーがごそごそ動くのを片手で抱え直す。

「じっとしてなさいよ。落とされたいんですか」

 居心地が悪いのか中で動き回るのを何とか抑え込みながらベッドに腰掛け、パーカーのジッパーを下まで下ろした。
 転がるように飛び出してきた子犬は、遊んでもらっているとでも思っていたのか尻尾を振って木手の側でこちらを見つめる。

「やんちゃですね君は」

 垂れ下がった耳の後ろを軽くくすぐって立ち上がった木手は、少し考えて子犬をベッドから床に降ろしてやる。
 足にじゃれつくのをそのままにローテーブルにビニール袋の中身を取り出し、ついでに買った缶ビールを冷蔵庫に入れる代わりにシンクの下から使っていない食器を持ってきた。

 コンビニの棚に並べられていたのは、硬いドッグフードの小さな袋と缶詰だった。
 住宅街だからなのか、ご丁寧に子犬用、成犬用、老犬用と三種類あり隣には猫缶まで並べられている。
 猫の餌は猫缶なら、果たして犬の餌は犬缶と呼ぶのかなんて思いながら子犬用を2つ手に取りサッサと会計を済ませて帰ってきた。

 缶切りのいらないタイプの蓋を開け、中身を全て皿の上に出す。
 肉のような食べ物の匂いはするが人間の木手にはどうにも美味しそうには見えないが、開けた瞬間から子犬はテーブルの上に前足を付いて尻尾を激しく振っていた。

「こら、テーブルに手をかけちゃ駄目ですよ」

 軽く叱りながら皿を床に置くと、小さな皿に頭を突っ込むようにして食べ始める。
 やはり捨てられていたためにかなり空腹だったのだろう、そう言えば水を用意し忘れていたとキッチンに立った時部屋にインターホンの音が響いた。
 ギョッとして扉を見つめていた木手に、扉をノックする音が聞こえてくる。

「木手さん?大家の斎藤だけど」
「ち、ちょっと待ってください!今出ます!」

 何とか扉の向こうに返事をしてから、未だ餌にがっついている子犬と餌の皿をもってバスルームへ放り込む。
 怖くないように電気だけ付けておいて、扉越しに話しかけた。

「いいですか、静かにしていてくださいね。ここはペット禁止なんです。見つかったら追い出されちゃうんですよ」

 ザリザリと扉を引っ掻く音が止んだのに安心して、木手は足早にキッチンを横切って玄関へ向かう。
 鍵を開けた木手が扉を開くと、大家が体を割り込ませるようにして玄関の中へ入り込んできた。

 夫婦で管理人をしているこの女性は、木手の母親ほどの年齢をしている。
 気さくで明るく話しやすい性格をしているが、初めて木手を見た時に男前ね、これじゃモテるでしょとにっこり笑うような口さがなさも持っているような女性だった。

「どうしました?こんな時間に」
「いえね、木手さんの部屋から犬の鳴き声が聞こえてくるって言うもんですから……」
「犬ですか?ここはペット禁止ですよね。犬なんか飼う気はありませんよ」
「そうですよねぇ…」

 変だわ、と言いながら抜け目なく部屋の中を見渡す大家に、木手は内心さっさと帰ってくれと思う。
 けれどもここで追い出すようなことを言おうものなら、逆に不信感を煽るだけだ。
 何とか愛想笑いでごまかそうとしていた木手の背後から、カラン、と風呂場の方で音がする。

「あら、誰かいらっしゃるの」
「え、えぇ…まぁ…」
「そう、あまり騒がないでくださいね。まぁ、木手さんならそんな事はないと思うけど」

 ザリザリとバスルームの扉を引っ掻く音までして、大家が木手の肩越しにバスルームの方を窺っている。
 鳴かれたら終わりだと考えた木手がもう彼女を追い出してしまおうかと思った時、不意に背後から人の声がした。

『なぁ!シャンプー無いんだけどー?』
「え…」
「あら、お友達なのね。おばさん彼女かと思ったわ。じゃ、おやすみなさい」
「あ…はい…おやすみなさい」

 男の声が聞こえた事に何故か落胆したような大家は、そそくさと玄関を出て行ってしまう。
 部屋の前の廊下を歩いて行く彼女を見送ってから扉を閉めて鍵をかけた木手は、バスルームの向こうに見える人影を見つめた。

「そこに誰かいるんですか」

 いるのは間違いないだろう、大家だって声を聞いて納得して帰って行ったのだから。
 けれど自分がさっき子犬を放り込んだ時には誰もいなかったはずだ。
 返事のないバスルームを睨みつけたまま、木手は一気に扉を開けた。

「…………」
「あ、おばさん帰った?これ皿」
「あぁ、はい…」

 綺麗に舐め取られた皿を手渡され、全裸の男が木手の傍をすり抜けてバスルームを出て行く。
 湯の張っていないバスタブや伏せた洗面器の中も一応覗いてみたが、子犬は姿を消していた。
 犬の代わりに手品のように現れた男を放っておくわけにいかないと思い直してバスルームからキッチンへ引き返した木手は、シンクに皿を置いて寝室の方に視線をやる。

「君は一体誰なんで、す…か」
「キャン!」

 しかしベッドの上にはさっきバスルームに放り込んだはずの犬がいて、こちらを見て尻尾を振っていた。

「何なんだ…」

 自分もベッドに腰かけて擦り寄ってくる子犬の頭を撫でる。
 触れた感触も人懐っこさもさっきの子犬で、まさか全裸のままさっきの男が出て行ってしまったのかと思うが玄関の扉が開いた音も窓が開いた音も聞いた覚えが無い。
 何だかよく分からないもののすっかり疲れてしまい、木手は冷蔵庫に入れたビールを取りにキッチンへ向かった。
 本当は風呂上がりに飲もうと思っていたものだが、すっかり疲弊した気持ちでプルタブに指を引っ掛けつつ部屋に戻った。

 ベッドの上では、バスルームから出て行って消えたはずの全裸男がうつ伏せに寝そべっている。

 取り落したビールの缶は重い音を立てて床にぶつかり、ごろごろ転がった。
 まだギリギリ蓋を開けていなかったのが、せめてもの救いかも知れない。


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2008/11/02:完成
2008/11/02:UP