「あっ、クリス先輩どこに行くんスか?!」
外に向かって歩いているところを、クリスはちょうど部屋から出てきたらしい沢村に目ざとく発見された。
「ああ、ちょっとコンビニにな」
「あ、俺も!!俺も一緒に行っていいっすスか!?」
「別に構わんが・・・・・・なら、上に何か着て来い」
時間はもう10時を回っている。6月とは言え、夜は冷えるし、沢村は半袖のTシャツ1枚だ。
「はいっ、うわ!!」
その途端に、開けたままだった扉の中から、真っ赤なパーカーが沢村に投げつけられる。
「沢村ぁ、ついでにアイス買ってこい」
「プリンもな!」
「うっす!」
沢村が元気よく返事をしながらパーカーに袖を通した。
「ついでにコイツも持ってけ!」
パーカーを羽織ったところで、さらに携帯電話も飛んできた。
「うわわわわ!?あぶね!」
沢村が慌ててキャッチする。
「携帯投げんな!壊れるだろ!!」
途端に倉持も部屋から出てきた。
「野球部なら捕れ! つーか先輩にタメ口きくんじゃねぇ!!」
「あだ!!」
倉持がぱかっと沢村の頭を殴る。
「倉持、そろそろ連れて行ってもいいか?」
放って置くと長くなりそうだと、苦笑しながらクリスが口を挟むと、ヘッドロックをかけようとしていた倉持がはっとして手を放した。
「あ、そうっすね!! オラ、とっとと行って来い!」
「いで!!」
倉持に背中を蹴られ、眉を顰めて背中を擦りながら沢村がクリスによってくる。
「倉持センパイ、いっつも暴力バッカ・・・・・・」
「今のはお前が悪い。行くぞ」
「あ、はいっ」
沢村は嬉しそうに笑って、クリスの横に並んだ。
「クリス先輩と、学校とグラウンド以外の場所に一緒に行くのって初めてッスよね!!」
「・・・・・・コンビニだぞ?」
嬉しそうな沢村に苦笑すれば、沢村はますます嬉しそうな顔になる。
「クリス先輩となら、どこでもいいんスよ!」
それでは飼い主と散歩をする犬とまるで変わらない。
「俺は犬の散歩をする飼い主じゃないんだが・・・・・・まぁ、いいか」
こういう時の沢村は、ただただ無邪気に、信頼を寄せてくる。
ヘッドライトをつけた車とすれ違い、ふとクリスは沢村が車道側を歩いているのが気になって、沢村を押して車道側に入れ替わった。
「へ? クリス先輩・・・・・・?」
「お前はそっち側を歩け」
「は、はぁ」
沢村だってれっきとした高校生の男だ、そんなにも庇ってやる必要はないのはクリスにも分かってはいる。だが、大切な人を守りたいと思う気持ちには、必要性など関係はありはしない。
不思議そうな顔をしている沢村に、理由は説明せずに歩いていると、また車とすれ違った。
沢村がはっとして立ち止まる。
「・・・・・・クリス先輩!やっぱり俺が車道側歩きます!」
「ダメだ」
「でもっ、って言うかやっぱりソレなんじゃないっすか!!」
沢村にも、クリスの意図が分かってしまったらしい。ぎゃあぎゃあと騒ぎ始めた。
「お前は大事なうちの一軍ピッチャーだ、怪我をさせるわけにはいかんだろう」
「そんなん関係ないっすよ!! 俺だってクリス先輩にもう怪我なんかして欲しくない!!」
「車道側だからと言って、必ずしも事故に遭う訳じゃないだろう」
「だったら俺が車道側でもいいじゃないッスか!」
こうなると沢村も意外と頑固なため、中々譲らない。
「俺はお前に守られなきゃならないほどやわじゃないぞ」
「それは知ってます、けど・・・・・・でも!」
沢村が悔しそうに歯を食いしばった。
「俺は弱いし、まだまだだし、クリス先輩にはいっぱい迷惑かけてますけど!でも、俺だって俺のできる範囲のことでクリス先輩を守りたいです!」
沢村の真っ直ぐな視線がクリスを正面から見据える。こういう時、自分だってそんなに弱くない、などと言い出さないのが沢村だ。
自分は弱くない、と言い出すことは、ある意味お互いに『自分の身は自分で守れ』ということにもつながる。だが沢村は違う。自分は守られて助けられていることを認識し、その上で自分も相手を守り助けると手を差し伸べる。
その心が、どれほど周囲を救っているか、本人は考えもしないのだろう。自分のせいでピンチが広がったと、悔いている人間を、沢村の言葉はあっさりと救いあげてしまう。
・・・・・・クリスもそうだった。自分のこなすべき役割もこなせず、ピンチが広がったと焦るクリスに、沢村は共にピンチを乗り越えようと笑った。味方のたった一つのエラーから崩れるピッチャーのどれほど多いことか、そして沢村のあの笑顔がどれほどクリスの心を救ったのか。当の沢村には、知る由もない。
「・・・・・・沢村」
手を伸ばして沢村を抱き締めると、沢村はふぎょっ!?と変な声を上げて固まった。
クリスはそれには構わずに、抱き締めた手に力をこめる。
それ以前から、随分沢村を可愛がっている自覚はあった。自分はこの後輩に、相当目をかけている、と。
だが、あの瞬間から、沢村はクリスにとって、愛しくてたまらない存在になった。
「く、クククリス先輩!?」
ゆっくりと身体を離すと、沢村は真っ赤な顔でクリスを見上げてくる。その表情に、クリスは微笑んだ。
「そこまで言うなら、あっちにするか」
「あっち・・・・・・?」
「そこに、遊歩道があるんだ。少々遠回りだが、コンビニのすぐ裏に出ることができる」
遊歩道を指差すと、沢村がへぇ、と興味深そうな表情をする。まだ入学して数ヶ月、殆ど学校と寮の往復しかしたことが無い沢村は、知らない道だろう。
「あの道なら車は通らない。それどころか夜は人も通らないな」
「あっ、じゃいいっすね!そうしましょう!」
ぱっと明るい笑顔を浮かべた沢村を従えて、クリスは遊歩道の入り口に向かった。
アルファルトの道から、土の地面に踏み出すと、足元でざり、と音がする。木立の中を通る遊歩道には街灯はなく、僅かばかりの月の光が差し込んでいた。
物珍しそうに周囲を見回している沢村に、クリスは声を掛けた。
「沢村、足元に段差があるぞ。気をつけろ」
「え・・・・・・うわっ!」
言った傍から沢村が足を踏み外してよろめく。
「まったくお前は・・・・・・」
「す、すみません」
ふと思いつき、クリスは沢村の手を捕まえて引いた。
「こうすれば大丈夫だな」
「えっ、えっ・・・・・・ええっ!?」
顔は暗闇ではっきりとは見えないが、瞬間的に裏返った声で、沢村が今真っ赤な顔をしているであろうことは予想できる。
「ほら、行くぞ」
笑いをかみ殺して手を引っ張れば、沢村は大人しくクリスに従った。
そのまま無言で遊歩道を歩く。
普段はよく喋る沢村も、口を開かない。
じゃり、じゃりと地面を踏みしめる音がはっきりと聞き取れた。
沢村の手を引きながら、ふと、クリスは繋いだ手が汗ばんできたのを感じ取る。
どちらの掌に滲んだ汗かは、沢村の手ががちがちに緊張していることからすぐに分かった。
「・・・・・・あの・・・・・・」
珍しく蚊の泣くような声で話しかけてきた沢村を、歩みを止めないままに振り返る。
「何だ?」
「俺、掌に汗かいちゃって・・・・・・」
「俺は、お前の汗なら構わない」
繋いだ手がピクリと揺れた。
「お前は手を繋ぐのは嫌なのか?」
「そ、そんなことっ!!」
「なら、いいだろう」
普通に繋いでいた手を、指をからめるように繋ぎなおす。
「〜〜〜!! 口から心臓が飛びでそうなんですけどっ・・・・・・!」
明らかに沢村がうろたえているのがよく分かり、クリスは笑った。
「正直だな、お前は」
「クリス先輩は、いつでも冷静すぎッス・・・・・・!」
「そうでもないぞ。それに・・・・・・ほら」
急激に視界が開け、眩しい光が目に飛び込んでくる。
「ついたぞ」
手を放すと、沢村は少し寂しそうな顔で、繋いでいた自分の手を見た。
緊張したのは事実でも、放されればそれはそれで寂しいと、その表情がはっきりと語っている。
それを見て取り、クリスは再び笑った。
「帰りも、繋ぐか」
「は、はいっ! て、え!?」
うろたえておろおろしている沢村を残し、クリスはコンビニの自動ドアをくぐった。

 
クリスが会計を終えてコンビニを出ると、先に会計を済ませていた沢村が、遊歩道の前に立っていた。少し落ち着かない様子でウロウロしているのは、先程の約束を気にしているのか。
「待たせたな」
「あ・・・・・・」
沢村に声を掛けると、沢村は一瞬戸惑った表情になり、それから照れ笑いを浮かべた。
「行くか」
手を差し伸べると、沢村がその手をおずおずと掴む。それから満面の笑みになってぎゅっと力をこめた。
「へへへっ」
「どうした?」
遊歩道の中に入りながら、嬉しそうな沢村の様子を窺う。
「なんか、嬉しいなって」
じゃりっ、じゃりっと音を立てて遊歩道を歩きながら、沢村がクリスを肩越しに見上げた。
「さっきは、すっげー緊張しちゃったから、そんな余裕なかったんスけど」
「確かに。がちがちだったな」
クスッと笑うと、沢村は唇を尖らせる。
「しょっ、しょうがないじゃないッスか!!いきなりだったからびっくりしたんスよ!」
「分かった分かった」
クリスの方にも、驚くだろうという期待が少しあったのも事実だ。
「でも、今はちょっと落ち着いたんで・・・・・・手繋ぐのって、嬉しいッスよね!」
沢村は、無邪気に笑う。
「クリス先輩の手は暖かいな〜とか、やっぱり手大きいなぁ、俺の手なんかすっぽり掴まれるなぁとか、色々思うのが・・・・・・なんかすげーいいなあって思います。クリス先輩の手って、そう言えばちゃんと見たり触ったりしたことなかったし」
繋いだままの手を前に突き出し、沢村はその手を真っ直ぐに見た。
「この手が、いっつも俺の球捕ってくれて。そんで、俺を守って、支えて、成長させて、1軍にまでしてくれたんだなぁって、そう思ったんです。だから俺は、この手から受け取ったものを全て、一軍でちゃんと出し切らなきゃって。クリス先輩の分まで、頑張らなきゃな〜って、すげー思いました」
沢村に返す言葉も無く、クリスは目を見開く。
どうしてこの沢村という男は、こんなにも簡単に自分の中に踏み込んでしまうのか。
ただありのままの自分の全てを投げ出してくるから、どうしようもなくそれを受け止めてやりたい衝動に駆られる。
そして自分の思いも、沢村なら間違いなく受け止めてくれる、と信じられる。
これまで何人もの投手とバッテリーを組んだが、恋愛感情を差し引いても、沢村ほどぴったりと心を重ね合わせたいと願い、そして重ね合わせられると思った相手はいなかった。
「クリス先輩?」
急に足を止めたクリスを、沢村が不思議そうに窺う。繋いだままの手を引くと、沢村はクリスの胸の中に飛び込んできた。
「わ!?」
その身体をしっかりと抱き締める。沢村が戸惑ったようにクリスを見上げた。
「クリス先輩・・・・・・?」
「黙ってろ・・・・・・」
唇に唇を重ねると、腕の中の身体がたじろぐ。
軽く何度も啄ばんで、沢村の様子を確認しようと少し身体を離す。途端に沢村がクリスの肩に顔を埋めた。
・・・・・・足りない。そう、思った。
「沢村」
呼べば、僅かに沢村が顔を上げる。そこに潜り込むようにもう一度唇を重ね、そのまま沢村に上を向かせた。
下唇をはさんで軽く引っ張り、何度か音を立てて吸い付く。力の抜けた唇から、すべての息を奪うように深く重ね合わせると、ぱさり、と音がして、沢村が持っていたコンビニの袋が地面に落ちた。
「ん・・・・・・ふ」
お互いの息が鼻に抜ける音すら聞き取れて、その音に煽られるように抱きしめる手に力を込める。口内に舌を滑り込ませ、歯列をひとつひとつなぞれば、沢村の身体がそのたびに跳ねた。
戸惑っている舌を探り当て、絡み合わせれば、おずおずと沢村も舌を差し出してくる。
その舌を絡めとって愛しみながら、ふとクリスは薄目を開いた。沢村の閉じた瞳の睫が、かすかに震えている。
沢村の様子は、どう見てもこういうキスは初めてであるように見える。だが、下手ではない。
何故だ?と思いながら唇を合わせる角度を変えると、沢村の手がクリスの肩にしがみついた。
ぐっと力が篭った手に、ああ、と思い当たる。
沢村は、上手いキスの仕方なんて勿論知らない。ただ、クリスに全てを任せ、それにあわせようとしているだけなのだ。
クリスの動きを感じ取り、それに合わせ、必死でついてこようとしている。
初めての行為に不安がないはずはない。けれど沢村は、それに対してさえ戸惑うことなく、クリスの導くままに全てを任せてついていけばいいと思っている。
それほどまでの、全幅の信頼がここにあるのだ。
そっと唇を放すと、沢村はぷはっと息をついた。
「苦しいか?」
「いえ・・・・・・」
そうは言っても、沢村の息は僅かに荒れている。ついてくるのに必死すぎて、上手く息が出来ていないのだろう。
少し落ち着くのを待って、クリスは沢村の鼻の頭や頬に唇を落とした。
「く、クリスせんぱ・・・・・・」
少しくすぐったそうに沢村が身じろぐ。それから、クリスの肩に置いていた手を伸ばし、首に腕を巻きつけてきた。
引き寄せられたのか引き寄せたのか、どちらなのか分からないほど自然にもう一度唇を重ねる。
触れあっているはずなのに、触れれば触れるほどに、満たされない。もっと触れたいという欲求ばかりが膨れ上がっていく。
もっと深く。もっと強く。
首にかかる腕の力の強さが、沢村も同じ気持ちであることを雄弁に物語っていた。
そろそろ止めるべきだ、と心のどこかで理性が告げている。
しかし唇をどうにか放しても、たまらずもう一度重ねなおしてしまうのだ。
どうしても、止まらない。止められない。
これほどまでに求めているのに、何故放さなければならないのだと、そう叫ぶ感情が全身を支配している。
沢村の膝からがくりと力が抜けた。その身体を腕で支えて手近な木に寄りかからせ、その上から押さえつけるようになおも唇を重ねて求める。
木に寄りかかったままずるずると崩れ落ちていく沢村を更に追いかけ、ついには完全に力がぬけて地に倒れた沢村の上に覆いかぶさった。
「ク・・・・・・リス、せんぱ・・・・・・」
潤んだ沢村の黒い瞳が、真っ直ぐにクリスを捉える。
「沢村・・・・・・」
赤いパーカーのフードの上に、真っ直ぐな髪がぱさりと落ちるのが目に入った。
引き寄せられるようにもう一度顔を近づける。
睫が触れ合うほどまで近づき、互いの目を閉じかけたそのとき、突然電子音が鳴り響いた。
「う、うわっ!?」
沢村が慌ててパーカーのポケットを押さえる。クリスもはっとして身体を起こした。
「あ、倉持先輩・・・・・・」
携帯を操作している沢村の呟いた言葉に、クリスも上から画面を覗き込む。
『徒歩10分のコンビニ行くのに何時間かかってんだ! とっとと帰って来い!』
倉持からのメールの内容に、クリスは自分の腕時計を見て愕然とした。10時頃に寮を出たのに、もう11時になろうとしている。
「・・・・・・戻るか」
「そうッスね」
お互いを見て、互いに苦笑した。それほどまで自分が夢中になっていたのかと思うと、少々恥ずかしい。
クリスが先に立ち上がり、手を差し出すと、沢村は躊躇いなくその手に掴まった。
その手を離すことないまま、再び歩き始める。
沢村が嬉しそうにクリスを見上げた。
「クリス先輩」
「ん?」
「また、一緒にコンビニ来ましょうね!」
「・・・・・・そうだな」


 
部屋に戻ったらきっと沢村は、倉持に「遅い」と怒られ、アイスを渡せば「何でちょっと溶けてるんだよ」と突っ込まれ、増子に「何で髪に枯葉がついてるんだ?」と聞かれ、色々大変な目に合うことでしょう。

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