今日は前日の雨でグラウンドはぬかるみになっており、タイヤ引き禁止と言い渡された。
あまりぬかるんでいるときに跡をつけると、元に戻すのが大変だから、というのが理由らしい。
ぬかるみと化しているグラウンドを見ながら、沢村は舌打ちをした。
「ちぇー」
昨日の大雨とは打って変わって、今日は透き通るほどの快晴。
けれどしかし合宿明けで身体を休めろと言われ、軽めのトレーニングで早めに切り上げさせられた。
こんなに天気がいいのに、もったいなさすぎる。
「しょーがない、ロードワークにするか」
全然今日は疲れていないし、タイヤも無いしし、ちょっとくらい遠くまで走りに行っても大丈夫だろう。
ロードワーク用のシューズに履き替えながら、どこまで走ろうかと一瞬考える。
いや、行ける所まで行ってみよう。
終わりを決めたら必ずそこで終わる。なら、終わりなんか最初に決めてしまわないで、限界まで走ればいい。
「うし!」
自分で両の頬をパシッと叩いて気合をいれ、軽く屈伸してから沢村はグラウンドを飛び出した。
タイヤが無い分、いつもよりペースは少し速め。
夏だから日は長いけれど、あまりだらだらやってると真っ暗になってしまうだろう。
グラウンドなら暗くなっても困らないが、ロードワークではそうも行かない。
太陽は既に少し斜めになっていて、タイムリミットは日が暮れる頃かなぁとなんとなく思いながら軽快に足を動かした。
真昼ほどではなくとも日差しは強く、すぐにじっとりと肌が汗ばんでくる。
僅かに吹いているそよ風が、走る速度の風とあいまって心地よかった。
ひたすらに足を動かし続ければ、頭の中からどんどん言葉が消えていき、流れ落ちる汗も気にならなくなっていく。
どこへ向かうか、なんて考えることもなく、ただただ真っ直ぐに、どこへ続くのか、何があるのかも知らない道をひたすらに走り続けた。
吸って吸って吐いて吐いてを繰り返す息も苦しくはなく、次第にそれが気持ち良くさえ感じ始める。
どれくらいの時間走っただろうか。周囲が薄くオレンジ色に染まり始めた頃、正面に緑が見えた。
近づくにつれてそれはどんどん大きくなり、ごく近くまでたどり着くと、それが大きな公園であることが分かる。
こんなところに、大きな公園があるなんて知らなかった。そのまま真っ直ぐ突き進み、公園の遊歩道に入る。
公園はかなり大きく、遊歩道は僅かに上り坂になっていた。
大きな木が並ぶ木立の中を、スピードを緩めることなく沢村は走り続け、坂道を登る。
森林の中の綺麗な空気を感じながら、奥へ奥へと突き進むと、急に目の前が開けた。
「うっわ……!」
その場所は高台の上の芝生で、目の前を遮るものは無い。
真正面に、夕日が赤々と燃えていた。
思わず足を止めて、夕日に見入る。日が完全に沈むまでは、もう少し時間がかかりそうだったが、その赤さに見惚れているうちに少しずつ息は整っていった。
「こんなとこ、あったんだ……」
「何だ、初めて来たのかよ」
「うひゃうっ!?」
呆然と呟いた独り言に返事があり、うなじに冷たいものが押し当てられた。
「何っ……倉持先輩!?」
沢村が飛び上がって振り返れば、汗を流している倉持が、アイスの袋を持っている。
「な、何でここに!?」
「ロードワークに決まってんだろ。俺も1年の頃はよくここまでロードに来たぜ? 最近は来てなかったけどな」
ヒャハハ、と笑った倉持が、ダブルソーダと書かれたアイスの袋を開ける。
その中身のアイスキャンデーは、一つのアイスに2本の棒が刺さっている奴だ。倉持がそのアイスを真ん中から綺麗に割り、片方を沢村に差し出す。
「ほらよ!」
「あ、ど、どうも」
「このアイス、1個60円で2本分入ってるからかなり得なんだけどよ。この公園の入り口にある駄菓子屋でしか売ってねーんだよな」
「この辺じゃそうなんスか? 俺、地元のスーパーで買ったことあるッスよ」
「マジか? そりゃいいな、流石にここまで来んのは面倒なんだよな」
倉持がアイスを口に含む。それを見て、沢村もアイスを舐めた。
「……そういや、子供の頃は、金無いから友達と30円ずつ出し合って、いつも半分づつ食ってたんですよね、コレ」
懐かしい味に、懐かしい記憶が蘇る。
「で、いつかコレを半分こしないで、一人で食うのが夢だったんスよ」
「やっすい夢だな、おい」
ふきだした倉持に、沢村も笑う。
「だってガキの頃ッスもん。そんで、熱出した時に、親が何か食べたいものあるか、って言うから、このアイス頼んだんスよ」
しゃく、と一口折って噛み砕くと、冷たさと安っぽいがさわやかな甘みが口の中に広がった。
「でも、一人で食ってもちっとも美味くなくて。いつもと同じ味なのに、美味しくない、変だって思って、その後風邪が治ってから友達と半分こして食ったらいつも通り美味しくて。そんで、ああ、このアイスって一人で食べるアイスじゃないんだな、って妙に納得したんですよね」
笑って倉持を見ると、倉持がふっと微笑む。
「今は美味いのかよ?」
「美味いっすよ!」
思い切り汗をかいた後なせいか、昔食べたときよりも美味しい気がした。
「ハハッ、ホント安上がりな野郎だな! コレ食ったら帰るぞ。今の時間だと、バス使わねぇと夕飯の時間に間に合わねぇな」
「え、バス?」
「何だよ。何か文句あんのか」
「俺、金持ってきてないんスけど……」
「ハァ!?」
倉持が眉を顰める。
「ちょっと待て、テメェ携帯は持ってきてんのか?」
「持ってないッス……痛ぇ!!」
言うなり、拳骨がふって来た。
「こんのドアホ!! こんな遠くまで金も連絡手段も持たずにフラフラ出てくる奴があるか!!」
「だ、だって走って帰ればいいじゃないッスか」
「途中で足つったりしたらどうすんだよこの考えなし!! っとについてきて良かったぜ……」
その言葉に、あれ、と思い当たる。
考えてみれば、普通なら倉持のペースの方が沢村よりも速いはずだ。なのに、ここにつくまで沢村が倉持に気がつかなかったと言う事は、倉持はずっとわざわざ後ろを走っていたことになる。
と言うことはやっぱりもしかして。心配して、ついてきてくれたんだろうか。
「倉持先輩……」
じっと顔を見ると、じろりと睨まれた。
「何でこんな遠くまで来たんだよ」
「あー……行けるとこまで行ってみようかなって思ったんで……」
「行けるとこまでってお前……ほんっと考え無しだよな」
思い切り溜息をつかれてしまって、困って後ろ頭を掻く。
「だってその、ここまでで終わりって決めたらその先は絶対に無いじゃないッスか。夏まで時間ねぇし、ほんのちょっとでも、一歩でも多く成長したいから……」
それが確かに行動の理由ではあるのだけれど、確かに倉持の言うとおり、携帯や金は持って来るべきだった。なんだか言い訳がましくなってしまい、口をつぐんで俯くと、髪がわしゃっとかき混ぜられた。
「馬鹿野郎。クリス先輩に、一人で背負い込むなっつわれたのもう忘れたのかよ」
「背負い込もうとか言うわけじゃないッス。ただ俺、丹波先輩の代わりなんて出来ないかもしんねーけど、少しでも戦力になれるようになりたい」
沢村にも、今のチームの状態がまずいことは薄々分かっている。ぎゅっと拳を握り締めて顔を上げると、真剣な表情の倉持と視線がぶつかった。
「それが、焦りすぎだっつってんだろ。合宿の疲れだって残ってるんだから、少しは身体を休めろ」
「でも、でも走るだけくらいならいいかなって。俺、真っ直ぐ突き進むしかできねぇし」
倉持は微笑とも苦笑ともつかない笑みを漏らす。
「しょうがねぇやつだな。ホント言うことききやがらねぇし……。ま、そんなのをフォローするのも俺らの役目の一つか」
倉持が夕日へと視線を向けた。
赤々と夕日に照らされたその表情は真っ直ぐな視線を赤い太陽に向けていて、揺らぐことの無い強さが見える。
「倉持先輩は……」
「ん?」
「倉持先輩は、何でそんなに強くいられるんスか? 三年の先輩たちだって結構動揺してたのに……」
あの事故の後、チーム内はどこかギクシャクとしていた。落ち込んでいる様子の三年と、どうすればいいのか分からず、戸惑っている沢村たち一年の中にありながら、倉持には迷いがないように見える。
「俺は、去年も一軍に居たからな」
倉持は横目で視線だけを沢村に投げ、それからすぐに夕日に目を戻した。
「お前も、知ってるだろ? 去年も、夏直前に大怪我した人がいる、ってこと」
思い当たった人物に、沢村は思わず息を飲む。倉持はそんな沢村を意に介さずに、言葉を続けた。
「うちはここ数年、ピッチャーが弱いってずっと言われててよ。去年もそうで、その辺に関してはクリス先輩のリードに頼りっきりだった。そんなだったからこそ、クリス先輩も無理しちまったんだろうけどな」
倉持は半分ほど残っていたアイスを一口で食べ、飲み下す。
「夏直前、チームの要になる選手の怪我で、3年の先輩たちはマジでへこんでた。まあ、今回の丹波さんは3年で、あの時のクリス先輩は2年だったから、その辺の思い入れには少し違いがあっただろうけどよ。そんでもやっぱ、最後の夏に賭ける想いってのは、やっぱ皆同じだろ?」
「そう……ッスね……」
倉持は2、3歩夕日に向かって歩き、頭の後ろで手を組んだ。
「そん時によ。先輩たちを影から支えて、まだ1年で右も左も分かってなかった俺らを面倒見てくれたのは、当時の2年だった哲さんや純さんなんだよ」
その表情は、沢村からは見えない。
「先輩たち、監督の話で皆立ち直ったみたいに見えるけどよ、やっぱどうしても引っかかりはあるだろうしな。だから、今度はまだ少し冷静でいられる、俺ら今の2年が支える。そんで、お前ら1年の面倒も見る。去年、あの人たちがそうやってたのを、俺は目の前で見てたからな」
「倉持先輩……」
なんと答えていいのか分からず、唇を噛み締めると、倉持が振り返った。
夕日の逆光でよく見えはしなかったが、倉持は笑っているようだった。
「テメーは気にしないで突っ走ってりゃいいんだよ。怪我しねー程度にな。フォローくらいはしてやるよ」
「……はい!」
力強く頷くと、額の中心を指で押される。
「日が沈んだら、帰るか。バス代貸してやっから、寮についたら返せよ」
「あ、はい」
夕日に背を向けていた倉持が、肩越しに後ろを振り返った。
夕日はもう、半分程度まで沈みかけている。
「ま、俺だって、最初からこんなだったわけじゃねぇよ。辛いことがあったり、独りになりたいときに、ここまで走ってきて夕日を見てたんだ」
「えっ」
「辛いことを乗り越えた数だけ強くなる。そういうもんだろ」
ふ、と笑った倉持の横顔が夕日に照らし出された。その顔は強いのに、……何故か、どこか孤独な気がした。
「あの、倉持先輩!!」
「んあ?」
「今度、夕日見たくなったときは俺も呼んでください!! 一緒に来ましょう!!」
力強く言い切ると、倉持が目を見開く。
「一緒にってお前、独りになりたいときだっつってんのに……」
「や、だって独りでなんて、寂しいじゃないッスか」
「お前絶対意味分かってねぇだろ」
「でも、アイスだって一人で食べるより二人で食べた方が美味いし、だったら辛いときだってきっと二人の方が楽になれるッスよ」
独りで何もかもを背負い込もうとするな、と自分もよく言われるけれど。倉持にも、独りで辛い思いを背負っては欲しくないと思った。
何も出来なくても、役に立たなくても、せめて隣に立っていたい。
「お前は……」
呆れたように呟いた倉持がそこで言葉を切って苦笑した。
「まあ、それもいいかもしんねぇな」
そのまま僅かな間無言になり、二人で揃って夕日を見る。
「綺麗ッスね」
「そうだな。今まで見た夕日の中で、一番綺麗かもしれねぇ」
ふと夕日に染まった倉持の表情に視線を向け、沢村は胸の中に何かモヤモヤした感情が生まれたことに気がついた。
倉持の表情は、いつものからかう様な笑みではなく、今まで見たことも無いごく穏やかな微笑を浮かべている。なのに、何故こんなにモヤモヤしているのだろう。
まるで曇りガラスのような、透明なのに透き通らない不可思議な感情が胸の中で渦巻いていた。
「なーに見てんだよ」
沢村の視線に気がついた倉持が振り返り、いつものからかうような笑みを浮かべる。
「俺に惚れんなよ?」
覗き込みながら告げられた言葉に、その瞬間、不可思議な感情の正体がはっきりと知れた。
「あ……」
この人に惚れている、のだ。自分は。
でも。
俺に惚れるな、と、いわれた。
「は、……い」
自覚した瞬間に、失恋した。
虚ろに答えた言葉に、倉持が戸惑いの表情を浮かべる。
「おい、そこは頷くとこじゃなくて惚れてねぇっつーとこだろうが。疲れてんのか?」
「あ、はは、そうっすね」
「しょうがねぇな、とっとと帰るぞ」
バン、と力強く背中を叩かれ、沢村は倉持の背中に従ってとぼとぼと歩き始めた。
惚れるな。当たり前だ。倉持なら、いくらでも可愛い女の子がよってくるだろう。
男である沢村を、わざわざ相手にする理由が無い。
夕日に視線を向けると、太陽は赤い夕暮れの名残を残して、もう地平線に姿を消していた。
つい数分前まで、赤く、何よりも色鮮やかに見えていたその光が、やけに暗く見える気がした。
バスを待つ間も、なんだか調子のよく無さそうな沢村に、倉持は内心で舌打ちした。
夕日が沈んでからなどと言わず、さっさと連れ帰ればよかった。疲れも溜まっているだろうし、汗をかいていたから身体を冷やしてしまったのかもしれない。
幸いにしてバスはすぐに来た。
すぐに乗り込んで、二人席に並んで座る。
「寝てろ」
「でも」
「ついたら起こしてやる。いいから寝てろ!」
きつい口調で言うと、沢村は無言で目を閉じた。それから時を置かずして沢村の寝息が聞こえ始める。
バスがカーブに差し掛かると、その弾みで沢村の頭が倉持の肩に倒れこんできた。
他に誰も乗客がいないのをいいことに、そのままにしてゆっくりと頭を撫でてやる。
その寝顔が、撫でるたびにかすかに笑顔になるのに気がつき、倉持は微笑んだ。
コイツには、いつだって世話ばっかり焼かせられる。今日だって、ロードワークに出た背中がなんだか危なっかしくて、ついついついてきてしまった。
ちょっと目を離すとすぐに暴走する、どうしようもない馬鹿な後輩。
でもその性根は真っ直ぐで、真っ白な心の持ち主。
「ほんと……しょうがねぇ、な」
独りになりたいときに夕日を見に来る、なんて、そんな格好悪い弱音を言うつもりはなかった。
でも、いつになく夕日が綺麗に見えて、思わず口をついてでた言葉だった。
なのに。一緒に夕日を見に来よう、と、この馬鹿は言った。
独りになりたいと思う時というのは、詰まる所、逆に孤独を感じているときなのだと思う。
誰にも悩みを話せないとか、理解してもらえないとか、そう思っているときに独りになりたいと思うのだから。
沢村はきっと、それが分かっているのだろう。理屈ではなく、本能で。
今日の夕日がやけに綺麗に見えたのも、隣にコイツがいたから、かもしれない。
……ずっと自分を誤魔化してきた。
単に、世話の焼ける奴だから、ただそれだけの理由でコイツをいつも目で追っているんだ、と。
けれど、沢村は基本的に誰にでも好かれる奴で、可愛がっている人間は他にも沢山いる。
自分が必ず見ていてやらなきゃいけない理由なんて、本当は無いことも知っていた。
ずっと、見ないふりをしていた自分の感情。
……俺は、お前を。
心の中で呟いて、倉持は首を横に振った。
コイツの中では唯一無二、絶対の信頼と尊敬を向けているのは、クリス先輩。
その上、野球馬鹿でピッチング大好きな奴だから、どうしても優先順位がキャッチャーだのピッチャーだの、そういったポジションの人間にばかり神経を向ける傾向がある。
おまけに同じ学年でも無いから、仲良しお友達なんてわけにも行かない。
自分に与えられているポジションは、精々がよく面倒を見る兄貴分と言ったところでしかないのだ。
「……ちくしょう」
それでも傍に居られるならいい、なんて思うあたり、もう末期だ。
ふと、バスの運転席に視線を向ける。
バックミラーを使っても、自分たちの姿は見えないだろうことを確認して、倉持はゆっくりと沢村の唇に唇を寄せた。
翌日の夕方、沢村は寮の自室で独り、膝を抱えていた。
何で気がついてしまったんだろう。
気がつかなければ、今までと変わらずにいられたのに、とため息をつく。
これ以上好きになっては駄目だと思うから、嫌なところや意地悪なところを探して、嫌いになろうとしているのに、探せば探した分だけ好きなところばかり見つけてしまう。
意地が悪いのだって、甘やかさないで成長しろって背中を押してくれているんだとわかってしまうのだ。
好きだ、と言ってしまいたい。
だけど、惚れるなって言われてるんだし、やっぱり諦めなくてはいけない。
それに、距離が近すぎて、今更どんな態度を取ればいいのかも分からなかった。
「くっそ!」
自分のベッドにごろんごろんと転がる。
言いたい。けど言えない。どうすればいいんだろう。
もう、『伝えたい』のではなくて、自分の中にある気持ちを『吐き出してしまいたい』というレベルなのだ。いっそ聞いてもらわなくたっていい。
どこか誰もいないところで叫んでこようか。
でも、地元と違って、このあたりには誰もいない、叫んでも大丈夫な場所なんて中々無い。
そう言えばそんな御伽噺がなかったっけ?と考えていると、部屋のドアが開いた。
「何だ、お前居たのか。静かだから居ないもんだと思ったぜ」
帰ってきたのは当の倉持だった。
「独りで喋るわけ、無いじゃないっすか」
「テメーは独りでもいつもウルセーだろ」
ヒャハハ、と笑った倉持が床に座る。
すると丁度ベッドに寝転がる沢村と目線の高さが同じになり、沢村は思わず倉持を見つめた。
「何見てんだよ?」
「ハッ! あ、いや、な、何でもないッス!!」
取り繕って誤魔化して、何か無いかと慌てて自分の携帯電話を掴む。
そしてふと思いついて、携帯電話を開いた。
言葉には出せないけれど、これになら。
新規メール画面を開いて、あて先に倉持を選ぶ。
タイトルはなし。
本文に1文字ずつ入力していく。
す……
き……
で……
す。
変換。『好きです』
送信はせずに保存すると、少し頬が緩んだ。
「そうだ、あの話だ。『殿様の染みは蕎麦の染み』」
「はぁ? なんだそりゃ」
呟いた言葉に倉持が反応する。
「御伽噺に、言っちゃいけない言葉を、穴掘って叫ぶ話があったじゃないっすか。『殿様の染みは蕎麦の染み〜』って」
「阿呆、『王様の耳はロバの耳』だろ、そりゃ」
「あれ? そうでしたっけ」
目線をあげて倉持を見ると、呆れた顔をしている。
「つーか、一個もあって無いじゃねーか」
「まー、そのへんはどうでもいいじゃないッスか。ただ、言いたくて仕方が無いのに言っちゃいけないことがあるって大変だなぁって思って」
「ああ? でもあの話、穴に叫んだ後にその話結局外に漏れんだろ?」
「ええ!? マジで!?」
「確か、穴を埋めたところから木が生えて、それで作った笛の音が『王様の耳はロバの耳』って聞こえるとかなんとかいう話じゃなかったか?」
「うえ……んな訳わかんねーことで秘密ばれたら泣ける……」
穴に向かって叫んだ人に同情して眉を顰めると、自分の『秘密』もこのままではまずいことに気がついた。
何しろ、倉持本人が、時々沢村の携帯を勝手に弄ることがある。流石にそれはヤバイ。
そう言えば以前、倉持が勝手に携帯を弄ることを春市に愚痴ったら、ロックをかけておけといわれたんだった。
ロック、ロック……とメニューを探していると、倉持のからかうような声が聞こえる。
「テメーでも秘密なんかあんのかよ」
「そりゃ俺だってこのメールだけは見られちゃ困るッスよ」
「ん?」
「え?」
思わず答えてしまってから、はっとして顔を上げると、倉持の視線が沢村の携帯に注がれていた。
「見せろよ」
「い、嫌ッス」
「見せろっつーの!! 先輩命令だ!!」
言うなり、倉持が沢村のベッドに飛び込んできた。
「ギャーーーー!! 来んなぁぁぁあ!!」
逃げようとする間も無く、腕が首に回されて捕獲される。
それでもぎりぎり抵抗して、背中から自分を捕まえている倉持から遠ざけるように、携帯を遠くへ遠ざけた。
「こ、の、やろー!」
「ぐぎぎぎ……」
「寄越せ!」
「嫌だー!」
倉持の声が耳のすぐ近くで聞こえ、温かい息がかかってはっとする。
よくよく考えてみれば、密着するような体勢になってしまった。
倉持が手を伸ばせば伸ばすほど、身体が密着する。
意識したら急に恥ずかしくなり、顔がカァと熱くなった。ヤバイ。こんなんじゃ気づかれる。
「はな、放せっ……」
「携帯寄越せば放してやるっつーの。つーかタメ口禁止!!」
首に回されている倉持の腕に、更に力が篭った。
苦しい。
身体が苦しいんじゃなくて、心が苦しい。
くっつくのが嬉しいのと困るのと、半分半分で、ぐちゃぐちゃな気分になってくる。
携帯を渡せと言われても渡せるわけも無くて、でもそれじゃ放してもらえなくて。
「うー……っ」
どうしようもなくなって、涙がぼろっとこぼれた。
途端に、倉持の腕がゆるくなる。
「なっ、何も泣くことねぇだろうが!?」
「ううううう……」
自分でもこんなことで泣くなんてとは思うけど、涙が止まらない。
「ちょっ……っ、オイ、もう無理矢理見ようとかしねぇから泣くな!! ホントうぜぇなお前!!」
ウザイ、と言われて尚更涙が出てきた。ぼたぼたと落ちた雫が、布団に染みを作る。ウザイとは初めて言われたわけでは無いけれど、意識するようになってから言われると流石に辛い。
「な……」
倉持が困ったように手を放した。ダメだ、本当にますますウザイと思われてしまう。
沢村は歯を食いしばって、腕でごしごしと勢いよく涙を拭いた。
「携帯は、ダメ、……ッス」
「分かったっての!! 見ねぇよ!!」
舌打ちをした倉持がそっぽを向く。
ほっと溜息を吐いて、携帯の画面を覗き込むと、ロックの暗証番号を登録する画面だった。
「倉持先輩……」
「あんだよ」
「誕生日、いつっすか?」
「あ? 何だ急に」
風呂に言ってくる、と沢村が部屋を出た後、倉持はがっくりと肩を落として溜息をついた。
何かの理由があって沢村を叱り、それで泣かせたと言うなら気にも止めないが、さっきのように明らかに倉持に非があって泣かせるのは、流石に良心が痛む。
「ったく、何だよ、いっちょ前に隠し事なんかしやがって……!」
正直、あそこまで必死に何か隠し事をされるほど、懐かれていないとは思っていなかった。
むしろ、今日は少し様子がおかしい感じがあったから、それが気になっての行動だったのに。
増子や春市あたりに何かあったのかと聞いても、そもそも様子がおかしいと感じないと言う返事が返ってきただけに、自分が話しを聞いてやろうと、そう、思って。
「あんだよ……」
兄貴分ポジションですら、居られないのか。
泣き出した沢村より、泣かれたこっちの方が、絶対ショックを受けてる気がする。
あの後何故か倉持の誕生日を聞いた沢村は、携帯を少し操作した後、一度も視線を倉持に向けることなく部屋を出て行った。
「別に……いいけどよ、嫌われたって……」
どうせ手に入らないなら、そこそこ懐かれていようが嫌われていようが、大差は無い。どう思われていようが、ただ、影から面倒を見続けるだけの話だ。
沢村がどう思っていようと、面倒を見るのを辞める気は全く無い。それだけは間違いないのだから、何も問題は無いんだ。
……そう、自分に言い聞かせる。
溜息を一つ吐いて軽く頭を振り、マイナスの思考を頭から追い出した。
「にしても、何だったんだ、ありゃ」
一体何をあそこまで必死に隠していたんだろうか。
普段は何でもかんでも感情垂れ流しの沢村が、必死に隠すことなんて想像もつかない。
そう言えば風呂の準備をするときに、携帯を机の上に置いてたな、と、何とはなしに机に目を向けると、沢村の携帯はまだそこにあった。
「……部屋出るときに置いていったら意味ねーじゃん、本気でバカだな」
立ち上がって机に向かい、携帯を手に取る。
二つ折りのそれを開いてボタンを押すと、いつもとは違う画面が表示された。
「ん!?」
ロックが、かかっている。
「沢村のくせに生意気な!!」
こうまでして隠されると、意地でも見たくなる。
沢村に関する数字で、知っているものを片っ端から入力した。
だが、思いつく限りの数字を入れるだけ入れても、ロックが解除されない。
「クッソ、何でだ!! 沢村のくせに!!」
バカな奴だから、何の関係も無い数字を入れて、覚えておけるとは思えない。
だから、誕生日か電話番号か、はたまた覚えやすいぞろ目系の数字か。絶対にそのあたりのはずだ。
「……もしかするとアイツに関する数字じゃねぇのか?」
今朝触ったときはロックなんかかかっていなかったから、ロックしたのは間違いなく今日だ。
と、言うことは、ここ最近で沢村に強い影響を与えたものの数字が使われている可能性も十分あるだろう。
「じゃあ……クリス先輩とか、御幸あたりか」
その二人の誕生日と電話番号を入れてみても、やはりロックは解除されない。
「あ〜〜〜……ん?」
悩んで頭を掻いていて、ふと引っかかりを覚えて思考をまき戻した。
ロックをしたのは、今日。
しかも、ついさっきまで沢村は携帯を弄っていたわけで、そのときは倉持に見せまいと大騒ぎしていた。と言うことはもしかすると、その瞬間にロックをかけたんじゃないだろうか。
……なんで、誕生日を訊いたんだ?
まさか、と思いつつ、自分の誕生日を入れてみる。
……ロックが、解除された。
「っま、マジかよ」
そのまさかが大当たりして、半ば呆然とする。
いや、しかし沢村に関する数字で、単に倉持が知らないものと倉持の誕生日が重なっただけかもしれない。
まずはとりあえず、目当てのメールを確認することにした。
「……別に受信メールも送信済メールも、変なやつはねぇな……?」
確かに、メールを見られたくない、と言ったはずなのだが。
もしかしてあの後メールを消したんだろうか?
しかし消せば済むようなものなら、最初から秘密になんてしないで消せばいい話なのに。
ついでに未送信メールを開いてみると、そこには1通メールが保存されていた。
「お、これか?」
迷わずそのメールを開く。
そして、倉持は完全に硬直した。
あて先は自分。
内容はただ一言。
『好きです』
「な……に……っ」
これが、沢村の秘密。
いや、単なる親愛の好きだろうかと考えて、自分でそれを否定した。
今日の沢村の妙な態度は、これがそう言う意味だとすれば……辻褄が、あう。
朝から沢村の態度が少しおかしいと倉持は感じたのに、増子や春市ら他の周囲の人間は、特にそう感じていなかったのは、おそらく倉持に対してだけ態度がおかしかったからだ。
王様の耳はロバの耳とか言い出したのは、多分携帯のこのメールが、穴代わりなんだろう。
そして、携帯のロックの暗証番号は、間違いなく倉持の誕生日を入れたのだ。
全ての行動が、沢村の中にある一つの感情の存在を示している。
顔に一気に血が集まった。今鏡を見れば、間違いなく自分は真っ赤な顔をしているだろう。
「倉持先輩、今風呂すいて……」
急に部屋のドアが開いた。
そして、倉持は戻ってきたのが沢村であることを確認し、沢村は倉持の手の中にあるものに視線を向け、部屋の空気が凍りつく。
「っっっぎゃーーーー!! 何で俺の携帯弄ってるんだアンタ!!」
先に我に返ったのは沢村だった。
「返せ!!」
先程とは逆に、今度は沢村が携帯を奪おうと倉持にとびつく。倉持は取られないように携帯を遠ざけながらにやりと笑った。
「何でこのメール送らないんだよ?」
「っ!?!?」
沢村が、明らかにビクッと反応して動きを止める。倉持はニヤニヤしながら畳み掛けた。
「それから、ロックの暗証番号……なんでこの番号になってんだ?」
倉持としては、ここで沢村に白状させて、それからこっちも気持ちを伝えて、それでうまくいく……という流れを想定していた。
切り札は倉持の手の中にある。沢村の気持ちはもうはっきり分かっているのだから、大丈夫な、はずだった。
ところが、沢村は倉持の想定したとおりの反応をしなかった。
見る見るうちに真っ青に青ざめ、震え始める。
「すいま、せ……すいません……っ」
ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ始め、沢村はじりじりと後ずさった。
「え? おい……」
「迷惑だって、分かってんのにっ……」
「は? ちょっと待て、お前」
「すみません!!」
沢村が目を擦りながら踵を返して、いきなり逃げ出す。
予想外の事態に、倉持は本気で慌てた。
「おいこら! 何だそりゃあ!!」
沢村の反応は、どう見ても失恋したと思い込んでいるようにしか見えない。ここで逃がすのはヤバイ、と判断して、倉持は沢村を追いかけた。
「沢村!! 待てコラ!!」
「追いかけて来んなぁぁぁぁ!!」
直線の100m走なら、沢村より倉持の方が速い。しかし、如何せんここは障害物の多い寮。沢村が何故だか上手い事するすると素早く障害物をかわしていくため、中々距離が縮まらない。
「止まれ!! 命令だ!!」
「うるせーーーー!!」
全く速度を緩めることなく、沢村が寮と室内トレーニング場の間の路地をかけていく。
倉持もその後を追って走り続けた。
路地を抜ければ、そこから先はグラウンドで、校舎までは何も障害物は無い。
既に暗闇で人気が無いグラウンドを横断する間に、全力疾走すればすぐに距離は縮まり、校舎目前でようやく腕を捕まえた。
「はなっ、放せよっ」
「少し大人しくしろっつーの!!」
潅木の植え込みの中に引きずり倒し、暴れる身体を押さえつけて組み敷く。
「あん、あんた最低だ!! 携帯見ないっつったのに!!」
「う……」
ぼろぼろと泣きながら沢村が倉持をなじった。それについては言い訳のしようも無く、返答に詰まる。
いつもなら携帯を置いてく方が悪いんだろ、とでも言ってやるところだが、今日ばかりはそれをやったら、『好き』から『大嫌い』に一気に転じてもおかしくない。
「わ、悪かったよ」
「からかって、馬鹿にして、流すくらいならっ、知らないふりくらいしてくれたって、いいじゃんか!!」
「ちょっと待て。からかったわけじゃねぇし、馬鹿にしてもねぇよ」
落ち着かせようと、ことさら静かな口調で話しかけても、沢村は何とか逃げ出そうとじたばたと暴れて首を振った。
「嘘だ!! 大体振っておいて追いかけてくんな!! 放っておけよ!!」
「ちょっ……勝手に決め付けんなよ!! いつ俺が振ったっつーんだ!!」
「だってアンタ、惚れるなっつったじゃん!! 迷惑なんだろ!?」
「は?」
意味が分からず、記憶を逡巡する。
「……もしかして、昨日、か?」
しゃくりあげながらこくり、と頷いた沢村に、頭が痛くなった。
「バカかお前!? つーかバカだな!? バカだもんな!!」
「ば、バカバカ言うなーーー!!」
「バカだっつーの!! あんなの冗談で言ってるに決まってんだろバカ!!」
「じょ、冗談だったって言っても、結局迷惑だからそう言う冗談いったんだろ!!」
「決め付けんなっつってんだろこの激烈バカ!!」
組み敷いたままの状態で怒鳴りあいになってしまったことに気がつき、倉持は肩を落とした。
コイツには、振り回されてばかりいる気がする。沢村のペースに巻き込まれて同レベルでやりあってたら、らちがあかない。
思わず溜息をつくと、沢村が息を飲んで唇を噛み締めた。それから、ふいとそっぽを向いて視線を逸らす。
「それに、……からかってないんだとしても、同情とかされたくない」
「俺はどうでもいい奴に同情でここまでするほど、面倒見良くはねぇよ」
お前だからだ、という意味を篭めていったのに。
「別に……ピッチングとかに、影響させたりはしねぇッスから」
その言葉を、沢村はチームのためだと受け取ってしまったようだった。
「だから、んなトコまでフォローしてくんなくていいから、どいてくれよ……! アンタにそうやって乗っかられてると、胸の真ん中辺が、潰れそうになるっ……」
沢村の唇が震えている。
感情を隠すのも、我慢するのも、苦手なくせに。
今、必死で押し殺しているのだろうに、こんなにもはっきりその気持ちが、伝わってしまうほどに。
腕を押さえつけていた手を離し、頬に触れると、沢村がびくりと身を竦めた。
「俺に惚れるな、っつったアレ、訂正すんぜ」
「え?」
しっかりと視線を合わせ、真正面から見つめながら、一言一言、はっきりと告げる。
「沢村。俺に、惚れろ」
沢村の目が大きく見開かれた。
「……無理ッス」
「ああ!?」
ここまで来て何だその返事は、と衝撃を受けると、沢村がぼそりと続ける。
「もう惚れてるから、今から惚れるのは、無理、だ」
「なっ……」
何クソ可愛いこと言い出してるんだ、このバカは。
「分かった、じゃあもっと惚れろ」
「これ以上なんて無理」
「テメェは何でそういちいち反抗して……!」
……来るのに、可愛いのがまた、厄介だ。
「……俺のモンになれよ」
「だから、そこまでフォローしなくてもい」
「いい加減にしろこの馬鹿!!」
思わず怒鳴りつけると、沢村が一瞬硬直して、目に涙が溜まった。が、もう倉持にもそんなことを気にする余裕は無い。
「いくらなんだって、フォローで男と付き合うとまで言うわけねぇだろ!! テメェはアレか、もしも降谷とかが俺のことを好きだとか言い出したら、ほいほい付き合ういい加減な野郎だと思ってんのか!!」
「え……、いや、俺……」
「惚れてるとか抜かしても、信用はしてないってか?!」
「ちが、違う!! でも、倉持先輩もてそうだし、可愛い女の子だっていくらでも寄ってきそうだし」
「んなの関係ねぇだろ!! 俺がテメーがいいっつってんだこのバカ!!」
沢村が目を丸くして倉持を見上げる。倉持は沢村の襟首を掴んだ。
「いいか、『ハイ』以外の返事は認めねぇからな!! 俺のモンになれ!!」
「ハ、ハイ!! んっ!?」
返事をした瞬間を狙って唇を重ねる。一瞬だけ押し当ててすぐに離れると、沢村は数秒間呆然とした後、見る見るうちに耳まで真っ赤になり、口を押さえた。
「ったく、何だってこんな力技になっちまってんだよ……!」
自分で自分に呆れて、愚痴りながら沢村の上からどける。そのまま沢村の横に座り、腕を伸ばして抱き寄せると、沢村は大人しく倉持の腕の中に納まった。
なんとなく言葉を発するのもはばかられる気がして、無言で空を見上げる。それを見た沢村も、習って空を見上げた。
「星、綺麗っすね」
「おう」
遅くまで自主練をしていれば、星を見上げる機会は結構ある。でも。
「俺、東京は星空綺麗に見えないなってずっと思ってたんスけど。今日は、スゲー綺麗に見える気がする」
倉持が感じていることと、同じことを沢村が感じていることに気がつき、倉持は微笑んだ。
「お前、ずっと俺の隣に居ろよな」
「え?」
「お前が居りゃ、星も、夕日も、青空も、なんもかんも一番綺麗に見えるだろうからよ」
隣に沢村が居るだけで、全てが色鮮やかに輝いて見える。
肩に置いていた手を持ち上げて、沢村の頭を撫でると、沢村は満面の笑顔になった。
「あのアイスも一緒に食えば最高に美味いッスしね!!」
「お、おまえ……安上がりっつーか色気がねぇっつーか……」
思わず肩を落とした倉持に、沢村が不思議そうにきょとんとする。
その表情を見て、苦笑するしか倉持には出来なかった。
何というか、この二人は兄弟みたいな好きの延長線上にあるカプな気がします。
しかしもっちは振り回されすぎですね(笑)
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2007/07/29 脱稿