「雅さんあと30球!」
鳴がそう叫んだ瞬間、雅功がマスクを持ち上げた。
「雅さん?」
「今日は終わりだ」
「えっ!?」
鳴の同意を得る前に、雅功がさっさとレガースを外し始める。
「ちょっ!!まだ投げるよ!!」
「ダメだ。これ以上は肩を痛める」
「でも!」
「鳴」
雅功が怒鳴りつけるでもないのに、はっきりと強い意思がこもっていると分かる力強い声で鳴の名を呼んだ。
その声に、黙り込むと、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「肩を痛めてからじゃ遅いんだぞ。ただでさえ秋は出遅れたんだ、焦るな」
そっと鳴の肩に置かれた手は、力強く優しい。
急になんだか胸が苦しくなり、鳴は視線をそむけた。
そんな感情を悟られないように、わざとむくれて憎まれ口を叩く。
「ずるいの! 雅さんが練習したがったときはオレの限界まで付き合わせたくせに、俺が投げたいのには付き合ってくれないんだ!」
「バカ野郎、キャッチとピッチじゃちげぇだろうが」
苦笑交じりの雅功の言葉は、鳴だって十分分かってはいることだ。返事をせずにそっぽを向いていると、雅功が念を押す様に続ける。
「明日もまた、居残りに付き合うから、今日はもう終わりだ。いいな?」
「……へーい」
しぶしぶ、返事をすると、雅功が再びレガースを外し始めた。
その背中は、しゃがんで身を丸めていても、大きいと思う。
身体が大きいだけではない。心が大きいから、背中も大きく見えるのだ。
夏の暴投の後、鳴が落ち込んで篭っている間も、雅功は何も言わずに待っていてくれた。
すっかり出遅れて、秋の大会に出れず、……春の大会への出場権を間接的に鳴が潰したことについても、文句一つ言わない。
フォームを崩してしまった後も、こうして練習に遅くまで付き合ってくれる。
胸が締め付けられるように苦しくて、鳴は雅功の背中に額を押し当てた。
「……鳴? どうした、疲れたのか?」
「ん、ちょっと……」
いつも弱音なんて吐かないと決めて、生意気なことばかり口にしていても、何も思っていないわけじゃない。
「雅さん」
「ん?」
「ありがとう……」
何が、と言う事も出来なくて、鳴はただ小さくそう呟いた。
一瞬の間。
と、急に雅功が、まるで牽制球を投げるときのような素早さで振り返り、鳴の額の中央に衝撃が走った。
「へっ……」
1、2歩下がり、雅功の手が目の前にあるのをみて、デコピンを食らったのだとようやく理解する。
「なっ、何すんだよ急に!!」
「何すんだじゃねぇ。弱気になってんじゃねぇよ、馬鹿が。んなこと言ってる暇があったらもっと強くなれ」
正面から睨んでいるようにも見えるほど真っ直ぐに見据えられ、鳴はひりひりと痛む額を押さえた。
「別に俺にはどんだけ我侭言おうが練習に付き合わせようが、構いやしねぇ。その代わり、約束しろ。二度と何にも負けるな」
「雅さ……」
「試合だけじゃねぇからな。相手にも、打者にも、それからテメェ自身にもだ!」
力強い言葉に、背筋が伸びたような気がした。
「……うん!」
「絶対だからな。俺も、負けねぇから」
顔の前に出されたままだった手を、雅功が握りこぶしにする。その手に、鳴も握りこぶしを作って重ねた。
その約束は、実行するのはきっと奇跡にも等しいくらいの難易度かもしれない。だが、雅功とならばきっと達成できる。そう、不思議なほどに自信がわいた。
触れ合ったこぶしのぬくもりに鳴が笑顔を浮かべる。それを見た雅功もクスッと微笑んだ。
2010.07.28 脱稿