「雅さんってば! 待ってよ!」
「うるせぇ」
呼び止める声を無視して歩く雅功の腕を、鳴が後ろから掴んだ。
「ねぇ! あんなの冗談だよ?! 遊びでああいうことやるじゃん!」
「遊びでいつもやってるってことだなそれは!」
振り向きざまに雅功が鳴の手を振り払うと、鳴は目を丸くした。
「多少軽いところはあるけど、そこまでヒデェとは思ってなかった」
「ち、違うよ! 遊びってそういう意味じゃないってば!」
「フン」
雅功のシャツの胸の辺りに掴る鳴を無視して、雅功はそっぽを向く。
正直、何気なく見ていたグラウンドで、その光景が行われたときは、打球を頭に受けたときと同じくらいの衝撃を受けた。
「ねぇ雅さん、ごめんってば〜」
だが、これは何をどう誤魔化そうともやきもちだ。鳴も、それを分かって、わざと可愛い表情を作って雅功に縋っている。
「ね〜、こっち向いてよ〜」
「知らねぇ!」
だからこそ今鳴の顔を見たら負ける。雅功はそう思い不機嫌な表情で顔をそむけ続けた。
「雅さ〜ん。雅さ〜ん?」
「……」
「ねぇ、雅さんには他の奴の100倍ちゅーしてあげるから許してよ?」
瞬間、更に不快なものが腹の内にこみ上げる。
「それは他の奴にああいうことするのはやめないで、俺にする回数だけ増やすつもりだってことか!」
「え!? あっ、いやいや、そうじゃなくてっ! もうカルロスにも白河にもやべっちにも吉さんにも翼君にもしないからっ」
瞬間、雅功の中で何かがぶつりと切れた。
「痛っ〜〜!!!」
雅功は力いっぱい拳骨を鳴の脳天に落とし、そのまま涙目の鳴を残して無言でその場を立ち去った。
「うえぇ」
「……いつまでぐじぐじ泣いてるの」
放課後の練習に、鳴は泣きべそをかきながら現れた。まあ、サボらなかった点だけは評価できる。
どうやら午後はずっとその調子だったらしく、白河やカルロスが呆れ顔をしていた。
「雅さんも大人げないねえ、キスの一つや二つでマジ切れとは」
「そんな大人気ないとこ好きだからそれはいいんだけど〜〜 雅さん怒ってる〜〜」
そんな2年生たちの様子を見ながら、吉沢が雅功の背中をつついた。
「おい、あんなこと言われてるぞ雅」
「放っておけ!」
どうせカルロスや白河はどんな状態でも鳴の肩ばかり持つのは分かりきっている。2年生が集団でいるところに口を挟むだけ無駄だ。
大きくため息をついたところで、ふと先刻の鳴の言葉を思い出し、雅功は吉沢と平井を見る。
「……なぁ」
「んぁ?」
「その……お前らも、アイツに、されてるのかいつも」
何を、と言わずとも、先刻の喧嘩を見ているのだから伝わるだろう。どんな反応をするかとじっと二人を見定めると、平井が苦笑して肩を竦めた。
「ま、いつもじゃなくてされたことがある、かな。正しくは。どうしても欲しいって言うから、お菓子を半分分けてやったときに、頬に軽くね」
「吉沢は?」
「……前にテメェらが喧嘩して、ぐじぐじ鳴が俺のところにきて煩かったときに。とりなしてやるから黙れって言ったら俺も頬にされた。即殴った」
苦笑している平井と、仏頂面の吉沢に、雅功は深く深くため息をつく。
「本当に、誰にでもやってるんだな……」
「ちょっとこの場合ケースが違うと思うけどね? 鳴にとっては、俺たちとか2年たちとかは、同性の友達にふざけてやってることで、雅にやるのは恋人にやるって話でしょ? 片方が女だったら大した問題じゃないんじゃない?」
とりなすような平井の言葉に、雅功は思い切り顔を顰めた。
「片方が女でも同じだろう。恋人がいるのにそういうことをするのは、同性の友達だろうが駄目だ」
「堅物だね〜」
「雅らしいけどな」
まあ、それ以外にも雅功に見つからないようにそういうことをしていたというのが引っかかっているのもある。隠してやろうとしたら、浮気ではないか。
「めーいっ、もうほら、泣き止めよ?」
カルロスの一際大きな声が聞こえて、雅功は思わずそちらに気をとられた。
「ほら、代わりに俺がキスしてやるから?」
カルロスが鳴を抱き寄せたのが見えて、一瞬で怒りとか不満とかが頭の中から吹っ飛ばされる。
だが、次の瞬間。
大きな破裂音が辺りに響き、カルロスが頬を押さえて一歩後ずさった。
「オレは! オレから人のほっぺにはちゅーするけど! オレにしていいのは雅さんだけだっての!」
鳴の怒鳴り声で、鳴がカルロスの頬をひっぱたいたのだと、ようやく理解した。
「……鳴」
思わず驚いて名を呼ぶと、鳴はびくっと肩を竦め、恐る恐る雅功に視線を投げる。
と、突然鳴が全力疾走で逃げ出した。
「な!? オイコラ、何で逃げる!!」
呼び止めても鳴は振り返ろうともしない。雅功は軽く舌打ちをして、全力で後を追いかけた。
「鳴!! 待て!!」
いつもなら呼べば飛んでくる鳴が、僅かな反応さえせず、全力で逃げていく。
逃げる鳴を追って追って追って、途中で鳴が校舎の中まで逃げ込んで階段を登ったり降りたりしても諦めずに追って、ようやく鳴を捕まえることが出来たのは中庭だった。
「ったく、んで、逃げ」
荒れる息を整えながら話を聞こうとすると、鳴がいきなり耳を塞いだ。
「おい、鳴……」
「やだ、聞かない! 話なんか絶対きかねーもん!」
「聞けよ」
「やだ! だって、聞いたら、雅さん別れるって言う」
「言わねぇから、聞け!」
「や!!」
無理矢理耳から手を離させようとしても、鳴はイヤイヤと身を捩る。
雅功は一つため息をついた後、一計を案じて鳴の鼻をつまんだ。
「ふが!?」
驚いた様子で口を開いた鳴に、そのまま唇を重ねる。
何度か唇を触れ合わせると、鳴の手から力が抜け、雅功の手に掴った。
「聞け。別れるなんていうわけねぇだろ、好きじゃなきゃああいうことで怒ったりしねぇ。分かるだろ?」
「……うん」
頷きはしたが、鳴の瞳は不安げに揺れている。
「…俺以外には、させねぇのか」
「させないよ。当たり前じゃん、雅さんと他の奴が同じわけない」
「……まあ、今回はそれで許してやる」
「えっ」
正直なところは、逃げられて拒絶されたからうっかり追ってしまったのが大部分なのだが、もう怒りも薄れているし、仕方がない。
「ったく。代わりに100回するじゃなくて、もうしないって素直に謝ればいいんだっつーの、バカが」
「……うん、ごめんなさい」
鳴が思いっきり雅功の首に抱きついて、雅功もため息をつきながらその背に手を回す。
「……俺のこと好きか」
こんなことを質問したことは今まで一度もない。だが、鳴は戸惑いもせずはっきりと答えた。
「好き。大好き。愛してる」
「なら、いい。もう他の奴にあんなことすんじゃねーぞ」
「…………努力する」
「ちょっと待て!! 何でそこが努力目標なんだ!!」
二人が走り去ったグラウンドで、カルロスが冷やした濡れタオルを平井から受け取った。
「スンマセン。いってぇ……」
「ご苦労様」
白河の抑揚のないねぎらいに、カルロスが苦笑いを浮かべる。
「今回の喧嘩の原因作ったのは確かに俺だし? だから仲直りには俺が殴られでもするのが一番手っ取り早いかとは思ったけどさー。左手で全力びんたってひどくねぇ?」
そんな会話に平井は肩を竦め、二人が立ち去った方を見た。
「いい加減、周りまで巻き込むのやめて欲しいよねえ」
吉沢も腕組みをして、頷く。
「雅まで鳴に流されて同レベルになるのだけはちょっとな」
そして1軍のメンバーは顔を見合わせあった後、それぞれに小さくため息をついたのだった。
2010.08.23 脱稿