沢村が結城の将棋に付き合うようになってからというもの、結城が沢村の自主トレに付き合うことも頻繁になった。
部活後の自主トレは、沢村は大抵クリスと一緒に投球練習をしているため、その時刻は大抵朝練の前の自主トレ時になる。
元々結城も沢村も、他の人間より早く来て練習することが多いというのもあって、それはすぐに毎日の日課となった。
「沢村。そろそろ時間だ、一度部室に戻るぞ」
「あっ、はい!!」
一緒に練習するようになる前には然程気にしていなかったのだが、沢村はあまり自分のコンディションを気にするタイプではない。
自主トレで汗をかいた後、ろくに水分の補給も行わずに朝練に向かおうとしているのに気がついたときは愕然とした。
それ以来、結城は必ず一度沢村を部室に戻らせるようにしている。
クリスや倉持が『沢村からは目が離せない』というのもよく分かる、と思いながら、結城が視線を向けると、ドリンクを飲んでいる沢村と目があった。
ドリンクから口を離した沢村がにかっと笑う。
「やっぱキャプテンてカッコイイッスよねぇ!」
「何だ、急に」
「試合見てたり、練習見てたりしたらそう思ったっす」
そう言われるのは嬉しいことだが、それで何故沢村が嬉しそうなのかは分からない。
不思議に思って沢村の顔を見ると、沢村はへへっと笑った。
「なんか、ああ、キャプテンだなぁって」
「? どういう意味だ?」
「うーん、何ていうか・・・安心できるって言うんですか? 打つときも、守るときも、キャプテンならって思うって言うか。試合でキャプテンが打つの見てると、キャプテンなら点取ってくれるって思うんです。それが、ああ、キャプテンになる人ってこういう風な人なんだなって。強くてかっこよくて、キャプテンが俺達のキャプテンで良かったな、っていつも思います」
沢村は、眩しいくらいに目を輝かせて真っ直ぐに結城を見つめている。
キャプテンに指名されたその日から、部内の誰よりも強くあれと、己に課してきた結城にとって、頼りになる、と言われるのは一番嬉しい褒め言葉だ。
そして沢村は常に真っ正直で、おべっかを使うなどそんなことに思いも至らないようなタイプの人間であるだけに、尚更嬉しいと思う。
「……ありがとう」
笑って頭を撫でると、沢村はピシッと音がしそうなほど固まった。それから、おろおろと慌てだす。
「えっ、何でお礼なんか言うんすか?!」
「褒められたら礼を言うものだろう」
「ほ、褒めたとかそう言うんじゃないッス!! 思ったことそのまま言ってるだけッスから!!」
そう言われると、逆にこちらが照れくさくなった。
「礼くらい言わせてくれないか」
「だだだだってっ、お礼言われることなんかなにもっ」
みれば、沢村も耳まで真っ赤になって腕で顔を隠そうとしている。
その頬に触れてみたい、と思った。だが、触れていいのか分からない。
どう対応すればいいのか分からず、その赤い頬に指を伸ばすと、沢村はびくりと身を竦めた。
「沢村……?」
沢村の瞳が揺れている。沢村の方も、きっとどうしたらいいのか分かっていないのだ。
手を引くことも出来ず、触れることも出来ず、身動きが取れない。
戸惑ったままの表情の沢村が、ちらりと上目遣いで結城を見上げる。
「キャプ……」
「チース!!」
突如部室の扉がガラリと開けられ、結城ははっとして手を戻した。
「やっぱ哲さんも一緒でしたか」
「お早う、倉持」
「おいコラ沢村、ちゃんと水分取ってんだろーな!? 汗の始末もちゃんとしろよ!?」
「大丈夫ッス!」
まるで時間が止まっていたかのような部室の空気が急に動き出す。
倉持とじゃれている沢村を見やり、結城は首を捻った。

 
「何だ哲、今日は部室いかねぇのか?」
毎日必ず昼休みには部室に向かう結城が、今日は珍しく昼になっても席に座ったままだ。
不思議に思って伊佐敷が声を掛けると、結城は腕を組んだ。
「いや、少し考え事をしていただけだ」
「考え事? お前が何か悩むなんて、珍しいじゃねぇか」
「いや……」
結城は基本的に即断即決タイプで、物事をグダグダ悩むのを好まない。こんな歯切れの悪い返事も聞いたことがなく、本当に珍しいこともあるものだと思った。
「で、何悩んでんだよ」
「…お前、触れたいのに何故か触れられないという状況になったことはあるか?」
「は、ハァ?」
予想外の方向からの結城の問いに、驚いて問い返せば、結城の眉間には普段より深い皺が刻まれている。
これはよっぽど悩んでいるらしい。
「触れたい、と思ったんだ。なのに、何故かそこから手が伸ばせなかった」
「ちょ、ちょっと待てって、状況が全然わかんねーよ! ちゃんと一から説明しやがれ!」
「かっこいいとか頼りになるとか、褒められたんだ。それで礼を言ったら、真っ赤になってしまって、その頬に触れてみたいと思ったんだが……何故かどうにも手が伸ばせなくて、向こうも動かないし、どうしたらいいのか分からなくなってしまった」
結城の言葉にハハーンと思い当たる。どうやらソッチの方面には堅物なこの男にも、春が来た、ということらしい。
「哲、そりゃお前そのコに惚れてるってことじゃねーの?」
伊佐敷がニヤニヤしながら指摘すると、結城は少し目を見開いた。
「惚れる? アイツにか?」
「触りてーってのは、可愛いって思ったからそう思ったんだろ? で、触れなかったのは、触って嫌われたくなかったからだ。違うかよ?」
「そう……そうだな、そうかもしれない」
「そーかそーか、お前にもついに彼女が出来たか!!」
ワハハハと笑って肩をバンバンと叩くと結城が苦笑して立ち上がる。
「彼女じゃない」
「今は、だろ? いいこと教えてやる、触ろうとしてんのに向こうも動かないってんなら、そりゃあっちも触られたいっつーこった」
「そうなのか?」
不思議そうな顔をした結城の肩を掴み、伊佐敷は顔を近づけて小声で囁く。
「そういうもんなんだよ。そういうときはキスの一つでもしてやりゃいいんだよ」
「そうか……」
「それは少女マンガの話じゃないの、純?」
背後から声を掛けられて振り返ると、亮介が腰に手を当てて立っていた。
「何だよ、別におかしいこと言ってねぇだろ」
「どうだかね」
「じゃあ俺は行く」
特に気にする風でもない結城の背中を見送る。すると、結城が見えなくなった途端、突然亮介の蹴りが膝に入った。
「痛ぇ! 何しやがる!!」
「途中から聞いてたから気になってたんだけどさ、哲の好きな人って、誰?」
「んぁ? いや、それは俺も聞いてねぇけど」
「じゃ尚更。おかしいとか思わないわけ?」
「あぁ?」
亮介は腕を組んで純を見上げている。
「昨日まではあんなこと言ってなかったんだから、昨日から今日にかけて、ってことだろ? あれ。でも、遅くまで自主トレしてて、朝は誰より早く来て練習してて、いつそんな時間合った?」
「え? あ、それもそうだな……」
「相手がどんな人間かも分からないのに焚きつけるのって、ヤバイんじゃない? 変な相手だったらどうすんだよ。哲なんかこうと決めたら一直線に突き進むよ」
亮介の指摘はもっともだ。
「…聞きに行って見るか?」
「そうだね」
少し不安になり、伊佐敷は亮介とともに部室へと向かった。

 
「今日キャプテン遅いな〜」
いつもは、パンを食べている途中で結城がやってきて、おしゃべりしながら部室で食べるのが沢村の日課だった。
と、言っても大抵は一方的に沢村が喋っているようなものなのだが。
それはともかく、今日はもうパンを食べ終わってしまった。
部室の机に突っ伏して机の木目をなぞる。
「キャプテン……」
結城はあまり表情があるほうではない。だから、たまに笑ってくれるとすごく嬉しい気分になれる。
でも、朝のアレはびっくりした。
あんな風に、真っ直ぐに自分を見て、優しく笑ってくれるなんて。
びっくりしすぎて、心臓が飛び上がったかと思った。
なんだか急にやたらと恥ずかしくなってしまって、すごく変な態度を取ったような気がする。
「あ!! もしかして来ないのってそのせいか!?」
はっとして顔を上げ、沢村は頭を抱えた。
「うわーどうしよう!! 俺キャプテンに嫌われたのか!?」
嫌われたくない。だって、折角仲良くなれたのだ。折角あんな風に笑ってくれるようになったのだ。
「謝れば!! すぐに謝れば許してくれっかな!?」
結城のクラスは何組だっただろう、と思いながら勢いよく立ち上がると、部室のドアがガラリと音をたてて開いた。
「沢村、遅くなった」
「あ!!! キャプテン、すみませんでした!!」
結城の顔を見て、沢村は慌てて走りよる。そのままの勢いで謝ると、ドアを閉めた結城が不思議そうな顔をした。
「あの、俺朝に変な態度取っちゃってっ……」
結城を見上げると、結城も真っ直ぐな視線でじっと沢村を見おろしている。
「だから、あの……」
結城の表情はどうやら怒っているわけではなさそうだ。少しだけほっとして、それからふと疑問を感じる。
「キャプテン?」
どうして何も言わないのだろう。怒っていないのに謝られたら、結城の性格からすれば気にするなとかそういう言葉が出てきそうなものなのに、ただ無言で見つめられている。
「あの……うわ!?」
突然目の前が真っ白になった。抱きすくめられて結城の真っ白なワイシャツに顔を埋めているのだと気がついて、沢村は硬直する。
「キキキキャプテン!?」
「確かに。こうしたかったんだな」
「は、はい!?」
「いや。純の言うとおりだと思ったんだ」
結城の大きくて固い手が、後ろ頭を撫でているのを感じ、心臓がバクバク言い始めた。
困って結城のシャツを握ると、少しだけ身体が離れる。
結城が何をしたいのかがさっぱり分からなくて、困って顔を見上げると、その顔が近づいてきた。
「おい、哲!!ってぎゃーーーー!!」
唇がくっついた!?と思った瞬間、部室のドアが開く音がしてそれとほぼ同時に悲鳴が聞こえた。
「なっ、なっ、おまっ、お前ら何してっ!!」
「何だ、純。忘れ物か?」
至って普通に返答している結城と、真っ赤なのか真っ青なのか分からない紫の顔で吠えている伊佐敷が視界に入ってはいるが、頭の中は真っ白だ。
「違ぇ!! お前今何やってたんだよ!!」
「さっきお前が言ったことを実行しただけだろう」
「じ、実行って、アイデッ!!」
「ほらみろバカ純!! だから考えなしだっていうんだよ!!」
「痛ぇ、痛ぇ!! 殴るな亮介!!」
ぎゃあぎゃあ騒ぐ声にはっとして、少しだけ頭がはっきりする。目を瞬かせて周りを見回すと、伊佐敷と亮介がいた。
……まだ沢村自身は、しっかり結城の腕の中だったが。
「いやでもよ哲、そこらにいくらでも女の子いんだろ!? お前だったら簡単に可愛い彼女だって作れんのに、何だって沢村なんか」
「女の子にこんな感情を感じたことは一度もないな。だから彼女じゃない、とさっきも言っただろう」
結城の言い分に伊佐敷がは?と首をかしげ、その横で亮介が溜息をついている。
「純は『まだ付き合ってないから彼女じゃない』って意味に取ったけど、哲は『沢村は女じゃないから彼女じゃない』って言ったつもりだったわけだ」
「え、え!? 俺キャプテンの彼女なんですか!?」
驚いて結城を見上げれば、結城が真面目な顔で見つめ返してきた。
「彼女ではないだろう。お前は女じゃない」
「いや、そうじゃねぇだろ!! 大体キスしてただろお前ら! 今更確認してるのってどういうことだ!!」
「純、お前も突っ込みどころずれてる」
わーわー騒いでいる3年生たちをおろおろと見回すと、結城にぐっと肩をつかまれる。
「え?」
「沢村、俺と付き合ってくれ」
「ええええ!?」
「ちょっ、哲!! 何今告白してるのさ!?」
「いや、確かにきちんと告白していなかったと思ったんでな」
「順番違ぇだろ!!」
「今の問題は順番じゃないだろバカ純!!」
一体何を言われたのかとぎょっとしたが、どうも亮介と伊佐敷を見る限り、告白されているのは間違いないらしい。そして、結城本人は真面目な顔で沢村を見つめている。
「よっ、よろしくお願いします!!」
「……ってお前も何OKしてるんだよバカ沢村!!」
頭を下げるといきなり亮介にチョップを食らった。
「痛っ!! 何すんすか〜」
「何も考えずにいきなりOKするな!! 分かってるのか、男同士なんだぞ!?」
「いや、いきなりちゅーされたのはびっくりしたッスけど、キャプテンカッコイイし」
元々亮介は口が悪い人間だが、どうもそれ以上に怒っているような気がする。何で怒ってるんだろうと首を傾げると、亮介と伊佐敷が額を押さえて同時に壁に寄りかかった。
「何でこいつら日本語が通じねぇんだよ……」
「会話成り立たないし……なんかもうアホすぎてどうでもよくなってきた……」
溜息をついている二人が不思議で、結城を見上げると、結城は微笑んで沢村を見おろしていた。
「気にしなくていい。いつもこうなんだ。……ところでお前たちは何をしに来たんだ?」
「もういいよ!」
「俺ら、教室戻るわ……」
なんだか疲れた様子で去っていく二人を見送る。その背が見えなくなったとき、未だに自分が結城の腕の中にいることに気がついた。
ちょっと恥ずかしくなって、腕の中で少し身じろぎをする。
「あ、あの」
「沢村」
「は、はいっ!?」
驚いて結城を見上げると、結城は優しい笑顔で微笑んでいた。
「これからも、よろしくな」
「あ……」
そうだ。付き合うということは、この笑顔を独り占めできるのだ。
「はいっ!!」
そのことが嬉しくて、沢村も満面の笑顔で返事を返した。


やらかしちゃった乙男。
きっと純さんが余計なこと言わなければくっつきませんでした。

遅くなりましたが、アンケートにご協力くださった皆様、ありがとうございました!


2007/11/17
桃茶ぶぅの桃茶さんから挿絵をいただきました!ありがとうございます!

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2007/11/13 脱稿
2007/11/17 追記