どうしよう。この地図、道が分からない。
最寄り駅、と書いてある駅で降りては見たものの、目印となるはずの建物が全く見当たらない。
とりあえず受験の前に下見に来て置いて良かった、と春市は溜息を吐いた。
兄の亮介と同じ高校を受験することを本人に伝えると、「面倒は一切見ないからな」といわれた。
だから地図を頼りに、一人で青道の下見に来てみたのだが、いや、だからこそ「道が分からない」なんてあの兄を呼び出したら「受験やめたら?」と言われるのが関の山だ。
……兄貴に連絡するのは最後の手段にしよう。
そう決心して、まず誰か道を聞けそうな人は居ないだろうかと、春市はあたりを見回した。
丁度近くに、以前見た兄と同じ制服を着ている人間が居る。
「……あの、すいません」
「あ?」
声を掛けると、すぐにその人は振り返った。
「あの、青道高校に行きたいんですけど、道を教えてもらえませんか?」
少々体格が良いその人が、春市を上から下までじろじろと見る。何だか少し怖くて、春市は僅かに首をすくめた。
「小学生がうちのガッコに何の用や?」
「しょっ……中学生です!」
身体が小さい方だという自覚はあるけれど、流石に最近は小学生に間違われたことは無い。訂正すると、更にその人が口を開いた。
「小学生だろうが中1だろうが大して差ぁ無いやろ」
「中3です!!!」
重ね重ね失礼な人間だ。地図は分からないし、声を掛けた人は何だか嫌な感じだし、幸先が悪い気がしてきた。……受験、大丈夫だろうか。
少し落ち込みそうになった春市に、頭の上から声が掛けられる。
「中3ってことは受験か。なんやちっこいからてっきり小学生やと思ったわ」
悪気があるようには聞こえないけれど、どうにもデリカシーとかそう言うものが欠けている人らしい。
「それは、もういいですから」
「こっからやと20分くらい歩くことになるけど、かまわへんか?」
「え? あ、はい」
「んじゃついて来ぃや」
ふと、あれ、この人関西弁だな、と気がつく。
と言うことは当然地元ではないわけで、それで青道の制服を着ていると言うことは、もしかすると亮介と同じく野球留学をしている人なんだろうか。
歩き出したその人に、何だか近づきたくなくて2mほど離れて後ろからついていくと、急にその人が立ち止まって振り返った。
「何やお前、人に道聞くんやったらもっとちゃんとついて来い! 失礼な奴やな! そんなんじゃ、高校に入ってからも上手くやっていかれへんぞ!」
「す、すみません……」
キツイ口調で注意され、少し胃がきりりと痛む。この人、何だか怖い。
少しだけ近づくと、呆れたような溜息が聞こえた。
「わざわざ入試前に見に来るってことは、ここら辺の人間や無いんやろうけど。お前、地図とか持ってへんのか? 普通は持ってくるやろ?」
「あ、これ……」
持ってきた地図を差し出すと手からピッと取り上げられる。
「何やこれ、古い地図やな。これじゃ分からんわ」
「え?」
「この店は潰れたし、ここは建物も潰して空き地になっとるし、これ1年以上前の地図やろ? この辺、この1年でかなり変わったからな」
「あ……」
親が差し出した地図を、何の疑問も持たずに受け取って持ってきたけれど、きっとこの地図は亮介が入試のときに使ったものだったのだ。この一年で大きく変わったというのなら、二年前の地図では分からなくて当然だ。
「ま、ええわ。 お前、地元どこや?」
「神奈川……です」
「……つーことは野球留学か」
「そうです」
「ふーん……」
横目で見おろすように見られて、少し身を竦める。
「やめといた方がええんやないか?」
「え……?!」
初対面の相手にいきなり否定的なことを言われ、春市は目を丸くした。
「な、何でですか?!」
「うちの練習、キツイからな。どう見ても体力あるようには見えへんし。身体もちっこいしな」
身体が人より小さいのは、自分が一番よく分かっている。
でも。
「身体の大きさで野球をするわけじゃないでしょう?」
それを理由に野球が出来ない、なんて認めたら、それは尊敬する兄のことも否定することになる。
「ただ野球やるだけやったらいいやろうけど、うちはきついぞって言ってるんや。うちじゃなくとも、地元のそこそこ強豪のとこでも目指せばええやろ?」
「けど青道には身体が小さくてもレギュラーをとってる人が居るじゃないですか!!」
他でもない、亮介が。
「そらまあ、亮介さんは特別製っつーか……ああ、なんやお前、亮介さんに憧れてうちを受けたいんか」
「そ、そんな感じ、です」
と言うか、実の兄弟なのだけど。どうも、同じく身体が小さい亮介が居るから青道を目指した、と言うようなとられかたをしたらしい。
「けど、そもそも野球留学ってのは、親を離れて一人で頑張るっちゅーことや。周りは皆ライバルばっかなんやぞ? そんな中でやってけんのか? 亮介さんとこまでいくのは大変やぞ?」
「大変なのは望むところです。簡単にたどり着ける目標なんて、面白くもなんとも無いでしょう?」
はっきりと言い切って、その人をふと見上げると、その人は少し目を丸くして春市を見ていた。
どうかしたのだろうかと首を傾げると、その人が苦笑する。
「何や、気ぃ弱いかと思ったらそうでもないんやな。ほれ、そこが俺ら野球留学の生徒が住んどる青心寮や」
示された指の先に目を向ければ、『青心寮』と書かれたアパートのような建物がある。
「ここからフェンス沿いに右の方に行くと、学校の正門に着く。ここまで来れば大丈夫やろ?」
「あ……は、はい!」
「ほんじゃ」
その人は春市を残し、寮の中へと歩いていった。
「あの、ありがとうございました!」
背中に向かって礼を言うと、その人が肩越しに振り返って手を上げる。
「またな」

その日の夜、春市は亮介に電話をかけた。
『何の用?』
「今日ね、青道の下見に行ったよ」
『ふぅん。本気で受ける気なんだ』
「本気だよ! でね、……青道って関西弁の人、居る?」
『は? 何だよそれ、どこから話が飛んだわけ?』
「んー、ちょっとね。居る?」
『2,3人、心当たりはあるけど』
「うーん、やっぱり……。 関西弁って、なんか怖いよねぇ」
『何言ってんだよ』
電話の向こうで、亮介が苦笑した気配がした。
「だって、テレビ以外じゃ聞かない言葉だし、テレビで関西弁の人が出てくるときって、何だか怖いことが多くない?」
『まぁ、ガラが悪い傾向はあるけどね。基本的には、悪い奴らじゃないよ。それにうちには、標準語でももっとガラが悪いヒゲとか居るし』
……その後、電話の向こうで『亮介ガラが悪いヒゲって誰のことだオラァ!』とか、『一人しか居ないでしょ』と言う声と同時にドスっという衝撃音とか、『グホッ』って言ううめき声とかが聞こえたのは、ともかくとして。
亮介の言うとおり、関西弁だからと言って、悪い人間なわけではないのだろう。殆ど偏見みたいなものだ。
でも、正直「あの人」は苦手だな、と春市は思った。がさつだし、人を馬鹿にするし。
苦手でも、青道に入ればある程度は係わり合いになることは分かってはいる。
とは言え、青道の野球部は人数が多い。
だから、同じ部に在籍したところで、あまり係わり合いにならなくて済む可能性も十分あるわけだし、あまり気にしないで置こう、と春市は決心した。



……と、思っていたのに。
どうして運命というのはイタズラなのか。
春市が自分に割り当てられた寮の部屋の扉を開けると、そこには「あの人」が居た。
「何やお前、……やっぱり入ってきたんか。止めたのに」
予想外の事態に硬直する。だが、相手の方は特にそう意外だと言う表情はしなかった。
「ゾノ、知ってるのか?」
もう一人の先輩が不思議そうにその人を振り返る。
「前に、駅から学校までの道教えたったんスよ」
「何だ、偶然だなぁ」
本当に偶然だ。こんな偶然なら無くていいのに。春市は内心でため息をついた。
「ん? お前、俺のこと覚えてへんのか?」
「い、いえ! 覚えてます、あの時はありがとうございました」
慌てて頭を下げる。むしろ、相手の方こそ忘れていそうだと思っっていたのに、覚えられていたらしい。
「あん時は自己紹介もせんかったな。俺は前園や。ゾノ呼ばれとる。んで、こっちの人が桑田先輩」
「よろしく」
にっこりと桑田が片手を挙げる。
「こ、小湊春市です!! よろしくお願いします!!」
名を名乗ると、二人の動きがぴたりと止まった。まあ、理由は想像できる。
「……『小湊』?」
「あんま、良くある苗字じゃない、けど」
「あの、小湊亮介は俺の兄貴です」
途端に二人が騒ぎ出す。
「まじかー!」
「何やお前、それやったらそうと先に言えばええやろ!!」
「でもその、兄貴には『入ってきても一切面倒見ないから』って言われてますし、気にしないで下さい」
横に首を振ると、前園が腕を組んで胸を反らした。
「当たり前や。亮介さんの弟だからって特別扱いなんかせんからな!!」
その様子に、やっぱり何だかこの人怖いなあ、と春市は俯く。
別におかしなことを言っているわけではないのに、妙に威圧感を感じると言うか。
「ところで小湊お前」
「はい?」
呼ばれてはっとして顔を上げる。
「前に会ったときも思っとったんやが、お前、その前髪鬱陶しくないんか?」
「え? いや、俺顔を見られるのが苦手で」
「っつーか見てる方が鬱陶しいんや」
「え!?」
前園の手が顔に伸びてきて、春市は思わず思い切りのけぞってその手を避けた。
「……おい」
「す、すみません! でも俺、本当に顔見られるの嫌なんです!!」
「この野郎! 絶対顔見たる!!」
「ええええ!? うわっ!!」
春市を捕まえようと飛んできた腕を、しゃがんでかわす。そのままするりと横をすり抜けて、広めのスペースへと身を翻した。
「大人しくせい!!」
「嫌です!!」
室内であるため、スペースはかなり狭い。走って逃げられるほどの距離はないし、すんでのところでかわすしか選択肢が無い。
素早くはないからかわすことはできるけど。
「おいおいおい」
桑田は呆れて追いかけっこを見ているだけで、助けてくれる様子はなかった。
勢いよく伸びてきた手を、瞬間的に横に押して向きを変えてかわす。と、その腕に軽く一瞬触れただけで、パワーが格段に違うことははっきりと分かった。
掴まったら100%アウトだな。
そんなことを思いながら、ぎりぎりを見極めて、腕が風を切るのを感じるような距離でひらりするりとかわし続ける。
椅子に片足をかけて飛び上がり、2段ベッドの上に転がった。
「待てやこの!!」
前園が梯子を上って追ってくる。2段ベッドに上がりきった瞬間を確認してから、春市はベッドから飛び降りた。
どうしよう、どうすれば諦めてもらえるんだろうか。
ちょっと息が切れてきた、こんな調子じゃ長時間はもたない。
「お前ら、どたばたどたばたと……埃が立つ、勘弁してくれよ」
「す、スイマセン、でも、あ!!」
苦情を言われて桑田を振り返ったとたんに、腕をつかまれる。
「つーかーまーえーたーでー!」
「ひっ……や、あ……」
振り払おうとしても、がっちりと捕まえられていて振りほどけない。
無駄かもとは思いつつも、春市は掴まれていない方の手で必死に前髪を押さえ、身を竦めた。
もう嫌だ、何でこんなことに。
半分泣きそうになりながら、俯いた。
……しかし、中々前髪を避けようとする手が伸びてこない。
不思議に思って恐る恐る顔を上げると、前園が困った顔をして見おろしていた。
「……?」
首を傾げると、苦笑した桑田の突っ込みが入る。
「ゾノお前、その絵はやばいって。下手すりゃ強姦魔と襲われてる子みたいに見える」
「ご、強姦魔とか言わんで下さい!! 俺だって今ちょっとやばいと思っとったとこなんスから!!」
腕が離されて、春市はよろよろと床にしゃがみこんだ。
どうやら危機は脱した、のだろうか。
途端に目の前に手が差し出され、春市は床に座り込んだまま後ろへ飛び退る。
「立てる……ておい。もう無理矢理見ようとかせぇへんて」
苦笑した様子の前園がしゃがんだ。けれど、春市は首を横に振る。
「立て、ます。立てます、から……」
こっちに来ないで、と続けそうになった言葉を、唇を噛んで飲み込んだ。


 
これまで15年生きてきて、それなりに嫌な奴とかにあったこともあるけれど。
前園健太と言う人物は、入寮初日で『春市内苦手な人ランキング第一位』に堂々と輝いた。

苦手だといっても、同室である以上避けては通れないし、そんな我侭は通らないのも分かっている。
だからとりあえず、必要最低限はきちんとして、それ以上は無駄に関わらないで済むようにしようと心に決めた。
そうして時間が経てば、違和感無く過ごせる距離感も分かるようになるだろう。
……とりあえず今は、半径2m以内に入ってこられると逃げ出したくなるのだけど。


 
そろそろ入学して1ヶ月が過ぎようかという頃、前園に伝言を頼まれた。
同室の後輩なのだから、当然そういうことはこれからもよくあるだろうが、少し憂鬱になる。
出来ればあまり、話しかけたく無いのだけど。
とりあえず、伝えることだけ伝えてしまえば用はないだろう。
我慢して自分から半径2mの中に踏み込んで、春市は前園に声を掛けた。
「あの、先輩」
「ん? 何や?」
「小野先輩が、時間があったら部屋に来て欲しいって言ってました」
「小野? 何の用やろ。行ってくるわ」
すぐに立ち上がった前園の背を無言で見送り、その背が扉の向こうに消えると、桑田に急に声を掛けられた。
「小湊」
「はい?」
振り返っても桑田は返事をしない。
「桑田先輩?」
呼ぶと、桑田は少し苦笑したようだった。
「そろそろ部活にも慣れたか?」
「そう……ですね。でも、俺達1年はずっと体力トレーニングばっかりだから、慣れるも何も無いですけど」
苦笑して首を傾げると、桑田はハハハと笑う。
「ま、部活の内容だけじゃなくて、寮での暮らしとかな。やっぱり最初は色々と大変だろ?」
気にかけてくれているような台詞に、春市はふと目を見開いた。
そう言えば、寮の部屋に居る間は、話しかけられないようにといつもゲームばかりやっていた。そのせいで、桑田の方ともあまり話をしたことが無い。
いい機会かもしれないな、と、春市は手に持っていた携帯ゲーム機の画面を閉じた。
「……やっぱりか」
「え?」
「いや、何でもない。友達とかは出来たか?」
「それが、その、あまり」
「だろうなぁ。お前結構人見知りだろ」
笑った桑田が立ち上がり、春市に近寄ってきた。そして春市が座っていたベッドに、隣に並ぶように腰を下ろす。
確かに知らない人と話すのは得意ではないけれど、本当は1ヶ月も経って友達が作れないほど苦手なわけでもない。
ただ、入寮初日のことがあってから、あまり人に関わるのをやめようと思うようになった、と言うだけなのだ。
下手に関わる人間が増えることで、居心地の悪い空間が増えるのが嫌なだけ。
だから、出来る限り目立たないよう、ただ一人で静かにしている、それだけのことだった。
春市は少し苦笑する。
「人見知り、って程じゃないと思いますけど……」
「そうか? じゃあ、ゾノだけ駄目なんだな」
あっさりと指摘されて、春市は息を飲んだ。
「そ……んな、ことは……」
「あるだろ? お前ゾノのこと明らかに避けてるもんな」
「気のせいですよ」
ふいっと顔を背ければ、桑田が溜息をつく。
「……お前、今俺がいるこの距離まで、ゾノには近寄らせないだろ? それに、さっきの呼び方。お前、ゾノを呼ぶときだけ絶対名前をつけないで『先輩』って呼んでるの、自分で気づいてるか?」
「え……?」
「俺のことは『桑田先輩』って名前付けて呼ぶだろ? 他の人間もそうみたいなのに、ゾノだけは絶対名前呼ばないだろ。部屋の中にゾノと二人だけのときにそう呼ぶならまだ分かるけどな」
自分でも気づいていなかったことを指摘され、春市は黙りこくった。
「……そう、ゾノが言ってたぞ。『あいつは俺だけは名前をつけて呼ばへん』って」
「!!」
驚いて桑田を振り返れば、桑田は真剣な顔をしていた。それからふと、苦笑する。
「やっぱり、最初の日のアレがよっぽど嫌だったのか?」
「それは、その、あの」
「ゾノは冗談のつもりだったんだと思うけどな、アレ。ちゃんと向き合って話すれば、ゾノはいい奴だぞ?」
「はぁ……」
確かにあのことが決定的にしたと言うのはあるけれど、前園のことはその以前から苦手だと感じていた。
いい人かどうか以前に、相性が合わないんじゃないだろうかと思う。
「嫌い、な訳じゃなくて……」
「うん」
俯きながら呟くと、桑田は優しく相槌を打ってくれた。それに背を押されるように言葉を続ける。
「ただ、ちょっと怖いな、って……」
「だからやめとけ、って言ったんや」
割り込んだ声にはっとして顔を上げると、いつの間にか部屋の入り口に肘を預けるようにして前園が立っていた。
「野球留学してもうたら逃げ場なんか無い。くだらんことでうじうじするような根性ない奴は、やってけへんと思ったからあん時とめたんや」
「な……」
衝撃を受けて立ち上がる。前園は厳しい目で春市を見ていた。
「どんなキツイことがあっても必ず乗り越えて、それこそチャンスを待つんじゃなく自分からチャンスを掴みに行くくらいの根性が無きゃ、うちじゃレギュラーは取れへん。お前みたいな奴、チャンスをもらうことが出来ても、モノに出来へんで3年間埋もれて終わりや」
「そんなことありません!!」
それ以外のことならともかく、野球に関することだけは譲れない。通用しない、なんて言われて黙っていられるはずが無い。
唇を噛んで睨みつけると、前園が視線をそらした。
「明日、2,3年対1年で試合があるのは当然知っとるな? そこまで言うんやったら、そのチャンスモノにして見せろ!!」

 
試合の後、春市は一人で部屋のベッドに寝転がり、考え事をしていた。
とりあえずは、上出来だったと自分では思う。
試合ではそれなりにいいプレイが出来た。そしてその結果が、2軍への昇格。
それに、アレがきっかけになって、今まで全く出来なかった友達が、出来そうな気がする。
でも。
あの、『チャンスは自分から掴みに行け』という前園の言葉が無かったなら。
普段の自分だったなら、自分から交代で試合に出てるなんてしなかったんじゃないだろうか。
あんな目立つこと、恥ずかしくていつもなら絶対やらない。
思い出しただけで恥ずかしくなってきて、春市は手で顔を覆った。
「小湊!! おるか!!」
大声で呼びながら部屋に入ってきた前園に、春市はビクッとして飛び起きた。
「ああ、そのままでええ。ええから、聞け」
前園は、春市のベッドから2m以上離れたところで立ち止まった。
「よく、頑張ったな」
「え……」
「あれでええんや。ああやって、野球やるときだけでもがむしゃらになれるんなら、お前はやってける」
一体何を言われているのか分からず、春市は戸惑った。言葉を返すことが出来ず、ただ前園を見つめるしか出来ない。
少し距離があるけれど、どうやら前園が微笑んでいるらしいことは見て取れた。
首を傾げると、すっと前園の視線がそらされる。
「俺らの学年にな、お前みたいに小柄な奴がおったんや。練習中、いっつもキツそうにしとった」
前園が腕を組んで壁に寄りかかった。その横顔が、何故か少し悲しそうに見える。
「野球留学やったのに、ちまっこくて全然体力がついてこんくてな。でも地元ではちやほやされとったらしくて、ついて行けない自分が認められへんで、……途中で腐ってもうた」
相槌を打つこともせず、春市は無言で下を向いた。
前園が大きく溜息をつくのが聞こえる。
「野球留学やから、部活やめたら寮には居られんし、ガッコもスポーツ科には居られなくなるやろ? 結局ソイツ、ガッコ辞めてもうた。ま、残ってもいたたまれなかったやろうけどな」
ちらりと視線を向けても、前園は視線を床に落としたままだ。その表情は、よく見えない。
「勿論、ちっこくても亮介さんみたいに凄い人も居る。倉持かて身体が大きいほうやないし。けど、どうしたって身体の大きさはハンデになりがちなんや。それを乗り越えるには、そんくらい気合と根性が無いとアカン。それ考えたら、人間関係だなんだってうだうだ悩んでる場合やあらへんのや」
そこでふと前園は言葉を切り、顔を上げた。その視線が春市に向けられ、目が合う。
「ま、ホンマはさほど心配しとらんかったけどな。初めて会ったときもそうやったけど、お前野球のことになるとむきになるみたいやったし。あんときも、どうせ止めても絶対うちに来るんやろうな、って思っとった」
苦笑しているような様子だった前園が、笑みを消して真面目な表情になった。
「まあともかく、別に俺が嫌いなんやったら嫌いで構わへん。けどな、野球やってるときだけは割り切れ。お前は埋もれるつもりなんかあらへんのやろ? 野球に関することやったら、お前は出来ると俺は思っとる」
その真剣な目を見て、ああ、と思った。
この人は、ただ真っ直ぐなのだ。
ずけずけときつい事を言うのも、そうしなければ春市がいずれ苦労すると分かっているから、あえて言ってくる。
自分が嫌われるのも、覚悟の上で。
ずれていた歯車が一つ噛みあうと一気に全てが動き出すように、何もかもが急に理解できたような気がした。
初めて会った時に酷いことを言ったのは、苦労して諦めてしまった人を見てきたから。気が弱そうな自分では同じ道を歩むんじゃないかと、心配してくれたから。
でも、たったあれだけの会話で、野球に真剣なことはちゃんと分かってくれて、だから別れるときに「またな」と言ってくれた。
春市が前園を避けていることも気がついていて、それでも他の1年生と態度を変えることなく接してくれていた。
それから、わざと春市を煽って、チャンスを手に入れようと考えるように導いてくれた。
その上、「自分のことは嫌いでもいい」だなんて。気づいていたなら、傷ついていないはずがないのに。
……今、こんな離れた距離で立ち止まったのは、春市が2m以内に近寄られるのを嫌がっていたことも、気づかれているから……?
急に、切なくてたまらなくなった。
苦手とか嫌いとか、そんな黒い感情が、急激に尊敬と好意へと変化していく。
そしてその気持ちが、たまらなく胸を締め付けた。
『ちゃんと向き合って話をすればいい奴だ』と言っていた桑田が頭をよぎる。
そうだ。
春市だけが、ずっと勝手に壁を作り、向き合おうとしてこなかっただけなのだ。
「あ……の……っ!!」
ベッドから飛び起きて、春市は前園に駆け寄った。
すぐ目の前まで近寄ると、前園が慌てたように手を振って、一歩後ろに下がる。
その反応に少なからずショックを受けて息を飲むと、前園がはっとしたようにおろおろと腕を上下させた。
「いや、その、お前っ、今のちゃうからな!! 嫌いで避けたとかそういうんや無いで!! だからそんなショック受けたみたいな顔すんな! おまっ、おま、んな急に寄ってこられたら驚くやろ!?」
うろたえながらいい訳をする前園に、あ、と気がつく。
今までそんな風に避けてきたのは春市の方だ。きっとだから……急に近寄ったから戸惑ったのだ。
そして、春市がそんな風に避けるたびに、前園は今の春市のような気持ちになっていたのかもしれない。
「ごめんな、さい……」
「……あ?」
一体どれだけ傷つけただろうかと思うと、いたたまれない。
でも、流石に『今まで嫌っててすみませんでした』とは、言えない。
気づくかな。分かってほしい。
「ごめんなさい……」
呟くように繰り返して俯くと、頭の上でふっと笑う声が聞こえた。
「別に謝ることあらへんやろ。それよりまあ、聞きたいことがあるんや」
「は、はい」
「その……お前、何で俺のこと嫌っとったんや?」
「え?」
驚いて顔を見上げると、前園は少し困ったように頭をかいた。
「あー、その、過去形でええんだよ、な?」
「は、はい!」
勢いよく頷くと、前園は微笑む。
「だったらもう謝らんでええ。で、何でや。やっぱ、顔見られんのがそんなに嫌だったんか?」
「あー……そ、その、それはスイッチが入ったきっかけになっただけ、って言うか……」
多分、一番最初の原因は、もっと根本的で、単純なこと。
「か、関西弁が怖くて」
「何やそれ!? じゃあ俺そんなしょーもないことで避けられまくっとったんか!?」
「すすすいません!!」
大きな声に驚いて身を竦ませると、前園がはっとしたように口を押さえた。
「あ、いや、スマン。こういう時に大声出したりするから、怖がられるんやな」
「い、いえ! その、もう分かりましたから。だから、怖くないです」
「ほう、か?」
「はい!」
苦笑した前園に、春市も笑う。
「ま、そうやったらええわ。それよりむしろ、俺の方が謝っとかなあかんな」
「え?」
「初めて会ったとき、お前の実力も知らんくせに無理とか決め付けてすまんかったな」
「え……」
「今日の試合見て分かったわ。お前、大したもんや。せやのに、そんなこと知らんで偉そうなこと言った。すまん」
そんなこと、知ってるわけが無いのに。分かるわけが無いのに。
どうして謝ってしまうんだろう。
ああもう、この人は、本当に。
「あ、謝らないで下さい! だから、だからその」
どうしよう、大好きだ。
「これからも、よろしくお願いします! ……ゾノ先輩!」
途端に前園の目が見開かれた。
それから、頬に朱が走ったのもはっきりと分かった。
「な、何やお前、きゅ、急に!」
大きな手が伸びてきて、春市の頭に乗せられる。
わしわしとかき回すように撫でられて、その弾みで前髪が横に流れた。
……顔を見られるのは好きじゃないけど、この人になら見られてもいいや。
そう思って見上げる。と、急に前園が硬直した。
慌てたように手を放して、素早く春市の前髪を元に戻す。
「あ、あの、ゾノ先輩?」
「お、お前やっぱそうやって前髪下ろしておけ!!」
「え、その、へ、変ですか?」
「いいいいやその、そうやなくてだな!! いや、俺と二人ん時はいいけど、あ、いや、やっぱ駄目や」
「え? え?」
「ああ、もういい! そ、そうや、桑田先輩とかも呼んでお前の2軍昇格祝いしたるから、これでめいっぱいジュース買って来い!!」
いきなり千円札を一枚、突きつけられる。
「え? あの、あの、ゾノ先輩何か怒ってます?」
「ちゃう! ええから行け!!」
肩を掴まれて、そのまま部屋の外に無理矢理押し出された。
目の前で閉められた扉に、春市は困って首を傾げる。
一体どうしたんだろう。
やっぱり、これまで嫌ってた人間に好かれても、迷惑なんだろうか。
どう見ても、戸惑っていたみたいだったし。
「ゾノ先輩も、俺のこと好きになってくれたらいいのにな……」
こっそりそう呟いて、春市は自動販売機に足を向けた。

 
「……やっば、ヤバイわ!! アレは!! 反則やっつーの!!」
春市を追い出した後の部屋で一人、前園は頭を抱えた。
春市のことは、実は初めて会ったときからわりと気に入っていた。
小さくて大人しくて、なよっちい奴かと思ったら、野球に関する話題になった途端強い意志を見せた。そのギャップに、興味を引かれた。
前髪で顔を半分隠している割に、感情がはっきりと表情で分かる。だから、その前髪を避けたらどうなのかと思って、ちょっとちょっかいをかけたらおもいきり嫌われた。
本人は上手いことやってるつもりだったのだろうが、表情を隠している前髪と同じで、よく見ればそんなの簡単に分かる程度。
正直かなりへこんで、情け無いことながら桑田にグチを言ってしまったりもした。
でも、嫌われているのに何故だかこっちは嫌いになれなくて、そして春市が周囲に馴染もうとしないのは自分に原因があるらしいこともなんとなく感じ取ってしまって。
だったらせめて、部活に影響がでないようにくらいは、してやりたいと思ったのだ。
それだけだったから、あんなに急に誤解が解けるとは思っていなかった。
それはいい。誤解が解けたのはいい。嬉しいことだ。
それで初めて名前を呼ばれて。
嬉しくて頭を撫でたら、あんなにも嫌がっていたのに、あっさり顔を見せてくれた。
けど。
「そこで見せる初めての顔が、あんなまっさら素直な笑顔って、どう考えたって反則やろ〜〜〜〜!? あんまりにも衝撃的過ぎて変態行為するとこやったっちゅーの!!」
いくらなんでも、あそこでちゅーなんてぶちかましたら今度こそ本気で嫌われる。きっと二度と近づいてもらえなくなる。やっと誤解が解けたばかりだというのに。
別にそんな目で春市のことを見ていたわけじゃない。大体、気に入ってたのは野球に向かったときの意志の強さを感じる表情の方で、元々は普段の大人しい春市にはあまり興味を引かれていなかった。でも、あの笑顔だけは……あまりにもタイミング的にも良すぎたせいで、本気で心臓をぶち抜かれたような気がした。
「これからアイツに避けらんなくなって一緒の部屋って……、ホンマ大丈夫か俺……」
だからと言って今度はこっちが避けるわけにも行かない。
前園は頭を抱えたまま呻いてしゃがみこんだ。


思ったより長くなりました。
ようやく春っちのテリトリー内には入れてもらえたけど……何と言うか、がんばれゾノ(笑)

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2007/7/4 脱稿