何も言わずに、無言で前を歩く人の背を追いかける。
思えば、子供の頃からこういう風に歩くことが多かったな、とふと思い出し、そして春市は少し首をかしげた。
子供の頃は前を歩いているのは兄で、そして、小さな頃は兄とはよく手をつないだものだが。
今前を歩いているのは前園で、春市はそのぶらぶらしている手を掴みたいのに勇気が出なくて、迷っている。
春市は前園のことが好きだ。
人として先輩として、尊敬している。ずっとそう思っていたのだが、それはいつの間にか恋愛感情と呼べるものに変わってしまっていた。
そして前を向いたまま振り向かないで歩いている前園も、多分同じように春市を想っていてくれると思う。それは何となく感じている。
けれどお互いに気持ちを確認することはしなかった。
お互いに野球に忙しいのはあるが、それが全てではない。その気持ちを、どんな言葉で確認していいのか、分からないのだ。
そのもどかしさが、微妙な距離感を生んでいる。
寮の部屋に戻れば、二人きりだ。誰かが遊びにでも来ない限り、大抵は二人きりなのだ。
そして前園は、毎晩欠かさずに、コンビニ行かへんか、と春市を誘う。それに春市ははい、と頷いて、二人で夜の道を特に会話もなく歩き、毎晩欠かさずコンビニに向かうのだ。
静かな夜道を二人で歩くのは、何かの儀式のようでもあり。
けれど、毎日行われているその儀式でも、二人の距離を埋める言葉を導き出すことは出来ないでいる。
ふと、前を歩く背中から更に上に視線を上げると、大きな満月が見えた。
著名な作家が、「I Love You」を訳すときは「月が綺麗ですね」とでも訳せ、と言ったという話を聞いたことがある。
日本人はあなたを愛してますなどと言うはずがない、だからそういう時は遠まわしに「月が綺麗ですね」とでも訳せば、読者にはちゃんと伝わる、と。
春市も、そして前園も、そういう感情を言葉にするのは苦手なたちだから、それこそ「月が綺麗ですね」という言葉で、その気持ちが伝わればいいのに、と何となく思った。
ふいに、前を歩いていた前園も空を振り仰ぐ。
「月が、綺麗やな」
「はわっ!?」
その瞬間、文字通り飛び上がってしまった春市に、前園が驚いて振り返った。
「なんや、変な声出して」
「い、いえそのっ、びっくりして!」
「ああ、急に話し掛けたからやな。すまん」
「いえ……」
春市が首を横に振ると、前園は再び前を向いて歩き出す。
あまりにもタイミングがよすぎて、一瞬考え事を口に出して喋っていたのだろうかとまで思った。
単なる偶然で、きっと前園はそんなことは考えてはいなかったのだろうけれど。
けれど、その言葉は、春市の背中を押すだけの力は、十分にあった。
「あの、ゾノ先輩」
「なんや?」
「手、繋いでもいいですか?」
瞬間、もう一度振り返った前園が、目を大きく見開いて、それから見る見るうちに顔を真っ赤にする。
「な、な、なんややぶからぼうに!」
春市が何も答えずに笑ってその手をとると、一瞬びくっとしたその手が、すぐに力強く握り返してきた。
2010.08.25 脱稿