☆演奏者は空を見る☆
グラウス=アルヴァロンは、一人溜息をついていた。空には星々が散り、大きな三日月が昇り始めている。
暗闇に混じる灰茶色の髪は風になびき、同じように灰まじりの青い目は、水鏡のように宵の口の空を映し出した。
「どーするかな」
彼は小さく呟くなり、抱えていたヴァイオリンを再び構えなおしてみる。だが、今の時間と、彼の心を占める焦燥と苛立ちが、弓を持つ手を絡めとる。
一音出しては止め、出しては止めを繰り返したところで彼は溜息と共に腕を下ろした。
グラウスは、神に最上の音楽を捧げる為の集団、『新輝楽団』の西離宮部隊・フレオールに所属していた。本来ならば、神輝楽団に入団すること自体、演奏者には大変な名誉だ。それに加え、グラウスはさらに、春の到来を喜ぶ祭・『春季祭』でのソリストに選ばれた。
祭の最後に、神に向け己の得意とする曲を奉げる、大役だ。その重責はかなりのもので、得意としていた曲ですら弾く事が出来なくなる程。今も、直前まで弾いていた曲の最後の一音がずれてしまい、集中が途切れた所だった。
そのまましばらく、ぼんやりと空を眺めていたグラウスは、脇を掠めていく風がまだ寒さを残している事に気付き、ようやく帰る準備を始めた。
ヴァイオリンと弓をケースに納め、しっかりと留め金を掛けて持ち上げたところで、ふと下の様子が気になった。
いまグラウスがいるのは、第二階段街の一番端にあるテラスだ。もともとここは、ここから一メートルも離れていないレストランのオープンテラスも兼ねているため、昼間の晴れた日は、あたり一面に丸テーブルが置かれる。彼らフレオールのメンバーは、店側から客引きの為に、時折演奏を頼まれていたため、腕鳴らしや、人前で演奏する練習の為、それを引き受けていた。
今日も、その延長でここに居たのだが、もう十九時にはなっているだろう。こんな時間まで演奏をした事が無かったので、下に住む住人の反応が少し怖かったのだ。
だが、うっかり覗き込んだ先が、森との境目が見えない大地で、そちらに恐怖が移った。
だから、慌てて踵を返した彼は気付かなかった。
――森から聞こえる、か細い歌声に。
* * *
グラウスの家は、神殿から近い第四階段街にある。
ひとえに彼が、新輝楽団の一員だからというのもあるが、グラウスの家族が楽器の作り手であり、調律師も兼ねているというのが理由だ。もちろん、同楽団の仲間も、彼の家族に世話になっていた。
ただ一つ、納得のいかない事があるとすればそれは、両親が携わっている楽器がパイプオルガンと、フルートであること。
それ以外では特に不満も無く、今日も彼は朝から自室で練習用の楽器を手に、曲を奏でていた。
曲の中間地点で、ふと部屋の扉が開いた。
そこには、彼の父親が少し難しい顔をしながら腕を組み、唸り声を上げている。グラウスは、構えていたヴァイオリンを下ろし、肩を竦めてみせた。
「――何、父さん」
「お前、最近二階の街で演奏をしているそうだが、本当か?」
「腕ならししたいし、あそこなら人が沢山通るし。何か不都合でもあった?」
「いや、そういうわけではないんだが……下の階に注意をしろよ」
父の忠告に、彼は首をひねる。
「下って、橋の下?」
「ああ。私も他人づてなのだが――魔術師たちというのは、静寂を好む者が多いと聞く。彼らの不況をかい、面倒な事にならぬよう、留意しておけ」
若干眉唾ではあるものの、確かに興に乗れば時間を気にせず引き続けてしまうという癖が、彼にはある。
この前も、気がつけば宵の口になってしまっていたくらいだ。
「――まあ、気をつけるよ」
曖昧に返事をして、グラウスは練習用の楽器をケースに仕舞いこみ、逃げるように相棒の入ったケースを手に、部屋を後にした。
昨日と同じく晴天に恵まれたため、第二階段街のテラスは、人で溢れていた。
談笑したり、一人のんびりと読書をしたり、おいしそうに飲食する彼等の脇で、店側から許可を取り、グラウスは丁寧に調律をし、何曲か奏で始めた。
どうやら今日は、相棒のシェリムの機嫌が良いようで、のびのびと、まるで当人が歌っている様な音を奏でる。時折拍手やお捻りを貰いながら、彼は次々と、覚えている曲や好きな曲を弾いていった。
休憩を挟みながらも、連続で引き続けたグラウスは、最後に祭で披露する予定の曲を奏で始めた。
出だしは順調だったのだが、中間を過ぎた辺りから、先に進むにつれ音が割れ、何とか技巧を凝らして抗っても、悲鳴のような、呻きのような音しか出さない。
それでも何とか弾ききった彼は、ぱらぱらと始めたときよりも少ない拍手を受けながら、シェリムを抱え、近くの鉄柵に寄りかかりながらうな垂れた。
「くそっ……」
苛立ちから、力任せに鉄柵を殴る。
鈍い痺れを感じながら、彼は相棒を見つめた。
奏者にはそれぞれ相性の良い楽器があり、当人の好みのものではないこともままあった。
現にグラウスも、幼い頃は親の事もありフルートを好んで吹いていたが、神殿で調べてもらった所、不思議な事に相性の良い楽器はヴァイオリンだった。
当初こそ不満はあれど、今ではすっかり相棒のシェリムに、対人同様の愛をそそぐまでになった。
だからこそ余計に、今の状況が悔しくて、苦しくて仕方がなかった。
祭で弾くのは、彼が一番好きで、得意としてきた『コーネリウス』という曲だった。確かに激しい箇所はあれど、あそこまで酷い出来になる事は無かった。だから、毎日毎日練習を重ねているのに、まるでシェリムやグラウスの指が歌う事を拒むように悲鳴を上げる。
擦り切れ、指の関節に巻かれた貼り薬を眺めながら、しばらく彼はぼんやりと座り込んでいた。
日は沈んだばかりなのか、少し前にはオレンジ色をしていた空は青く、一番星が輝き始めている。
気付けば彼は顔を上げ、昨日のように空を眺めていた。
その時、どこからか微かに歌声が聞こえてきた。
一気にグラウスの意識が覚醒し、辺りを見回すが、すでにテラスに人は殆どおらず、テーブルを片付ける店員と、帰路に急ぐ人が足早に通り過ぎるだけだ。
だが歌声は、まだ聞こえている。遠ざかるどころか、近づいているようだ。
そこでようやく、それが何の曲を奏でているか気付いた――先ほどまで彼が弾いていた、『コーネリウス』だ。
耳をそばだてると、歌声はどうやら下の階から聞こえるようだった。それが何故かとても嬉しく思え、グラウスは思わず、下に向け声を掛けた。
「――っ、あの! 誰かいま、下にいますか?」
すると歌声は止んでしまい、どこか慌てたような足音と、勢い良く扉を閉める音だけが聞こえてきた。
それがちょうど、テラスの真下辺りからだったことで、彼は小さく笑った。
「橋の下の人か」
歌声から、大体同年代くらいだろうとあたりをつけると、彼は踵を返して自宅へと戻った。
気付けば、焦燥も苛立ちも、すっかり消え去っていた。
翌日。今日は生憎の雨の為、グラウスは教会にある大講堂で、独奏するもの以外の奉納曲を仲間たちと練習していた。これに関しては、特に大きな問題も無く今日の課題を終えた。そのまますぐに【橋の下】に向かおうとしたのだが、ある重大な事に気がついた。
彼は慌てて、近くに居た同じ楽団員の少女、ジャニスにそれとなく尋ねた。
「橋の下へ? 今からいくの?」
「ああ」
「……何しにいくの?」
彼女が、大きな杏色の目を見開きながらした問いかけに、グラウスは一瞬言葉を詰まらせた。すると彼女は一転して、どこか楽しそうに笑ってみせる。
「なに? 好きな人でも出来たの? んで、その人に会いに行くとか――」
それにはグラウスも思わず目を剥いた。
「ちがうって、ちょっと気になる事があって……!」
「何? 気になる事って」
「いや、普通に……何売ってんのかなーとか」
「うそだー。ラース、この前橋の下誘われてた時、興味ないって言ってたのにー」
訝しがるジャニスに対し、グラウスは一度はぐらかしてしまった手前、素直に言い出せないで居た。
第四階段街より上に住む住人は、二階や三階は自由に往復が可能だが、おいそれと【橋の下】へ降りる事が出来ないようになっている。
一応、月に三回、橋の下へ降りる事が許される日があるが、降下には決められた箇所にある移動方陣を利用する為、教会へ『降りる人の数と、それぞれの名前』を申請しなければならない。それも、門限が厳しく設けられているので、申請した中の一人が一分でも遅れようものなら、次回の降下が取りやめになってしまうほどだ。
ちなみに、彼は会話中に思い出したのだが、つい三日ほど前にその今月三回目の降下許可日があった。だが、その時点では【橋の下】に興味の無かったグラウスは、ジャニスの言うように仲間の誘いを断ってしまっていた。
――時間が戻せるならば、今すぐにでも橋の下に向かうのに。
後悔とも諦めともつかない溜息をつく彼に、ジャニスは呆れたといわんばかりに肩を落とした。
「もー。これじゃあ私が苛めてるみたいじゃん!」
「苛めている様なもんじゃないか」
「楽団一モテモテなのに、びっくりするほどヴァイオリンバカなラースがおっかしな事言うからいけないの!」
「――ジャニスだって、十分適当な性格してるじゃないか」
「絶対、あんたよりマシだもん!」
すっかりヘソを曲げてしまった彼女からはこれ以上聞く事はできず、渋々他の団員に聞く事にした。
とは言え、彼らも皆ジャニス同様、彼の突然の申し出に好奇心を隠さずに理由を聞いてきた。
不思議なもので、『橋の下から自分が弾いた曲と同じ曲を歌う声が聞こえてきたから、一目確かめにいきたい』と言うだけでいいのに、その一言がでてこない。
諦めようか――と思った矢先、フレオールでは一番の最年長であるパトンが、『他の団員には絶対に内緒だぞ』と前置きをした後に、こっそりとあることを耳打ちしてくれた。
その内容にグラウスは希望の光を見出し、彼へ何度も礼を伝えると真っ直ぐ家に戻り、【コーネリウス】の練習をしながら次の朝を待った。