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初めて訪れた【橋の下】に、グラウスは興奮した。
二階や三階、ましてや彼の暮らす四階では中々見ることの無い魔術師が、己のすぐ脇を闊歩しているのだ。それに、今いる所から数メートル進めば、地下帝国が姿を見せる。そこから漂うのは、どこか甘い、懐かしい香りで、それが余計に彼を上機嫌にさせていた。
物珍しさと好奇心から辺りを見回す彼を、魔術師達も同じように注視していた。
実の所、三階より上に暮らす人々は、橋の下へ降りる際に変装をしている事が多い。
大半は、あくまで醜聞を避けるためであったり、降下日以外に立ち寄る際のカモフラージュ目的だったりするためだ。もちろん、余計なトラブルを上の階へ持ち込まない為に、降下日でも自衛目的で行う者もいる。
なので、知らずとはいえ堂々と新輝楽団の紋章をつけた服とヴァイオリンケースを抱えた彼に、魔術師たちはどこか興味深げに眺めていた。
そんな視線をよそに、グラウスは早速、二階街の端にあったテラスの位置まで歩いてみる事にした。
ただ、歩いてみて分かったのだが、本当にあのテラスは、西離宮階段街の端の端だった。
正規の方陣の場所からも、今回移動に使った違法の移動方陣の場所からもかなり距離があった。もちろん、違法であるが故に、利用料が通常の倍以上する。すでにグラウスも、『時価』で一〇〇Gと言われた。正規方陣が無償である事を考えれば、かなりの額をぶんどられた事になる。
それでも何とか目的の場所にたどり着き、空を見上げると、すでに昼時を迎えていた。朝一番にここについた事を考えると、半日は経っている。
もちろん、ここに着くまでにいくつか寄り道をしたというのもあるが、それを除いたとしても、橋の下をほぼ一周はしていた。
急に疲労に襲われたグラウスは、がっかりと肩を落として近くに生えていた栗の木の下に腰を下ろした。
途中で買った、ピンク色のリンゴらしき果実を頬張りながら、顔を上げる。目の前に伸びる道の先には、竜が住むという【ポーリスの森】があり、そこを抜けると、国で一番の広さを持つクランダーク平野がある。肥沃な土地で、クラリッサ王国の農畜産業において重要な拠点となっているため、小さな村や街が点々とあったりする。もしかすると、その人物は森向こうに住んでいて、もう旅立ってしまっているかもしれない。
耳に自信はあったものの、グラウスは少し不安になる。
それでも、一昨日聞いた歌声の主はテラスの下にある何処かへ入ったはずなのだ。彼は芯だけになったリンゴを近くに埋め、『あと一周だけ』と呟きながら立ち上がり、再度橋の下の外周を巡った。
再び橋の下を一周し、栗の木の下に戻ってきた。
すっかり日は傾き、街を支えている巨大な柱は、赤く染まっていた。
「聞き間違い……? いや、そんなはず――」
混乱する頭で、辺りを見回してみても、道は森に続き、テラスの下には夕日で黒味がかった色をした緑の壁、あとは目の前の木。その他には――【東のケーキ】も、地下帝国への入り口も見えない。
途方に暮れる。まさにこの言葉のように、グラウスはしばらくその場に立ち尽くしていた。
徐々に辺りが暗くなり始めた頃、ふと彼は、目の前にある壁の隙間から、僅かに灯りが零れた事に気付く。
訝しがりながらそこへ近づくと、その壁の正体が、二階から垂れ下がった植物だとわかり、白色の明かりを灯すランプと木製の看板が、葉の隙間から見えた。
何度もテラスと位置を照らし合わせ、グラウスは思い切って緑の壁を押しのけた。
すると目の前に、先ほど見えた古めかしい木製の看板と、白い塗装のはげかかった扉が現れた。
辛うじて読めた『雑貨店』という文字から、ここは店だと分かる。だがそれよりも、『歌声の主がここに居る』そのことに不思議と胸が躍り、グラウスは緊張する手で扉に手を掛けた。
酷く軋んだ音を立てたそれに驚きつつも、中に入ると彼には縁のないような、見たことの無い物が、所狭しとあちこちの棚や飾り机の上などに並んでいた。
ただ、店内は薄暗い上、人の姿がどこにも見えず、最初は中に入ってもいいものか躊躇したが、一歩踏み出してしまえばあとは簡単だった。
色つき液体の入った、ラベルの無い小瓶。不思議な模様の反物やリボン。高そうな鉱物に混じり、その辺に転がっていそうな石がかごに山盛り――等。全ての物が、グラウスには新鮮に映った。
中でも彼の目を引いたのは、カウンター近くのテーブルに乗っていた、小さなカゴに入った板状の青い石だった。
その中の一枚を手に取ると、まるで目を覚ましたかのように淡い閃光が石全体に散る。その後は、定期的に光が中心から放射状にのび、それ自体が呼吸しているように見えた。
しばらくそれをぼんやりと眺めていると、何所からとも無く、食器が軽くぶつかり合うような音が聞こえた。
彼が顔を上げると、フードから覗く黒い双眸とかち合う。
「誰?」
訝しげな声を出す少年に対し、グラウスはすぐに彼があの歌声の持ち主だと気がついた。
「あ、いや、俺はその、怪しい者……じゃなくて、その――」
どこか慌てたように告げる彼に対し、少年は、手に持っていた茶器をカウンターに置き、椅子に座るなり頬杖をついた状態で小首を傾げた。
「何か買うの?」
「え、あ……は、はい! かいます、買います!」
「どれ?」
頭が混乱している状態で、グラウスは手に持ったままだった青い石を彼へと突き出した。
「こ、これを!」
「――これかぁ……。じゃあ四〇Gか、何か代わりになる――」
どこか呆れたように溜息をつく彼に、グラウスはより焦りを感じた。
――早く聞かなければ、早く聞かないと、聞かないと!
ただその思いに突き動かされ、グラウスの口から勢い良く言葉が飛び出してきた。
「あの、一昨日この近くで、歌を、歌っていませんでしたか!?」
「……は?」
眉を顰める少年に、彼はカウンターへ身を乗り出しながら言葉を続けた。
「実は俺、明後日の聖神祭であの曲、一人で弾く事になって」
「へえ。よかったじゃん。それで?」
「それで、まあ……上手く弾けなくて、一昨日も、遅くまで弾いてたら、歌声、聞こえて――」
言葉の途中、グラウスは一度身体を起こし、近くにあった椅子を引き寄せて腰を下ろした。
その時、一瞬だけ少年の表情が変化したのだが、思いのほか疲労していた彼は気付くことなく、カウンターへ額を乗せた。
「歌が――聞こえたからさ、ここまで来たんだけど、なんだよ……こんなん、わかんねーよ」
全身のダルさと共に、徐々に恨み言が増えていく。しばらくグラウスは、思いつくままぶつぶつと愚痴を連ねていたが、陶器のぶつかる音で我に返った。
すると、照れ――と言うよりはバツが悪そうな表情で、少年が彼を見ていた。
「聞かれてたんだ。あれ」
意味がわからず首を傾げると、彼はこう付け加えた。
「神輝楽団のソリストの人ってさ、この時期が近くなると、あのテラスで練習しに来るんだよ。んで、大抵はあんたが弾いていた曲を弾くか吹くかするから、嫌でも覚えただけだよ。ちなみに、あんたで十五人目」
「十五人も!?」
「んで、その中の七人は僕の店に来て、君と同じ質問をして、同じように適当に一つ、買ってった」
少年の言葉から、そこでようやく初めて、グラウスは己の手の中にあるそれを見た。
平たく薄い青い石。時折浮かんでは消える模様に、なぜかほっとする。
「そういえばこれ、一体なんだ? 普通の石にしては薄いし」
「ブルーイクスって言う、不死身な生き物の心臓をスライスしたやつの一枚」
「うわっ!」
思わず手を離すと、鈍い音を立てて石はカウンターの上に落ちる。途端、少年は顔を顰めて石を拾い上げた。
「あのね、いくらあんたがこれを買うって言っても、まだ御代貰ってない以上、うちの商品を乱暴に扱うの、止めて欲しいんだけど」
「――あ、悪い」
どこか慌てながら、グラウスは財布を探り出し、中身を確認してみた。だが、中にあるのは提示された金額には程遠い枚数しか入っていない。
「あの、後日お金を持ってくるっていうのは――」
「うち、ツケ払いはやってないから」
「そこを何とか!」
拝むように両手を顔の前で合わせる彼に、少年は面倒臭そうな顔をしながら、近くに置いてあったティーセットを引き寄せた。
「だから、四〇Gか、『その石に見合うだけの価値のもの』があれば交換もしてるって言ったはずだけど」
「聞いてない」
「聞いてないのはあんたが悪い。ともかく、ツケはしてないし、物々交換、もしくは提示金額持ってなければ、お引取り下さい」
少年はそれだけ言うと、おもむろにカップにお茶を注ぎ、一口飲み込んだ。どうやら、かなり渋いものだったのか、眉間に深い皺を寄せている。
グラウスは、そんな光景を眺めながら、石の購入を諦めようかと考えていた。
そもそも、必要があるかも分からないものを、無理に購入する事はない。後日ゆっくり考えてから、ここに買いに来てもいいわけだ。こんな、分かり難くて分かり易い店、忘れる事は出来そうも無い。
しばらく黙考した後、彼は青い石を元の場所に戻そうと手を伸ばした。すると、石から一瞬だけ閃光が走り、雷に打たれたような衝撃が、グラウスの指先から脳髄まで一気に駆け抜けた。
それは、ある光景を描き出す。
――切れるヴァイオリンの弦と、絶望に溢れた己の顔。
驚きから、思わずシェリムの入ったケースが落ちる。
その音で我に返った彼は、すぐにその場へ跪き、ケースと中身の状態を確認する。幸いにも、シェリム本体、弓共に特に目立った異常は見られない。ほっと息をついたのもつかの間、グラウスは立ち上がり様、表情を変えずにお茶を飲み続けるコルクへ問い掛けた。
「今のは、なんだ?」
「今の、って?」
「石から、雷みたいなのが放たれて、物凄く不吉なものを見せてったんだけど」
いい終えると同時に唾を飲み込みながら、彼はカップを脇に置いた店主の言葉を待つ。
僅かに色合いの違う黒の双眸を閃かせながら、少年は息を吐くように告げた。
「僕は何も見てないよ。それで? 結局買うの、買わないの。どっち? うちにも一応、閉店時間あるんだけど」
ぐっと言葉に詰まったグラウスは、ふと自分が始終離さずに持っていたものに気付き、僅かに悩んだ後、こう切り出した。