「物々交換も可能だって、言ってたよな」
「そうだよ」
訝しげな少年に、彼はすぐさまケースからシェリムを取り出し、調弦をしながら彼に尋ねた。
「あんたの望む曲を、この場で演奏する。これじゃあダメか?」
予想外の申し出に、コルクは思わず呆気にとられていた。
「――ずい分また、凄い交換条件だね」
「手持ちは本当に空っぽだし、かといって、コイツを売りに出すわけにもいかない。斥候案だと思うけど、どうだ?」
しばらく悩んだのち、肩を落として彼は一度店の奥に行ってしまった。これを、交渉決裂と受け取ったグラウスは、出したばかりだったが、溜息をつきながらヴァイオリンを仕舞おうとした。
すると、再び店の奥からコルクが舞い戻ってきた。その手には、淡い黄色の、丸型のティーポットを持っている。
「どうしたの? 弾くんじゃないの?」
「いや、居なくなったから、ダメだったのかと……」
「さっきのお茶は失敗だったから、新しいのを入れただけだよ。あんたが演奏始めたら、僕暇だし」
そう言うと、彼は椅子に腰を下ろし、先ほど入れたばかりのお茶をカップへ注いだ。
「じゃあ、早速聞かせてよ。そうだな、あんたの得意な曲でいいよ」
「――わかった」
得意な――と言われ、すぐに浮かんできたのは、絶賛不調中の【コーネリウス】だ。ためしに弾いてみようかと思ったが、ここで失敗して、『四〇Gの価値も無い』と思われる事が癪だったので、別の曲を弾いた。思いのほか店内一杯に音は広がり、シェリムも気分よさそうに歌いだす。
その高らかな音色は、伸びやかでいて、春の日差しを思い起こさせるものだった。
しばらくは聞き入っていたコルクだったが、気がつけばカップを手にしたまま寝こけていたようで、怪訝な顔をしたグラウスと目が合った。
どうやら演奏は終わっているのか、すでにヴァイオリンは顎から離れ、小脇に抱えるような姿で椅子に腰掛けていた。
「おい、感想とか何か無いのか? 悪いなら悪いって言ってもらわないと、こっちも困るんだけど」
「あー、うん。曲はすごくよかったんだけど、何か途中の記憶が無くて、寝てたみたい」
「寝てた!?」
声を荒げたグラウスだったが、次の少年の言葉に、思わず目を見開いた。
「だからその石は、そのまま持って行っていいよ」
つまりそれは、実質タダで持って行っていいということだ。申し出としてはありがたいが、何となく腑に落ちないものを感じる。
その理由を、彼は知っていた。
「詫びって事か?」
「まあね。でも、曲が良かったのは本当だよ。さすが、ソリストに選ばれるだけあるよね」
褒められているはずなのに、それを素直に受け取るのは、演奏者としてのプライドが許さなかった。
演奏に感動して、結果的にタダになった訳ではない。店主が、『演奏中に眠ってしまった事』に対して謝礼代わりに持って行けといっているのだ。
それが、グラウスにはどうしても許せなかった。
「また来る」
それだけ言うと、彼は素早くシェリムをケースに仕舞い、足早に店を後にした。
一方の少年――コルクは、奇妙な来客が嵐のように去っていったのを、ただ目を丸くしているだけだった。
しばらくして、彼は一つ溜息をつき、閉店の準備をしようとカウンターの上に視線を落とした。すると、先ほどの彼が購入すると言っていた石が残されたままなのを見つける。そのままカゴに戻そうかと思ったのだが、ある事を思いつき、そのまま近くの細工師の工房へ向かった。
時は経ち、春季祭も前日となった。
グラウスは、仲間との最終調整を行っていた。
奉納用の曲は、何とか上々の仕上がりになったものの、まだソロで弾く曲は安定しない。それでも、以前に比べて落ち着けるようになったのは、あの日、橋の下に行ったからだと、彼は信じていた。
労いと賛辞を告げる何人かの奏者が、グラウスの首にある、ペンダントに気付いた。
青い板状の石を囲むように、紅金色の金具が絡み合ったそれは、今彼が着ているソリスト用の豪奢な服によく似合っていた。
「ねえそれ、どこで買ったの?」
美しく、それでいて珍しい物に目がない女性陣に、何度せがまれても、彼は曖昧に笑うだけで受け流していた。
正直これについては、グラウスも予想外だった。
橋の下を訪れた翌日。
帰宅が余りにも遅かった――何だかんだで二十二時になっていた――ため、家族から散々説教され、その日一日は外出を一切禁止にされてしまった。
どこの深窓の令嬢か、と彼は呆れたものの、彼らの言わんとしている事は理解していた。
ソリストとして選ばれた以上、不意の事故や病気で体調を壊さないようにしなければならない所を、彼はわざわざ、自ら危険に飛び込むような真似をしたのだ。
グラウスは、衝動的に行動してしまった事は反省しているので、大人しく家族の言う事を聞き、己の部屋で黙々と連取していた。
その時、彼宛に一つの荷物が届いた。
対応に出たのは彼の家の使用人だったが、どこかニヤニヤとしながら、それをグラウスの下へと持ってきたのだ。
『グラウス様も、隅に置けませんね』
そう言って彼女が差し出してきたのは、一枚のメッセージカードと、ビロード張りのやや細長い形をした箱。どうやら、誰かからの贈り物と思い込んでいるようだったが、グラウスにはメッセージカードにあった名前に、全く心当たりが無かった。
だが、添えられていたカードにある言葉と、箱の中にあった物を見て、彼はそれが誰からのものであるか理解したのだ。
思わずグラウスは、その時のことを思い出し、小さく笑っていた。
その時、彼は背後から呼び止められ、思わず振り返った。声をかけてきたのは、三年前の祭でソリストを務めた、オラルタだった。
彼は一瞬、グラウスの首元に目を止めたあと、僅かに声を潜めて囁いた。
「なあグラウス、お前――あの店に行ったんだな」
一瞬呆けたグラウスだったが、『あの店』という単語にはっと気付いた。お前も――という事は、彼もたどり着いたのだろう。歌声に導かれるように、あの店に。
「そういえば、オラルタもコーネリウスだったっけ、弾いてたよな」
「ああ、あの曲が一番盛り上がるしな。でもまあ……知ってるだろ、あの時の――」
言葉を濁す彼に、グラウスは小さく頷く。
というのも、【コーネリウス】という曲は、元々は、一人の村人が宴席で演奏したものなのだが、幅広い年代に愛されている弦楽器中心の舞踏曲だ。
ただ、作曲者が酔っ払った勢いで弾いたもののため、変調や曲調が大きく変わる箇所が非常に多い、かなり癖の強い譜面になってしまったのだ。しかも、演奏中に弦や弓が切れてしまう事が多いため、人によっては何台も控えの楽器を用意して挑むくらいだ。
オラルタの時は、近くにいた同団員の楽器を借り、何とか弾ききった。その時のことを思い出したのか、彼は真剣な表情でグラウスに忠告した。
「気をつけろよ。取り乱したら、儀式失敗扱いにされるからな」
ごくりと唾を飲み込みながら、グラウスは汗が手の平に滲み出したのを感じていた。
ソリストは、己の得意な曲を神に捧げる事で、国の平穏と安泰を願う役だ。
ある年、緊張して弾き損じた奏者が出た事があった。
その翌日、矢継ぎ早に災害が起こり、隣国から不穏な話が届き、国内のあちこちで大小さまざまな暴動が起きたという。
この事から、人々は神の存在を信じ、機嫌を取り成すためにも祭で演奏を行う奏者は『技術に優れ、楽器とも息が合い、度胸がある者』が選ばれるようになった。
「度胸に自信ないんだけどなあ……」
「何言ってんだよ、祭りまで日も無いのに、橋の下に行って遊んでこれるくらいだ。十分度胸はあるだろう」
苦笑しながら背中を叩くオラルタに、グラウスは咽ながら空笑いで返す。その手は、久しぶりに不安と焦燥で汗を滲ませていた。
* * *
春季祭は、中央階段街の2階にある、巨大なテラスで行われる。
西にある物とは違い、この場所ひとつで、中程の規模の店舗なら、何百と建てる事が可能な程の広さがある。
そこに、大勢の人々と祭司、果ては普段最上階に居る国王までもが一挙に集う様は、まさに圧巻。
祭の本番を向かえ、人々の興奮は頂点に達していた。
グラウスは一通りの出番を終え、あとはソリストとしての仕事のみとなる。彼はケースから慎重に取り出したシェリムの調弦を行い、軽く弾いてみる。
やはり外が晴れている為か、彼女の機嫌はよさそうだ。安堵しながら、彼は他の物の演奏を聴きながら、自分の出番を待った。
危ない場面はありつつも、中央、東離宮側と、次々に曲を成功させていくと、丁度太陽は南天に昇る。
一番、神様が聞き耳を立てている時間だと、祭司が祭の最初に宣言していたため、否が応でもグラウスに視線が向く。
胃がおかしくなりそうな程の緊張の中、彼は何度も深呼吸をし、心を落ち着ける。その時、老齢の祭司が彼の下を訪れ、厳かに告げてきた。
「グラウス=アルヴァロン。準備が整い次第、我等が偉大な主へ、お前が最も得意とする物を納めよ」
「――はい」
緊張から硬い声で頷くと、彼は豪奢な椅子に座る王の脇を抜け、白色で木製のひな壇を登っていく。
足音がやけに大きく聞こえ、グラウスは心臓を躍らせながら一番上に上った。そこから見下ろせるのは、かなりの絶景なのだが、それを鑑賞している余裕は無い。
正直、祭が始まる前まで練習はしていたものの、結局最後まで通して上手くいった事は無かった。それでも、ソリストとして決まる前は難なく弾けた事を考えれば、欠片でも望みはある。
「行くぞ、シェリム」
彼は一つ息を吸い、ヴァイオリンを構えた。
そのまま、まるで水の流れのように滑らかに、【コーネリウス】の演奏は始まった。
曲が始まると同時に、人々は楽しげに歓声を上げ、王族や祭司達も若干頬を緩ませていた。後の話では、後方で聞いていた何人かの観客が、思わずそれに合わせて踊りだしていたと、彼は人づてに聞いた。
そんな賑やかで和やかな空気の中、後ろも振り返ることなく、グラウスは必死に曲を奏でていた。
いつ音が歪んでしまうか冷や冷やしながらの事だったため、周囲の歓声も人々の賞賛も、次第に遠く、意識の彼方へ追いやられていく。その時彼は、なぜか朝張り替えたばかりの弦が切れ掛かり、弓も毛羽立ってきた事に気付いた。
楽譜にして、あと半分以上も残っている上、一番盛り上がる箇所まで入っていない。それでも彼には、弾き続けるよりなかった。
焦りから冷や汗が噴出し、手の平までも湿らせた。その所為かいつもより右手が滑らかに動く。だが同時に、曲も速度を上げ始め、やや走りがちになってしまう。グラウスの演奏が不安定になってきた事を敏感に察知した観客は、これまでの歓声や賞賛を止め、息を潜めるようにして無事に奏で終えるよう祈った。
曲はようやく、山場の『黒が原』と呼ばれる箇所に着く。楽譜が真っ黒に塗りつぶされているように見えるほど、音符が密集している所だ。
――ここさえ越えれば、後はゆったりとした曲調にもどる。
やけに煩い心臓の音を無視し、彼は必死に曲に集中した。そして、何とか『黒が原』を超えると、何かが弾け飛んだ音がした。