「あ」

 それが、誰の声かは分からない。

自分の物か、観客か、はたまた王か。

山場を越えると同時に、弦が二本と、弓が擦り切れる。その余りにも大きな音に、思わずグラウスは放心してしまった。

――続きを……。

――続きを。

――続きを!

曲はまだ、四分の一残っている。

歯の根があわない。

震えが、冷や汗が止まらない。

目の前が暗く、気が遠くなっていく――グラウスは完全に、焦りと恐怖に心を支配されてしまった。

 腕は重く、動かない。

 続きを弾こうにも、頭が真っ白で何所からやり直せばいいのか分からない。

 観客は、呆れとも憐憫ともつかないような表情で、ひな壇の上で呆然としているグラウスの背を見詰めていた。

――失敗だ。

――今年の儀式は、失敗だ。

ざわめきと共に囁かれた言葉は、彼の心に残っていたものまでもを、粉々に砕いて行った。

 悔しさから溢れた涙が、偶然一粒、ペンダントに落ちた。すると、胸元の石が僅かに青白く輝き、一筋の光となって天へと吸い込まれていく。

 それから僅かに遅れて、耳元を掠めるように、ある言葉が通り過ぎていった。

 

『誇り高い演奏者へ』 

 

それは、ペンダントと共に添えられた言葉。

つられて振り返ろうとしたところで、急に周囲の喧騒が消え、目の前に巨大な稲妻が走る。が、思ったような衝撃は無く、そして今の天気を思い出し、グラウスは空を見上げた。

そのとき、丁度彼の真上に巨大な水柱のようなものがあり、その先端にあった片目と、目があった。

 思わず飛びのこうとして、ひな壇から足を踏み外した彼を、その目は脇から青白く透明な細い腕を伸ばし、受け止めた。

 奇妙ではあるが、敵意は無い事を確認し、グラウスは思い切ってそれに問いかけた。

「お前は、一体なんだ?」

 しばらく間があいた後、それは一つ瞬きながら答えた。

『ぶるー、いくす、と、よばれて、いる』

 低くも高くも無い声だったが、なぜかグラウスには、それが女性の声だと分かった。

「いったい、何の用で俺の前に現れた?」

 息を呑み、問いかけを続ける彼に、のぞきこむ目は静かに告げた。

『心臓を、返して』

「心、臓?」

『あなた、もつ、青い石。それ』

 何かの告げた内容に驚きながらも、彼は首に下がっていたペンダントを見る。石の表面は、相変わらず呼吸のような模様を明滅させていた。

不意にグラウスは、ある事を思い出す。

『ブルーイクスって言う、不死身な生き物の心臓をスライスしたやつの一枚』

 あの時受けた説明が本当ならば、これを返せと言う目の前の存在に逆らう必要は無い。そもそも、曲の奉納には半ば失敗したようなものだ。

自暴自棄なき持ちで、彼は己の首にかかるそれを乱暴に毟り取り、彼女へと差し出した。

「――ほら」

『ありが、とう。お、礼』

 そう言いながらブルーイクスは一つ瞬くと、青く透明な触手となり、シェリムへと触れる。思わず払い除けようとしたグラウスだったが、それが弦と弓に触れた途端、切れた箇所があっという間に修復され、目を疑った。思わず直った箇所に触れるが、青く光っている事を除けば、ちゃんと弦と弓の感触はあった。

グラウスが『彼女』を見ると、それは元の片目に戻っており、照れたような声でそれはこう告げた。

『あなたの、ひく曲、好き。もっと、ききたい』

 そう言うと巨大な目は、見る見るうちに天へと吸い込まれ、気付けばいつもの平らな青空へと戻っている。

若干、狐に摘まれた様な心地ではあったものの、彼は再びシェリムを構えた。

 戸惑いながらも、弦が切れる少し前の小節から弾きなおす。不思議な事に、彼が演奏を再開すると同時に周囲の音が蘇る。儀式の失敗を憂いていたはずの民衆は、先程まで絶望に打ちひしがれていたグラウスが、堂々と【コーネリウス】を仕切りなおしていることに驚きつつ、その演奏に聞き惚れていた。

結局、最後の小節を弾き終えると同時に、弦と弓は元のように再び切れてしまった。

大勢の人々の拍手と喝采を浴びながら、ブルーイクスが己の願いを叶えてくれた事に感謝し、グラウスは天に向け深々と頭を下げた。

 

 

 *  *  *

 

 

 春季祭が無事に終った翌日、グラウスは橋の下へと向かっていた。弦と弓を張り替えたシェリムのケースと、服装は祭のまま。違うのは、その手にもうひとつ、頑丈なカバンを持っているということ。

「なあ、アレなんだけどさ……!」

 扉を壊さんばかりの勢いで、唐突に中に入ってきた彼に、コルクは手に持っていた瓶を、脇にあったテーブルへと置く。

 その表情は、僅かに呆れている。

「フレオールは、まだ出番あるんじゃないの?」

「んなんもう終わってるよ。そんな事より――あの青い石、本物だぞ!」

「ああ、役に立ったでしょ」

 若干興奮気味に語るグラウスに対し、売り主の反応はあっさりしていた。

そのままコルクは、定位置のカウンターへと戻り、腰を下ろす。後は以前と同じように、ポットに入った茶を手ずからカップへ注ぐ。

 そんな彼に不満を覚えながらも、グラウスもそこへ近づいた。

「確かに役に、は――ってちがう! あの、青い人……人? 人か? いや、目? まあ何でもいい、あれ、アレは何なんだ?」

グラウスが百面相をしながらコルクに詰め寄ると、彼はお茶をすすりながら涼やかに告げた。

「平たく言うと、神様」

「あれが?」

「と、言われているってだけなんだけどね。一応」

「っていうか、あれはマジもんだ。凄いぞ――って、そんな所に無造作に置いていい物じゃない。すぐにあの高い棚に置くべきだ!」

 前と同じ場所にある残りの青い石を指し、グラウスは高らかに告げる。だが、次のコルクの言葉に、思わず閉口した。

「じゃあ、あんたからも追加料金を頂くべきかな」

「――っていうのは冗談にしても、アレのおかげで、助かったんだ。本当に」

 僅かに焦りを浮かべながらも、嬉しそうに顔を綻ばせるグラウスに、コルクは視線を青い石に向けた。

「まあ僕も、あの後で知ったんだけどね。ブルーイクスは、心臓を一部分だけでも返せば、一度だけ願いを叶えてくれる。だから、定期的に心臓が狙われてしまうんだってさ」

「じゃあ、それ売って生計立ててるお前は、極悪人か?」

「そうなるかな」

呆気なく言い放つ彼に肩を落としながら、グラウスは不思議そうに石へ視線を向け、呟いた。

「そういえば、どうやって俺の家――調べたんだ?」

「今年の春季祭のソリストの人の家は何所ですか? って聞いたら、快く教えてくれたよ」

楽しそうに笑いながら、コルクは空になったカップとポットをしまいに奥に向かう。

 そこでグラウスは、ヴァイオリンケース以外に持ってきたものを思い出し、カウンターの上に置く。

「ちょっと、頼みたい事があるんだけどな」

 彼は奥から顔を出すと、目を丸くしてその黒い皮のカバンを見つめる。

「何、これ」

「母さんがさ、持ってけって」

 コルクはカウンターに戻ってくるなり、それを開ける。中には、ベルベット張りの箱に入った、いくつかの原石と、この石に施す細工の依頼が示された紙が入っていた。

「何か、この前の石のやつ、母さんが気に入ってさ、同じものを作ってもらいたいって」

「――この石全部?」

「ああ」

 少し考えた後、コルクは一つ頷いて見せた。

「わかった。じゃあこれは、僕が責任もって職人さんに渡しておくから、一週間後に取りに来てよ」

「お代は?」

「そうだなー」

少し悩んだ後、コルクはふとある事を思いつき、小さく笑いながら顔を上げた。

「コーネリウス」

「え?」

「神様も気に入った、あんたの『コーネリウス』が聞きたい。どう? それとも、他にもし交換したいものがあれば、それでもいいけど」

 グラウスは目を見張ったが、すぐに満面の笑みを浮かべ、傍らのケースからシェリムを取り出し、構えた。

 

「今度は途中で、寝るなよ?」

 

 店に溢れた音は、どこか晴れ晴れとした青空のような音色だった。

 

 




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 一度本にしたのですが、事情により晒し。

 まあ言ってしまえば、元々入れる予定だった話を追加して本にし直す為です。
 メインとして出てくるキャラは、あと3〜4人居るんですが、彼が一番キャラとしては薄めです。

 楽器に名前(しかも女性名)を付けて溺愛するほどですが、普段はいたって普通の人です。