白色の日、八の刻。アルスバルト城にて。
リアリース地方では、月の初めの日を『白色(はくしき)の日』と呼んだ。
この日だけは、主に貴族達が信仰する宗教の『神聖な色の名がついた日』という事で、諸侯貴族達の公休日となっていた。要は、議会や夜会、その他貴族達が主立って参加する行事を開くことが出来ない日だ。
本来なら、国王であっても仕事をしなくてもよい日なので、執務室も無人のはずなのだが、今日は違った。
「なぁクロンド、この紙束は何だ?」
公休、ということで惰眠を貪っていたアルスバルトの王、シュルドは、朝一番に鳴り響く七つの刻の鐘で、宰相であるクロンドによって叩き起こされた。
寝起きで、何が何だか分からない状態のシュルドが執務室に着くと、すでに準備を終えていたクロンドによって机に向かわされ、目の前に山のような書類が積み上げられたのだ。
「貴方が隣の国に出かけている間に溜まったものです、陛下。今日中にこれだけは終わらせてください」
「たったひと月だぞ、それでこの量か!」
「ひと月空ければこれだけ溜まりますよ」
「折角の休みだぞ、クロンドがやってくれれば問題ないはずだ!」
「私が片付けてこの量です。後は、陛下が目を通して、サインして、判を押してくださるだけで終わるようにしてあります。期限の設けられていた物は、延ばしていただけるよう交渉済みですので、そちらから先に片付けお願いします」
駄々を捏ねるシュルドに、クロンドは表情を変えずに淡々と書類を渡していく。渋々シュルドは、不満げな表情で手渡された物を一枚一枚確認しながら判を押していった。
シュルドが、ようやく仕事を始めたのを横目で見ながら、クロンドはその脇で報告書に目を通し始めた。
しばらくは、紙をめくる音と判を押す音だけが部屋を満たしていた。だが、ふとクロンドの手が止まった。
「そういえば陛下、本日早朝にレベラリアからの使者より、盗賊団がわが国に逃亡したと報告が。つきましては、スエン元帥より、キャルバント地方へ兵士、騎士の追加派遣と、ついで魔術師の参加要請を言付かっておりますが、いかがいたしますか?」
「盗賊かぁ、最近多いな……ってうわっ!」
「何をしているのですか」
重ねて山になっていた書類が、シュルドの肘に当たり、床一面に散らばった。
呆れたようにため息を吐き、クロンドは足元にある紙を拾う為に腰をかがめた。
あらかた集まると、書類にまぎれて四つ折にされた紙が、クロンドの目に飛び込んできた。迷うことなくそれを広げ、書かれていた言葉を見た途端、彼は大きく肩を落とした。
「陛下」
「なんだクロンド。って、それは……!」
シュルドの、あからさまに変化した顔色が、紙切れの言葉を肯定している。
クロンドは、鋭い視線でシュルドを見据えると、机に思い切り紙切れを叩きつけた。
紙には、クセの酷い字で『次は私かクロンドをさらってくれ』と書かれていた。
ちなみに、宛名には近くにある魔術使用者協会の会長の名が書かれている。
「隠すなら、もっとうまく隠してください。それに、私を巻き込むのはやめてください。困るのは陛下ですよ。貴方、および私に対する誘拐は重罪にあたります。その上、陛下からその幇助にあたる発言をされるのは、下手をすると以前の脅迫状騒ぎですみませんよ。失脚、もしくは内乱が起こる可能性はありますね。まあ、陛下一人の首で済めばいいですが、きっと手を貸したと協会の人間がごっそり処刑される事態にもなりかねませんよ」
かなりの誇張表現を含みながらも、クロンドは冷ややかな視線は変わらず、シュルドを射抜いている。
そして、彼が話し終わる頃には、シュルドの特徴である長い耳がしな垂れていき、ついにはペタリと完全に寝てしまった。
「つまり、私のした事でロマに迷惑がかかる、ということか?」
「そうですね」
ようやく、事の重大さを理解したシュルドは、顔を青ざめさせながら泣きそうな表情でクロンドに縋った。
「い、今のは無効だ。今すぐ私とロマの名前を消して燃やしてくれ!」
「言われなくても、お二人の名前だけといわず燃やすつもりでしたけどね」
溜息混じりに肩を落としたクロンドは、紙切れを胸に仕舞った。
「それで、盗賊団の討伐の件ですが、いかがなさいますか?」
「この城には、必要最低限の人数残して、兵士達はキャルバント向かうように伝えて、ロマには人手を借りれるか手紙を書けばいいんじゃないのか? ちがうのか?」
さも当たり前のように告げた彼に、クロンドは内心ほくそ笑んだ。
まだ心配な面はあるが、判断力は着実に育っている。
年若い国王が気に入らないという家臣が、居ないわけではない。現に、前回の脅迫状の件で、不安や不信を抱く者が僅かだが城内にちらほら現れ始めていた。
中には、宰相であるクロンドに政を任せている事が、背信行為に当たるのでは、などと言う者までいる。
なので、こうしたシュルドの王としての成長は、周囲を黙らせる事に繋がる。
「では、そのようにスエン元帥には報告を、ロマ=ウェンデル協会長へは書状を出しておきます。陛下は引き続き、この書類を今日中に整理をお願いします」
「ちょ、これを一人でか!?」
「はい、よろしくお願いします。シュルド陛下」
シュルドの悲鳴は聞かなかった振りをして、クロンドは執務室を後にした。
* * *
同日、十の刻。魔術師使用者協会、トルアロン地方部署にて。
「さてユラ、今日ここに呼ばれた理由は、もう分かっているよね?」
「さすがに心は読めないので、全く持って分かりませんよ協会長。ひと月前に勝手に魔法防具を持ち出した件については、すでに話は終わっていますし、その前の、許可証無しでの術使用の件も、シュルド陛下の護衛でチャラになったはずです」
「相変わらず始末書は提出されていませんけどね」
呆れたように溜息をついたロマに、ユラはあからさまに面倒臭そうな表情をした。
「何もしなくても、こき使うじゃないですか」
「おや、何時私がアナタをこき使いました?」
「毎日じゃないですか」
「使える人材は使わないと。いざって時に使えなくなっちゃいますからね」
さらりと言ってのけるあたりが、彼の本気具合を表している。
「まあ、それは置いといて。本題に入りましょうか」
そういうと、ロマは珍しくげんなりした様な表情で、目の前に山積みになった青リンゴを見た。
きれいな青い色は、まるで宝石のようにも見えるが、単純にまだ熟れていないだけで、形も皆小ぶりだ。
それらは全て、大きめのカゴに入ってはいたが、一つでも動かせば全て床に転がり落ちていきそうな絶妙なバランスで積み上げられていた。
まだ初夏を迎えたばかりのアルスバルトでは、まだどのリンゴの木も花を付けたばかり。花蜂が蜜を集めて飛び交っている最中だ。
ではなぜ、山盛りの未成熟なリンゴがあるのかといえば、実は原因はユラにある。
今回ユラは、植物研究所にのみ生えている、ある植物の根っこを持ってくるよう依頼を受けていた。
それ自体は、簡単なお使い程度のものなのだが、肝心なのは生えている場所が、『移動する』植物研究所だという事だった。
一応、アルスバルト国内から離れる事は無いのだが、研究所の移動場所はほとんどランダムで、酷いときは空中に浮いていた、なんてこともあった。
幸い、その時の移動先は、王都であるトルアロンから程近い野原のど真ん中だった。
さっそく研究所の所長に掛け合い、根っこを分けてもらう事には成功した。
だがその帰り道、追いはぎに出くわした。
人数も少なかったことから、ユラは何とかやり過ごそうとしたのだが、うっかり近くに身を潜めていた巨大カメレオンの頭に蹴躓いてしまった、
怒ったカメレオンに、追いはぎと共に追われながら仕方なく撃退したところ、勢いあまって、近所で果実農家を営んでいるお宅のリンゴの木を一本、切り倒してしまったのだ。
とりあえず、ユラが色々はしょりながら事の顛末を伝えると、ロマは笑っているのか呆れているのかよく分からない表情を浮かべた。
「未成熟な物ばかりこれだけあっても、どうしようもないですよ。まだ実も固く、味だって無いのに」
「一応、新しい果樹を弁償してきました。そのおまけでこれを押し付けられたんです。何かの実験にでも使ってくれって」
ばつが悪そうに、視線を合わせない部下に、男は溜息をついて一番上に乗っていたリンゴを手に取った。
同時に、いくつかが床に転げ落ちる。
「断ればいいじゃないですか」
「果樹をダメにしてしまったのは私ですから」
「人がいいですね、ユラは」
困ったように笑うと、ロマはユラに向かって持っていたリンゴを投げる。
それを受け取ると、ユラはリンゴを齧り、眉をしかめた。全く味が無かったからだ。
「危ないじゃないですか、協会長」
「ちゃんと受け取れる距離だと思って投げましたよ。それより、味はどうです?」
「不味いです」
「でしょうね。よし、ユラ。ペナルティつけようか」
そう言って笑ったロマは、ユラの左手を取りその手首に革で出来た腕輪を取り付けた。
それは以前、レベラリアでユラが魔法を封じられたときに使われた物とほぼ同じ物だった。違うところがあるとすれば、手の甲の所に、赤い宝石が平たく花のように施された飾りがある事ぐらいだ。
「あの、これは一体?」
「元は騎士団の方から頼まれて作ってた物の試作品なんだ。普通の人が使えば、これをはめた方の手で術を使った攻撃を防げるんだけど、私達がつけた場合は、これがある方では術が使えないし、多分今のユラだと……これをつけて、レギュラー程度の力まで抑えられたはずだよ」
確かに、ユラがどんなに左手に力を込めても、全く反応しない。思わずロマの顔を見ると、彼はいつもどおりの笑顔でこう告げた。
「この状態でひと月、依頼を受けてもらうよ」
その言葉に、ユラの表情が引きつった。
「ちなみに、外したらもう一つ付けさせた状態で依頼受けてもらいますから、気をつけて下さいね」
つまり、魔法が全く使えなくなった状態で、魔法を使えることを前提に来る依頼をこなせと言っているのだ。
この人なら、間違いなくやる。
何度も似たような目に遭っできたユラは、心の中でそう確信し、とりあえずひと月の間は大人しくしていようと心に決めた。
「では早速、このリンゴの山を薬師さんの所に持っていってもらえますか? のど薬の材料くらいにはなるでしょうしね」
「わかりました」
ユラはロマから布袋を受け取ると、その中にリンゴをすべて移し変えると、すぐさま軽量化の術をかけた。
そしてそれを持って協会を出た所で、慌てた様子の少年とぶつかってしまった。
「ああすみません、急いでいたので。コイツが大変失礼しました」
「ごめん、なさい」
「こっちこそ」
ユラは、ぶつかって倒れてしまった方の男に手を貸し助け起こし、その横で嫌に耳に付く声を出して詫びる男に目を向けた。
「――あの、僕の顔に何か付いています?」
「いえ、知り合いに似ていたので。それじゃあ」
ユラに顔を凝視された青年は、困ったように笑いながら肩をすくめ、もう一人はその様子を心配そうに見つめている。
ユラはそのまま彼らに顔を向けることなく、足早に離れようとした。
だが、袖を引かれる感触に後ろを振り向くと、転んだ方の大人しそうな少年がユラのローブをつかんでいた。
「何?」
だが、彼はユラの問いかけにも答えず、ただうつむいて袖を強く握っているだけだった。
どうやってこの手を振り払うか考えていると、少年と目が合った。
厚い前髪から覗く目は、己と同じ闇夜の黒。そして頬に掛かる髪から僅かに見えた黒いアザに、ユラは一瞬息を呑んだ。
「それ、もしかして」
ユラの言葉に、男が口を開きかけると、隣の男がその肩を掴んだ。
「おい、ラギルス相手が迷惑しているだろ?」
そう言いつつも、男の目には少し焦りの色が見えた。
「あ、ごめんなさい」
少年も、無意識だったようで恥ずかしそうに手を引っ込めた。
「それじゃあ」
「あ、フェリオン。まって……」
そのまま二人は足早に立ち去った。
ユラもそれを気に留めることなく、薬師の所に向かった。
ただ、道すがらあの時見えた痣がどうしても気になって仕方が無かった。
「どこで見たんだったかなぁ」
戻ったら、資料室に篭ろうか。
そう考えながら、ユラは空を見上げた。
* * *
同日、十三の刻。魔法使用者協会、トルアロン地方部署二階資料室にて。
一人の少女が、手に二つの包みを持って資料室の扉を開けた。
目的の人物の居場所は知っているが、彼女は念のため隅々まで部屋を見回した。
そして最後に、本の要塞になっている大机に近づくと、そこに居た人物に声をかけた。
「あ、ユラさん。これ貰ったんですけど食べません?」
「もらう」
少女が包みを一つ差し出すと、本に視線が固定されている状態でユラの手が伸びる。
包みを開けるときは流石にそれを見てはいたが、中身がサンドウィッチだと分かると、視線を再び本に戻し租借を始めた。
ある意味すごい集中力だが、行儀は悪い。
とりあえず、ノルマが減った事を単純に喜び、少女はその場を離れようとした。
だが、後一歩で資料室を出る、という所で何か眩しい物目の前を横切り、体が動かなくなった。
嫌な予感に後ろを振り返ると、ユラが彼女の影を笑顔で掴んでいた。
「ねえ、レムラシード」
「何、ですか?」
「これ、誰が作った?」
レムラシードと呼ばれた少女の背中に、大量の冷や汗が流れた。しばらくはそのまま互いに無言だったが、ついにレムラシードから先に折れた。
「――技術班の、リコのお手製です」
「やっぱり、技術班か」
彼女から出た名前に、ユラは盛大に溜息をつき、肩を落とした。
技術班。それは、この協会の第四班の通称である。
偶々、班分けの際に武器職人の息子や、薬師の姪子など、魔法を使わなくてもある程度手に職が付いている人間がその班に集まった為、ロマがそれに見合った依頼を任せているうちに、いつの間にかそんな名前が付いていた。
確かに、彼らは武具に使う金属の見極めや、簡単な薬の調合は他の魔術師よりはるかに優れてはいた。
その代わり、技術班に在籍している全員、調理関係が全くダメなのだ。その筆頭が、先ほども名の上がった、リコ=ドールティアだった。
実はリコは、極度の味オンチなのだ。
なので彼女に何かを作らせた日には、その日一日、飢えるか腹を壊すかの選択を迫られるくらい、酷いモノが出来上がるのだ。
今まさにユラが食べたサンドウィッチも、よく分からない味が舌に残り、かなりの不快感があった。
「何だってまた、あの味オンチに作らせたかなぁ」
「じゃんけんで負けたそうです」
「責任者は?」
「とっくの昔に依頼受けて、とんずらしやがりました。そんなに酷いですか?」
恐る恐る尋ねてくるレムラシードに、ユラは複雑な表情で手に持った物体を見つめた。
「味が、レインボー?」
「は?」
「甘苦しょっぱすっぱい。何を挟めばこんな味になるのか、見当も付かない」
そう言ってユラが肩を落とした瞬間、左耳に聞き覚えのある声が届いた。
『ユラ? 今平気か?』
「何、ウェルス。ヘンな用件なら受けないよ」
『そんなんじゃないさ。レベラリア帝国を荒らしまわっていた盗賊団が、つい先日この国に逃亡してきたって話があったから、多分そろそろそっちにも話が行ってる頃かと思って』
「私は知らないよ。でも、もしそうだとしたら多分行くのは協会長だと思うよ」
ユラは、サンドウィッチの味を忘れる為に、再度本に視線を戻した。ついでに、レムラシードの影を掴んでいた手も離す。
だが、彼女は会話の内容が気になっているのか、ここを出ようにも出れずに居た。誰も来ないとはいえ、出入り口に居るのは流石に迷惑になると考えたのか、レムラシードは入り口付近の本棚の資料を一冊取り出し、読む振りをしながら聞き耳を立てる事にした。
一方のユラは、そんな事をまるで気にしない様子でウェルスとの会話を続けていた。
『協会長自ら戦うのか?』
「まあその間はさすがに、私たちも遠出の依頼を受けられなくなるけど、そういった早期解決の必要なものだったら、協会長が出て行って、一発ぶちかまして終わらせるっていうのがうちの伝統みたいな感じだし」
『よく分からん伝統だな』
「私もそう思うよ。でも今回は、向こうに視察する予定入ってた見たいんだし、丁度いいんじゃない?」
ユラが苦笑すると、ウェルスも釣られて笑っているような声が聞こえた。
『でも、トップがいない間に内部抗争起こしてやるぜ、なんて考える奴とか出てこないのか?』
「レベラリアのときみたく、たまーに思い出したかのように内部改革だ、とか言って騒ぎ出すバカは居たけどね」
『へえ』
どこか疲れたような声で呟いたユラに、ウェルスも気の抜けたような相槌をいれた。
「まあ、大体そういうこと言い出すのって、キャルバントの協会のヤツが多いんだよなー」
『そうなんだ』
「あそこ、大きな港があるし、貿易の街だから色々情報も入ってくるし、ヘンな刺激受ける奴がわんさかいるんだよ。しかもあそこ、学校もあるから学生からそういうのが広まって――何てパターンもある」
『ああ、だからあそこの見回り人員多いわけだ』
「そ。だからこそ、うちもあそこに関しては協会長が定期的に人員入れ替えとか、月一視察とかしてるんだ」
『皆、行きたがらないわけだ』
「無駄な仕事も増えるしね」
そう言うと、ユラは盛大に溜息をつきながら立ち上がった。
「でも、最近ドコもかしこもきな臭いから、多分ウェルス達の力、借りるときが来ると思う」
不意に、ユラとレムラシードの視線が正面からかち合った。
「そのときは、よろしく」
ユラはピアスを擦ると、彼女に向かって手を伸ばした。それが何を意図するのか分からず、レムラシードは首をかしげた。
「あの、何ですか?」
「それ、いらないなら今から持っていくよ」
そう言って食物兵器を指差したユラは、ものすごく悪い顔で笑っていた。
思わずレムラシードは、ピアスの先の相手に同情した。
* * *
第一朱色の日、六と半刻。魔法使用者協会、トルアロン地方部署にて。
アルスバルトの首都、トルアロンにある魔術使用者協会。
そこに身を置く者たちの朝は早い。
特に、週の初めの日となると、太陽が昇りきらないうちに彼らは協会に向かう。
目的は、物質転送陣の当番表を確認する為だ。一週間の忙しさを決めるそれは、魔術師にとって結構切実な問題でもあった。
理由は、協会長であるロマ=ウェンデルの人使いの荒さにある。
一度受けた依頼は、完遂するまで止められないうえに、完遂したところで、直ぐに次の依頼が渡される。そんな中で、一番忙しいとされるキャルバント地方の転送陣を任されたとなると、一週間は膨大な量の荷捌きと、依頼に追われるということを約束されたような物だ。
だが、当番表を見つめていた少女は、別の意味で溜息をついた。
「何度見ても同じだよね……」
何かの間違いだと思い、何度も何度も繰り返し当番表を見つめるが、自分と組む相手の名前は変わることは無かった。
転送陣の担当人数は、魔術師の階級によって違う。プートでは四人一組、レグスは三人、レギュラーになれば二人一組で一つの方陣を任される。上級者も例外なく二人組なのは、万が一の事故防止のためだ。
そして今日、彼女――ティシーは、キャルバント方面の物資用魔方陣の担当になった。
もちろん、忙しいキャルバントの担当になった事にも落胆は隠せないが、それ以前の問題があった。
ティシーは極度の人見知りで、彼女自身が慣れた人間出ないと、まともに言葉を交わす事が出来ない。そんな彼女の事情を考慮してか、普段は双子の弟であるティートと組む事がほとんどだった。偶に違う人と組む事もあったが、大体はティシーと仲の良い人とが基本だ。
なので、てっきり今回も弟か友人の誰かと組むものだと思っていた彼女は、今回の相手を見て心底驚いた。
「私、この人苦手なのに……」
「ティシー」
溜息と共に呟いたティシーは、不意に掛けられた声にびくりと肩を震わせながら振り向いた。
そこには、長身の青年が立っていた。
「今日から当番同じ。よろしく」
「こっち、こそ、よろしく……セルニア」
先ほどの呟きが聞こえてないか冷や冷やしながら、恐る恐る、といった感じでティシーが形式上の挨拶を告げる。
だが、セルニアと呼ばれた青年は一つ頷いただけで、特に気にしているというような様子は見られない。かといって、今彼が何を考えているのかというのも、いまいち良く分からない。
長身で、そこそこ顔は整っているものの、どんなことが起きても無表情で無愛想な所もあいまって、彼は協会の中でも変わり者扱いされていた。
そしてなにより、一五〇しかないティシーには、一八〇を超える彼の背は脅威以外の何者でもなかった。
階級はティシーの方が上なのに、毎回緊張してどうしても表情が強張ってしまう。
今も、セルニアにどんな表情をしたかまったく覚えていない。きっと、酷い顔をしていたに違いない。
そう考えてしまえば、ティシーは今週七日間が憂鬱で仕方が無かった。
「ティシー、行くよ」
「あ、うん……」
せめて、慣れよう。
彼の存在に慣れれば、何とかなる。かもしれない。
ティシーは心ひそかにそう決心し、転送陣のある、中庭に向かった。
* * *
同日、十の刻。魔法使用者協会、トルアロン地方部署二階資料室。
ユラは、いつものごとく資料室に篭る為に二階に向かった。
元々本が好きなので、依頼が無いときは基本ここに居る事が多い。
それにここは、他人が滅多に来ない。
たとえ来たとしても、この協会の魔術師が依頼遂行のために資料を漁るくらいだ。
なのでここは、ユラが何の気兼ねも無く、ゆっくり出来る場所のひとつだった。
だが、今日は違った。珍しく他人が居たのだ。
一つしかない机に何冊も本を積み上げ、熱心に本を読む様はまるで自分を見ているようで、ユラは物珍しげにその人物を見つめていた。
服装から、魔術師である事は見て取れたが、ぼさぼさな黒い髪と、本をめくる白く長い指が妙にアンバランスに思えた。
不意に、本を読んでいた人物が顔を上げる。彼の長い前髪の奥からでも、互いの視線がぶつかったのがわかった。
そこでユラは、本を読んでいるのが、昨日ぶつかってきた少年だという事に気付いた。
「あの……?」
「あ、ごめん。私以外でここに来る人いないから、珍しくて」
ほんの少し、怯えたような声をあげた少年に、ユラは苦笑交じりに謝罪した。
そのまま本棚に視線向けたユラを、今度は少年の視線が追う。
それに気付いた彼女が、今度は少年に尋ねた。
「何か用? それとも、私邪魔だった?」
「い、いえ。僕の方こそ、その……邪魔じゃない、ですか……?」
あからさまに戸惑う少年の姿に、ユラは目を丸くし、噴き出した。
「邪魔だったらとっくに追い出してるよ。いいからそのまま、読んでなよ」
「は、はい」
気の抜けたような返事の後、少年の視線は本に戻った。ユラからは見えなかったが、その表情は嬉しそうにほころんでいた。
一方ユラは、ほんの少し困ったような表情で本棚の前をうろうろしていた。
実は、少年が読んでいた本はユラが昨日まで読んでいた物の続きだった。
今から彼に交渉して本を譲ってもらうか、それとも別の本を読もうか考えた後、数冊の本を掴み、一つしかない大机に戻った。
ほぼ毎日ここに来ている自分が、今焦って続きを見る事は無いだろう。そう判断してユラは別の本を読む事に決めた。
本の壁越しに少年がユラに視線を寄越したが、彼女が本を読み始めると、安心したのか彼も本に視線を戻した。
互いに無言ながらも、協会の閉館まで、穏やかな時間が二人の間を過ぎていった。