※ 序 ※
それは、細い月の夜の事。
一人の少女が、音を立てないよう慎重に、暗い森を進んでいた。
急いでいた為、手元に灯りは無い。
よって手探りで進まねばならず、倒木や背丈の低い木に何度も躓いた。その度、彼女の白く柔らかい肌に、大地は容赦なく茶や緑の染みと、細かな傷を作っていく。でも、少女は構わずに裸足のまま歩いた。
辺りはしんと静まり返り、時折、遠くの方で蛙の鳴き声や、少女の踏みしめる下生えや、落ち葉を踏みしめる音くらいだ。
何所まで歩いたのかも分からないほど進んだ所で、ようやく開けた場所に出た。
その先に見えたのは、宝石をばら撒いたような星空と大きな三日月、そして絨毯のように広がる月見草と待宵草だった。
少女は思わず息を呑み、呆然とその場に立ち尽くす。
まさに、彼女が見たかった風景そのものだった。
言葉無く見惚れていると、彼女の身体を包むように風が吹き抜けた。
我に返った少女は、夢から覚めたように首を振ると、そのまま森へと一度戻り、別の道を探した。
不思議な事に、彼女の立ち尽くしていた場所には、半透明の小さな花が咲いていた。
※ 月鐘蓮花 ※
一昨日、アルスバルト国内で皆既日食が観測された。
太陽の前を、月が横切っていくだけの自然現象なのだが、この国に住まう魔術師達にとっては、ほんの少し厄介なものでもあった。
というのも、これにより――
『魔法使用者協会にある全ての物質転送陣が誤作動を起こす』
『加護の森と呼ばれる場所の結界が薄くなる』
『常闇の使者を名乗る集団に街を占拠される』
と、様々な騒動が舞い込んできたのだ。
一応、何ヶ月か前には『日食が起きるかも』と、天文や占星術に詳しい集団が警告してはいた。それでも、ここまで面倒ごとが重なると思っていなかったのが本音だ。
今日はその後始末に、魔術師総出で当たっている為、どこもてんてこ舞いだった。
――一人を除いては。
別の依頼で、長く協会を空けていたユラ=シグドは、ひと月ぶりに王都の土を踏んだ。
キチンとしていれば、眼鏡の奥にある少し吊り上がった黒い目と、中性的な容姿から、少し生意気だが真面目な少年に見える。だが、白いローブは若干煤汚れ、どこかくたびれた様な足取りと、短く刈られた黒髪を乱暴に掻く仕草は野良猫を思わせた。
ユラは生成りの短いマントをはためかせ、白い壁の建物――魔法使用者協会を眺める。
若干重い足取りでユラが中に入ると同時に、あれよと言う間に仲間に取り囲まれ、引きずられるように執務室へと押し込まれた。そして彼女を、協会長であるロマ=ウェンデルの元に引っ立てると共に、彼らは持ち場に戻る為、あっという間に解散していった。
「いやー、帰ってきて早々悪いね」
にこやかに笑うロマに対し、ユラは散って行った仲間の背中を眺めながら、溜息をついた。
「――……何ですか、私まだ悪いことした覚えないんですけど」
「まだ、ってことはこれからするつもりですか?」
「言葉のあやですよ。どうせ面倒臭い依頼が入ったんですよね」
心底面倒臭そうなユラの口調に、ロマは苦笑しながら資料を手渡した。
それを受け取ると、ある文字が目に飛び込んできた。
「日食の時に咲く花?」
「ええ。花の名前は、月鐘蓮花。月下美人に似た花なのですが、これが久しぶりに花をつけたんですよ」
「久しぶり、ですか」
「ええ。以前咲いたのは、今から大体百年前らしいですよ」
思いもよらぬ数字に、ユラは目を剥く。
条件を満たさねば咲かない花や、花実を付けるのに年月が掛かる植物がある事は、彼女もよく知っている。
とはいえ、知識量に自信のあるユラでも、何百年単位でのものは聞いた事がなかった。
「何だって、そんな化石みたいな花が……」
「一昨日、皆既日食があったんですよ。この国でばっちり観測できたが数百年ぶりらしいので、多分その影響じゃないですかね」
ロマの楽しそうな口ぶりを、彼女はただ胡乱気に見つめるだけだった。
「それで、その珍妙な花がどうかしたんですか?」
これには彼も苦笑で答えた。
「珍妙――とは言い様ですね。でも、確かに妙な花だとは思いますよ。なにせ歩き回るのですからね」
「は?」
「歩き回るんです。花ですが」
ユラは、狐に摘まれた様な表情でロマを見つめるが、彼は笑顔のままだった。からかいなのか、とも思うが、だとしたら正直性質が悪すぎる。
唖然としたまま動かない彼女へ、ロマは表情を崩さずにこう言った。
「詳しい話は、研究所で聞いてきてね。そのほうが、ユラも信用できるでしょう?」
その通りではあるが、素直に頷くのも癪だったので、ユラは憮然とした表情のまま協会を後にした。
協会を後にしたユラは、早速街の人たちに植物研究所の場所を聞き込み始めた。
というのも、アルスバルトにある植物研究所は『移動する』ことで有名なのだ。
一応、国内から出る事は無いのだが、研究所の移動場所はほとんどランダムで、アルスバルト城の真上や、山の頂上、海上に浮かぶのは序の口。酷いときは空中に浮いていた、なんてこともあった。
なので、研究所に用のある場合は、事前に場所を調べておかなければならない。
付いたあだ名が、【可動式・緑の要塞】。
性質の悪い事に、研究員たちはそのあだ名を大層気に入っている。
ちなみに、私設団体扱いの研究所には、交代で王国騎士団の見回りが入る事になっているのだが、『見回りに行きたくない研究所』の第一位となっている。
ようやく、研究所の場所を知っている住人を見つけ、場所を教えてもらうと、ユラは礼を言ってその場を後にした。
どうやら、王都を出てすぐの平原に着ているらしい。
場所が変わらぬうちに、と彼女は若干早足で街道を歩いていると、背後から肩を叩かれた。
振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
青味の強い緑の瞳と、亜麻色の長い髪に、淡い黄色のカーネーションを差した彼女は、困ったように瞳を揺らしながら尋ねてきた。
「あの……突然すみません。この国の植物研究所は、どちらにあるのでしょうか?」
* * *
【今後のあらすじ(?)】
*逃げた『花』の行方
*まるで予定調和
*茶番劇、再演
*板につく悪役っぷり
*月と花に酔う
……多分続かないよ!