アルスバルト王国の首都、トルアロンには、さまざまな年齢層と階級の魔術師を抱える、国内随一の大きさの魔法使用者協会がある。
そのなかでも、ハイマスターと呼ばれる最高位の称号を持つ者を二名も有するこの協会は、さまざまな所から多くの依頼を受けている。
特に、協会長であるロマ=ウェンデルは、アルスバルトの現国王・シュルド=ジルドラ=アルスバルツと幼馴染であるため、王室がらみの厄介ごとをよく引き受けたりする。
だが、この国は魔術師に関しての管理がかなり厳しい。
例えば、「ほんの少しでも魔法をあつかえる人間は全て王国に登録され、国直属の協会に所属しなければならない」」や、「研究施設、私設団体を作る場合、必ず王国騎士団を月に一度巡回、または滞在させなければならない」等、細かい規則が山のように存在する。
「それで、ユラ=シグド。アナタこれで何回目ですか?」
「数えていません」
「三十と七回目です。ちなみに、提出されていない始末書は二十五枚ですよ」
硬い木製の机を爪で叩きながら、目の前の上司は笑っていた。反対に、ユラと呼ばれた人物は無表情のまま、少し大きな黒い目で上司であるロマを見据える。
二人のやり取りを、遠巻きで見守っている魔術師達のほうが、ロマの目の奥で煮えたぎっている感情に気付いて、震えていた。
「お言葉ですが協会長、非常事態だったんです。というより、聞いてません。一体あれは何だったんですか」
「さて、何のことですか?」
にこやかに小首をかしげロマの髪が、サラサラと肩を流れる。先ほどとは空気を変え、さも楽しそうに言ってのける目の前の存在に、ユラはため息をついた。
「あれは、この国の魔術師じゃなかったんです。しかも、魔法を使って攻撃されたのなら、反撃したところで文句を言われる所以はないと思いますけど」
「残念だけどねユラ、私が怒っているのはそこじゃない。何度言えば貴方は、許可証を携帯して魔法を使ってくれるのですか?」
ユラの言い訳に、ロマは冷え切った声で笑った。
王城・市街地など一般人の立ち入る場所での魔法は、原則として使用できないことになっている。例外として使えるようにするには、決められた書類を提出することによって得られる許可証。これを携帯しないと、たとえ自分の身に危機が迫っても魔法を使うことが出来ない。
ちなみに、魔法を使わない人間に魔法を利用した攻撃をすることは、何があっても禁止されている。こちらは、許可証の有無は関係ない。
よって、階級が高いほど出来る行動が制限されてくる。
「非常事態だとしても、許可証なしで術を使うのと、有って使うのとではまた勝手が変わる。それに、魔法が禁じられている場所で使ったのだったら尚のこと、一人でも一般人を巻き込んだら不利なのはこちらだ。だから、私達のような高位魔術師は特に、二重三重の注意が必要なのは、わかっているはずだよね?」
そう言いながらロマが突き出したのは、『高位魔術使用許可書』。その隣には、薄い金属の板で出来た『使用許可証』が置いてあった。そこには、薄っすらと階級が掘り込まれている。
ユラは、何度か書類とロマの顔を見比べていたが、彼の目がまったく笑っていない事を知ると、非常に面倒臭そうに目の前の書類にサインをした。
「今回は、許可を取らせていただきました。何が、いくつ壊れていても、文句言わせませんから」
ユラは許可証を引っ掴み、ずり落ちそうになったメガネを押し上げて踵を返そうとした。
「あ、そうだユラ」
ユラは、一瞬振り返るのをためらった。それを知ってか知らずか、ロマは楽しそうな口調で告げた。
「許可証が有効なのは、それに書かれている階級の装束を身にまとっている時のみですから―」
お気をつけて、という唇の形を確認して、今度こそユラは執務室を後にした。そのまま外に向かう気にもなれず、ユラは協会の二階にある資料室に向かった。
その途中、薄暗い回廊を進むと誰かがこちらに向かってくるのが見えた。最初は、協会の庭園にある転送陣に用のある街の人かと思ったユラは、まったく気にすることなくその横を通り過ぎようとしたが、見覚えのある制服に、思わず眉間にシワを寄せた。
それは、軍服を着たこの国の騎士団の人間だった。たとえその人数が一人で、甲冑を着込んでいるわけではないにしろ、物々しい雰囲気がそれだけで伝わってくる。
ユラは内心ため息をついた。何せ最近、王室がらみで厄介ごとに巻き込まれたばかりなのだ。そのうち、火の粉が自分にも降りかかってくるであろう事を予想すると、気も、足取りも重くなる。
そんなことを思っているうちに、騎士はユラに気付くことなく執務室の前に立ち、背を向けた。コレ幸いと、ユラは何も見なかった振りをしてその場を急いで通り過ぎた。
* * *
ユラが出て行った後の執務室は、他の魔術師たちの囁き声と好奇心で光る目で溢れていた。
協会に持ち込まれる仕事は、ほとんどが単独か少数で行うものが多い。よほど軽いものや、引継ぎが必要な物でない限り、内容が明かされることはない。
だが、不思議なことに階級の高い人間の失敗談は、五分もあれば国中の協会に広まってしまう。それでなくても、協会内での仕事は班単位で行っているので、同じ班の人にはものの数分でばれる時もある。
だから、レギュラー以上の人間は自分の受けた仕事を他に漏らすことはない。そして、高位魔術師になるにつれ、単独での仕事を請けたがるのだ。
だから皆、ユラが何故ロマから叱責を受けていたのか分からない。よって、その視線は自ずと彼に集まった。
ロマは、そ知らぬ顔をして許可書と、もう一枚隠してあった書類を眺め、その影で唇だけ吊り上げて笑った。
そんな中、高らかにノックの音が部屋に響いた。偶々近くに居た少女が、何の気なしにその扉を開くと、執務室にいる全員が驚きで目を見開いた。
「突然すみません、ロマ協会長はいらっしゃいますか?」
整った容姿にサラサラと流れるよな栗色の髪と、深い緑色の瞳。それだけならどこにでもいるような組み合わせだが、左眉から頬の辺りにまで伸びる傷跡。それをもつ者は、今のところこの国に一人しかいない。
―ウェルス=ギムレット。
王国騎士団に所属し、若くして軍団長にまでのし上がった実績あり。並の兵士では敵わない程の剣技の腕前と、その顔を知らない人間は、このアルスバルトにはいないといわれている。
「あぁ、ウェルス君か。ちょっとまって、場所移動するから」
ロマの声に、我に返った魔術師達は慌てて自分達の仕事に戻った。最初に扉を開いた少女も、客人の前で固まってしまった恥ずかしさに顔を赤らめながら、「応接室はこちらです」と、消え入りそうな声でウェルスを案内した。そのまま彼女の後を追うと、応接間と書かれた金属の板が下げられた部屋に着いた。少女は深々と頭を下げた後、勢いよく走り去ってしまった。呆然と、その後ろ姿を眺めているウェルスに、ロマは気にする様子もなく中に入るように薦めた。
「ほら、入りなよ」
「あ、はい。では失礼します」
簡素な造りの腰掛に座ると、ウェルスは早速、預かってきた手紙を懐から取り出そうとした。
「ロマ=ウェンデル協会長、クロンド・マーディル宰相様より封書と言付けが――」
「あぁ、内容は大体想像ついているよ。それじゃあ、クロンドに伝えておいて。二度とこんなアホな事に巻き込むなって。あ、特に言葉は包まなくていいから」
言い終える前に被さったロマの言葉に、ウェルスは思わず目が点になった。その戸惑いを含んだ表情と行き場を失った彼の手を見て、ロマは笑いをかみ殺しながら口を開いた。
「君も大変だよね、あんな上司たちに仕えて。次にあれが変なこと要求してきたら丸無視で大丈夫だよ、いじけたってどうせ三日しか持たないし」
「あ、の」
「そういえば、騎士団側に怪我人は出ましたか?」
「いえ、特には」
「それは話が早い。そちらには、魔術師が魔法を使って弾き返した小石がほんの少し頬をかすったくらいでバカみたいに騒ぐような方がいるのでね。一応こっちも気をつけるけど、かすり傷くらいで喚くのはみっとも無いって、近衛のトップにつたえてくださいな。それと……」
「ロマ=ウェンデル協会長!」
「なんですか?」
矢継ぎ早のロマの言葉を遮る様に、ウェルスは思い切り叫んだ。だが、彼は怯むことなく笑顔を崩さない。ウェルスは、脱力しつつも佇まいを直すと、先ほど出しそびれた封書を差し出した。
「クロンド様より、言付けです。今後、陛下を甘やかさないようにとの事です」
「楽しそうなことには、参加しないと損じゃない」
ロマは差し出された封書を受け取ると、中の書面を眺めながらチラリとウェルスに視線を向けた。
「何か大変な事になっているけど、こちらから派遣する魔術師、本当に一人でいいのかい?」
「事が事なので、あまり大人数になるのは好ましくないと」
「まぁ、手の空いている高位魔術師が居れば、の話ですけど……」
ウェルスは歯切れ悪く、曖昧な言葉を紡ぐ。城を出るとき、クロンドからもう一つ言付け受けていたからだ。それを素直に言い出しても良いものか悩んでいると、ロマが困ったように笑いながら、一通の書類を差し出してきた。そこに書かれている内容と、記された名前に、ウェルスは今度こそ本当に盛大なため息をこぼした。
国の要人が、身を守るために協会に対し魔術師を雇いたいというと、協会長から『斡旋状』が送られる。そこには、相手が必要とする魔術師の人数と、協会から向かわせることの出来る人員、そしてその魔術師の名前と位が書かれている。
その下には、本人了承の証として、署名の欄がある。もちろん、署名は本人が同意したものでないと基本は無効だ。今、ロマが差し出したのは、ある人物の名前が入った斡旋状だった。
「あの切れ者のクロンドが、「手の空いている高位魔術師」なんて遠回りな言い方しないはずだよ。要するに、ハイマスターを寄越せって言ってるんでしょ?」
「なにもかも、お見通しって訳ですか」
「とは言っても。私もここの長として、容易に動くことは出来ないのですよ。副長が腰痛めちゃって、お孫さんと一緒に自宅療養中なもので」
「じゃあ……」
少し焦ったようなウェルスの声に、ロマは肩をすくめながら、書類に書かれた文字を指でなぞりながら薄く微笑んだ。そして、優雅なしぐさで立ち上がり、応接室の扉を開けた。
「その代わり、私の代理として斡旋させていただくハイマスターは、二階の資料室に居ますよ」
その部屋は、古いインクと、ホコリとカビの匂いがした。
「すごいな」
入った瞬間目に飛び込んできた本棚の多さに、ウェルスは感嘆のため息をこぼした。
この協会にある図書資料室は、蔵書の種類が多く、一つ一つの棚がとても背が高い。特に、壁際の本棚に至っては、天井まである。その全てが貴重な資料や蔵書で、一般人でも閲覧できるようになっている。
だが、閲覧する為の席が少ない上、屋外への資料持ち出しが出来ないので、研究するにも不便で協会の人間でも利用する人は少ない。もちろん、魔術を使わない人間がここを訪れることは、よほどの事が無い限り無い。
現に今、一つしかない大机に本を積み上げている魔術師が一人居るのみ。しかも、薄暗いのでどんな人物かはウェルスからはよくわからない。一応雰囲気から、まだなりたての魔術師だろうと、ウェルスは思い、部屋の奥に進んだ。等間隔に明り取りの窓と、吊り下げ式のランプを頼りに、本棚の間をくまなく順に覗いていくが、それらしい人物の姿はない。
入れ違いか、とため息を吐きつつ、彼は本棚から離れると、例の魔術師に声をかけた。
「あの、ユラ=シグドという魔術師を探しているのですが、どちらにいらっしゃいますか?」
だが、魔術師は答えなかった。
聞こえなかったのか、と思い、ウェルスは少し大きな声で尋ねた。
「ユラ=シグドという魔術師を探しています、何か知りませんか?」
「知らない」
今度は一応反応を返したものの、ウェルスに顔を向けることはなかく、さすがにウェルスも呆然とした。だが直ぐに気を取り直し、諦めずに話しかけた。なにせ、「ユラ」の居所が分からなければ、護衛を依頼することも、城に帰ることも出来ない。
「申し訳ないのですが、こちらも急いでおります。ほんの少しで結構です、何か特長とか分かればこちらで探しますので……」
「知らないものは知らない」
「同じ協会の人間を、知らないはずないでしょう。それにロマ協会長からも、協会内にいると伺っています」
「あんたも大概しつこいな。いい加減諦めたら?」
やっと本から顔を上げた魔術師は、眼鏡の奥にある、少し吊り上がった黒い目を面倒臭そうに細め、短く切りそろえられた黒髪をがしがしとかいた。
仕草は乱暴だが、よく見れば中性的で生意気そうな少年に見える。
だが、そんな魔術師のぞんざいな態度に、しだいにウェルスは徐々にイラだってきた。
それでなくても、目の前の相手は自分より年下であることは確実なのに、態度を改める気配もなく、それを詫びることもない。戒律に厳しい軍部に身を置くウェルスとしては、腹立たしいことこの上ない。
「では、言い方を変える。ユラ=シグドがどこに居るのか言え」
ウェルスの急激な態度の変化に、魔術師はわずかに眉をひそめた。
「それ、命令?」
「そうだ」
先ほどの腰の低さを捨て、ウェルスは威圧的に相手を見下ろした。しばらく睨み合いが続き、最初に折れたのは魔術師の方だった。
「んで、ユラに用ってなんなわけ?」
「お前に答える義務はない」
「へえ、さっきと態度全然違うな。だったらこっちだって居所は教えないよ」
冷ややかなウェルスの視線を物ともせず、魔術師は口元だけで笑う。
「これは国に関わることだ、万が一故郷がなくなるという羽目になりたくなければとっとと言え」
「残念だけど、生まれはここじゃないから」
「穏便に事を済ませたい、城側の意向を汲み取る気はないのか?」
「協会にばっかり面倒事持ち込む集団の意向なんて、汲んだところで損するだけだし」
「口が減らないな」
「そっちこそ」
再度互いに睨み合い、思わずウェルスは自分の剣に手をかけていた。
―手段を選んでいる場合ではない、何としても目の前の魔術師から「ユラ」の居所を聞き出さないと。そんな焦りが、彼に剣を抜かせた。切っ先が魔術師の額を狙う。魔術師は微動だにせず、だが先ほどより強くウェルスを睨んだ。
「手段は選ばない、ってこと?」
「むしろココに来たのが俺でよかったな。近衛の連中だったら、もっと早い段階で武器を手にしていたはずだ」
「血気盛んなことで」
「悪いけど、これでも普段は温厚な方なんだけどな」
口だけ歪めたウェルスに、魔術師は睨むのを止め、どこか呆れたようなため息を付いた。
「わかった、教えるよ」
「へえ、やっと素直になったな」
もう少し粘られると思っていたウェルスは、魔術師の態度に拍子抜けし、突きつけていた剣を鞘に収めた。
「それで、ユラ=シグドはどこに居るんだ?」
「ここ」
そう言って、魔術師はウェルスから視線を外し、大机を人差し指で二回叩いた。すぐさま、ウェルスの表情が険しくなる。
「おい、いい加減嘘つくのは―」
「私が、ユラ=シグドだよ」
魔術師の言葉に、ウェルスはニ、三度瞬たいた。「証拠は?」
「そうだなぁ……コレでいいかな、はい」
そう言って「ユラ」が懐から取り出したのは、金属で出来た手のひら大の薄い板。そこには、様々な文字と共に「階級、ハイマスター」と掘り込まれていた。
だが、ウェルスはまだ信じきれず、それとユラの姿を何度も見直した。
白いローブに覆われた姿は、まさに魔術師という感じだが、見えうる限りの肌が程よく日に焼けており、陰気とか貧弱な印象は受けない。それでも、年若い見た目と、先ほどの言葉遣いの荒さが不信感をあおる。そもそも、ウェルスが話に聞いていた「ユラ=シグド」は、この国で二人だけのハイマスターで、協会長であるロマ以上の変わり者ということだけ。
もともと、魔術師は式典以外では、城に顔を出すことがないので、ウェルス自体、一度も「ユラ」の顔を見た事が無い。
「ロマ協会長も若かったけど、歳は?」
「十八」
「じゅうはち?」
意外な年齢に、ウェルスは思わず驚愕の声をこぼす。それが、『もっと幼いと思っていた』というニュアンスを含んでいたことに気付いたユラは、思い切り顔をしかめた。
「本人目の前にして、結構失礼だね」
「ハイマスターって聞いたから……てっきり、かなり
高齢な人物かと思って」
「そういえば、あんたの顔見て思い出した」
ユラの顔は、悪戯を思いついた子供みたいに笑っており、同時に声もからかう様な音を含んでいた。
「栗色の髪の毛に、緑の目、そして左目にある傷。ウェルス=ギムレット、アルスバルトの『不敗の鷹』」
言われた途端、ウェルスは思わず目を見開き、顔を赤らめてしまう。
アルスバルトにおいて、優秀な功績と手柄を立てた人物は、国王から二つ名と勲章を賜る。
この国で有名な二つ名は、『高貴なる漆黒の魔術師』、そして『不敗の鷹』だ。
正直なところ、勲章は欲しいが二つ名はいらないと言う人間は多い。『不敗の鷹』にしろ、『高貴なる漆黒の魔術師』にしろ、本人の了解なく歴代国王が面白がって付けただけの物が多いので、いらないあだ名が増えたと考える人間が多い。
ウェルスも間違いなく、そのうちの一人だった。名前に見合う功績を残したわけでなく、偶々現国王が読んだ本に、彼と同じ名前の人物が出ていた。それだけで、「ウェルス=ギムレット」についていた『不敗の鷹』という二つ名がつけられてしまった。
「ゆ、ユラ=シグドにも二つ名があるって聞いた
ことあるぞ!」
「へぇ、初耳だなそれ。一体どんなの?」
「確か、高貴なる漆黒の―」
「それ、協会長の二つ名。残念ながら、まだ自分に二つ名は付いてないから」
なんとなく自分だけ辱められたような気がして、ウェルスは悔し紛れにユラに噛み付くが、それはユラに牙が届く前に折られてしまう。
いくら階級が高いとはいえ、四つも年下である人物に言い負かされた事が悔しくて、このまま城に戻りたい衝動に駆られた瞬間、わざわざここに来た本来の目的を思い出した。
「そうだ、ユラ。貴方に頼みたい事が」
全てを言い終える前にユラはスッパリと答えた。だが、ウェルスも躊躇したのは一瞬だった。
「陛下の護衛を頼みたい」
「断る」
「行き先はレベラリア、向こうへ着くまでの費用は王室から―」
「断る」
一向に首を縦に降る気のないユラに、ウェルスはため息をついて、仕方なくある書面を取りだした。
それは、ユラも見たことある書類。
「残念だけど、もう出向は決定だから。悪いけどよろしく、ハイマスター・ユラ=シグド」
「最悪」
ユラは悔しそうに顔をゆがめて、『魔術師斡旋状』をにらみつけた。そこには、若干右上がり気味の自分の字で、自分の名前が綴られていた。
* * *
アルスバルトの城は、かなり歴史がある。
小高い丘の上に聳え立つそれは、かつてこの地がリアリースと呼ばれる巨大帝国であった時代に創られたものだ。それは、何百という年月の間度重なる戦火に負けず、人の手が無くなり朽ちていくこともなく荘厳な姿を保っていた。
城と街を分ける深い堀の上に、跳ね橋がかかる。
ウェルスとユラは、魔法協会から城に着くまでの間一度も口を開かなかった。というより、ユラがまったく喋らないので、ウェルスも口を開くことが出来ずにここまで来てしまったのだ。とりあえず、城門をくぐる前に軽い身体検査をした後、二人はようやくアルスバルト城に着いた。
一歩城の中に入れば、そこはまるで別世界だった。
男女ごとに統一された服装の使用人たちや、行商人らしき人たちが歩いており、軍服を着た騎士団員とすれ違えば、彼等はウェルスに対して敬礼する。
ただ、ウェルスの隣にいるユラを見ると、わずかに顔を強張らせ、直ぐにその場を立ち去っていった。
ユラはユラで、四方から浴びせられる視線の中、居心地悪く思いながらも、城の内装や続く廊下に等間隔で備え付けられた燭台を観察していた。そして、ある部屋の前に着いたとき、ウェルスがユラのほうに向き直りニコリと笑った。
「ハイマスター殿。申し訳ないのですが、今から陛下たちに挨拶していただきます」
「何で」
憮然とした表情のまま、ユラは言葉を投げる。
「最低でも、陛下にだけは顔を覚えてもらわないと、万が一、近衛隊に見つかると説明するの面倒だし」
その言葉にユラは不機嫌になり、ウェルスは少し溜飲が下がった。
そして二人は、なんともいえない空気のまま、玉座の間に着いた。ウェルスが、傍らにいた兵士に何事か囁くと、すぐにその扉を開けてくれた。
国の紋章をあしらった巨大な扉が開かれると、目の前に幅の広い赤い絨毯があり、それが奥へと伸びていて、二人はそれに添って中に進む。
ウェルスが前、ユラはその斜め後ろからついていく形で歩いていくと、玉座が見えてきた。ウェルスは玉座の前にある短い階段の下で、恭しい仕草で左膝を付く。それに習い、ユラもあわせて左の膝を付いた。
「ウェルス=ギムレット、ただ今戻りました」
「うん、ごくろう」
その声にあわせて、ユラは改めて玉座に座る人物の顔を見た。
涼しげな目元と通った鼻筋、そしてすっきりした顎のラインは彼を美しく見せ、眩いばかりの金髪は絹糸のようにサラサラと流れている。その間からは、長く、白いうさぎのような彼の耳があった。それは、よく見ると、それは絶え間なく周りの情報を集めようとしているように動いている。
だが、持て余す様に長い足を組み、肘掛に肘をついて頬杖にする様は、すこしふてぶてしさを感じた。ニヤリとした笑い方と、好奇心で爛々と輝いた目も、彼の威厳を少し翳らせていた。
その傍らに、眼鏡をかけた執事のような格好をした人間が佇んでいた。彼も顔は整っているが、まったく変わらない表情がどこか人形のように思える。
そんな二人をマジマジと見つめているユラの脇腹をつつき、ウェルスは咳払いをした。だが、それに負けない勢いで、玉座の人間はユラ達を見つめる。おもちゃを見つけた子供みたいな目、ユラはそう感じた。
「よく戻ったな、ウェルス。大分時間が掛かったようだが?」
「申し訳ありません。少々不測の事態が起こりまして、説得に時間が掛かってしまいました」
傍らにいた男の言葉に、ウェルスはユラに対して皮肉を込めながら答えた。
「ユラ=シグド。階級はハイマスターです」
たった今気付いた、というような男の声に、ユラは抑揚の無い声で名前と階級を述べた。それを聞いて、玉座の男は面白そうな笑みを浮かべ、傍らの男は眉間にしわを寄せた。
「ウェルス、面白い人間を連れてきたな。ユラとやら、私はシュルド=ジルドラ=アルスバルツ。隣は宰相のクロンドだ」
満面の笑みを浮かべるシュルドとは反対に、クロンドと呼ばれた者は、怪訝な表情のままユラを値踏みするように見下ろした。
「ユラ、といったな。ハイマスターの位が本当ならば、なぜその階級の装束を身に着けない」
「着替える暇もなく、そこの騎士様に連れてこられたからです」
「では、今から時間を与える。すぐに着替えて来い」
「残念ですが、今洗濯中なんです。上物の生地なので、あと一日あれば乾くと思いますけど、それまでお待ちしていただけるんですか。騎士様のお話ですと、ずいぶんお急ぎのようでしたけど」
クロンドの言葉に、ユラは淡々と屁理屈を捏ねた。これには、隣で聞いていたウェルスも思わず冷や汗が背中を伝う。案の定、クロンドは苛々とした視線をウェルスにぶつけた。
「おいウェルス、本当に協会長と交渉してきたのか。よくもこんな者を連れてきたな」
怒りの為か、クロンドの声のトーンが先ほどよりもかなり低く、ウェルスは一瞬たじろいだ。
「話し合った、というか……散々文句付けられて、ハイマスターを斡旋して貰ったのですから、むしろ褒めていただきたいのですけど」
「適当な階級を押し付けられたのじゃないだろうな。私の記憶が正しければ、あの装束はプートの階級のはずだ」
すぐ目の前に本人がいることも構わず、クロンドが再び疑いの言葉を投げかけると、ウェルスも驚いてユラの装束を改めて見直した。
街中を歩けば、すぐに魔術師だとわかる丈の長いローブ。魔術師の数ある階級の中でも最下級の、プートが身に付ける唯一の衣装の簡素な短いマントは、ちょうど胸の辺りで何かの宝石のついた留め具でまとめられており、あまった布がフードの役割を担っている。
「おい。まさか今更偽物でしたって事、無いよな?」
「そう思うなら試す?」
ウェルスの言葉にユラはほんの少し怒りを滲ませた声色で睨みあげた。
「そうだな。期待はずれだと困るし、ウェルス、相手をしてやれ」
「そうですね、本当に役立たずだと困りますしね」
その言葉に嬉々として答えたのは、シュルド。脇では、嘲りと侮蔑を含んだ声でクロンドも頷く。さすがに、あからさまな侮辱の言葉には、ウェルスもユラの顔色を伺ったが、ユラはむしろ挑発するように鼻で笑った。
「別にいいですよ」
「場所は、ここでいいだろ?」
「えぇ、構いません」
わくわくしているシュルドとは反対に、ウェルスは戸惑っていた。
確かに、初めてユラに会ったときに、斡旋状と会話での階級確認しかしなかったのは自分のミスかもしれない。そして、ロマ自身にもユラがどんな人物かしっかり確認しなかったのも悪い。
今、目の前の人物が本当にハイマスターなら、何の問題もなくすんなり用件に入れたのだ。
でないなら、自分の一撃で相手が大怪我を負うかもしれない。
そんなことを考えているウェルスの隣で、ユラは辺りを見回し、最後にウェルスの腰にある剣を見つめながら、顎に手を当てて考えていた。その口が、なにやら呟いてはいたが聞き取れる大きさではなかった。
「すみません。何か棒状のものを貸していただけませんか? さすがに丸腰で、騎士団の隊長格とやりあうのは辛いんで」
ユラに唐突に向き直られたクロンドとシュルドは、思わず互いの顔を見合わせてしまった。
「別に、構わないぞ。なぁ、クロンド」
「えぇ、そうですね。では、アレなどいかがです?」
そう言ってクロンドが指し示したのは、ここから大分離れた、最初に二人が入ってきた扉の脇に立てかけられたモップ。多分置き忘れていったのだろう。かなり年季の入った代物なのか、床を磨く布は真っ黒で、もう濯いでも汚れは落ちそうにない。
暗に皮肉を込めていることを知ってか知らずか、ユラは頷き、大分離れた所に立てかけられていたそれを取りに行き、握り心地を確かめているのか時々振り回したりしている。
「あぁ、結構いいねコレ」
そう呟き、ユラは三人のいる位置まで戻ってきた。
「さて、はじめましょうか」
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