
| by 戸田采女 |
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明和元年、十月末。 半刻の後、邸内の道場ではもはや竹刀の音もやみ、若党たちの疲れ果てた息遣いだけが聞こえていた。 「も、もう勘弁してくださりませ! 二度と『お手合わせ願いたい』などと申しませぬ〜!」 「身の程知らずでござりました! どうぞ…お許しくださりませえ…」 右近は面を外し、這いつくばる若党たちに嫣然と微笑みかけた。 「わかればよいのだ。そのほうらも寒いからといって、酒を飲んで詰め所でぐずぐずしているのではないぞ。寒いときこそ、稽古に励んで身体を動かしておくように。いざという時お役に立てねば何とする!」 「こ、心得ましてござりまする〜!!」 頭を床にすりつけんばかりに、若党たちはひたすら平伏した。 右近は我知らず、勝ち誇ったように面をあげていた。 いつやってきたのか… 「精が出るな、右近」 扇をもてあそびながら惣一郎が可笑しそうに喉を鳴らしている。 「惣一郎様…」 主の姿をみとめ、右近は一礼した。 着物のあちこちに墨が飛んでいるところを見ると、絵を描いていたところなのだろうか。珍しく木綿の質素な小袖に袴姿で、惣一郎が道場の入口にもたれていた。小姓の仙之丞も側に控えていた。 「若殿こそ、小休止でござりますか」 面を小脇に抱え、右近は惣一郎の元へ歩み寄った。若党たちの好奇の視線が追い掛けてくる。甚だうっとおしい。肩ごしに振り返って睨み付けると、再び若党たちは声もなく平伏した。 「先程、天満屋が阿蘭陀菓子を届けてきおった。皆で食すゆえ、そなたも身供の部屋へ参れ」 『天満屋』ときいて右近は不快そうに眉を寄せた。めざとく見抜いた惣一郎が、 「まあそうとんがるな。小姓たちも皆待っておるゆえ、早く着替えて参れ」 「御意…」 例の枕絵の一件以来(八の巻参照)、右近は『天満屋』と聞くだけで背筋に悪寒が走った。だが、屋敷の用人として、出入りの両替屋と話をせぬわけにもいくまい。これも役目と、右近はぐっと奥歯を噛みしめた。 瑛泉作の組物枕絵は、正月早々発売だそうだ。すでに原画には一枚百両の値がつき、限定版の刷り物も予約完売だという。惣一郎が厳重に抗議してくれたおかげで、右近が現在の姿のまま描かれることはなく、前髪をつけ、十四、五歳の小姓にしたてられているという。 とても自分で見る気にはなれなかったが、天満屋から一部進呈された惣一郎いわく、 「一見してそなたとわかるような絵にはなっていない、安堵いたせ」 安堵いたせと言われても、右近は複雑な心境であった。 秋の彼岸の頃、借財の件で話があると、右近は天満屋の寮に呼び出された。元々、右近を枕絵の絵姿にすることが目的だった天満屋は、茶に薬をまぜて右近に一服もった。朦朧としたところを、着物を脱がされ、ご丁寧に絡む相手役まで用意されていた…。 帰りが遅いのを案じた惣一郎が仙之丞とともに寮へ駆け付け、右近をひっさらうようにして屋敷へ戻ったのだった。 しかし─。 あの時は色を失うほど激怒したくせに、いざ絵が完成すると、ちゃっかり手に入れている惣一郎…。呆れ返って物も言えなかった。一時はお家の恥になると、切腹まで覚悟した自分が馬鹿らしくなってしまう。 だが、惣一郎のどこか突き抜けた性格のおかげで、自分は今ここにこうして生きている。あの枕絵騒動以来、なしくずしに伽をする身となってしまったが…。 右近は今、己の心境を語るにふさわしい言葉が見つからない。 十一月ニ日朝。惣一郎は右近、仙之丞と郎党ニ名を従えて、葺屋町の芝居茶屋「胡蝶屋」の座敷へ上がったのち、市村座へ顔見世芝居見物に出かけた。中食をはさんで日暮れまで観劇する予定である。 席は希望通りの御簾つき桟敷で、演目は「仮名手本忠臣蔵」。正当派すぎて惣一郎の気にいらぬかと思いきや、此度は演目にさしてこだわりを見せなかった。御簾つき桟敷に陣取り、御満悦の惣一郎。てっきり下心ありで、観劇中に悪さをされるのではないかと右近は身構えていた。ところが、まったくそのような気配もなく、惣一郎は大人しく舞台を鑑賞している。どこか肩透かしを食ったような気分だった。 ともあれ、幕合いに惣一郎主従は「胡蝶屋」へ戻って軽く中食をとった。郎党ふたりは階下で、惣一郎、右近、仙之丞の三人はニ階の座敷で和やかに膳を囲んだ。 あらかた膳部のものが片付くと、仙之丞が席を外した。 厠にでもいったのかと思えば、いつまでたっても戻ってこない。惣一郎はゆっくりと杯を干しながら、時折意味ありげな視線を投げてくる。 何やら項のあたりがこそばゆい。 「惣一郎様…、仙之丞は?」 「うん? 仙之丞か?」 「厠にいったにしては、ちと遅うござりませぬか?」 「…なに、案ずるな。仙之丞は…気をきかせただけじゃ」 「は…?」 小首をかしげた右近に、惣一郎は奥の襖に向かって軽く顎をしゃくった。 嫌な予感はほとんど確信にかわりつつあった。恐る恐る立ち上がって襖をあけると、続き部屋には床がとってあった。 絹夜具に屏風、乱れ箱…。 二つ枕に頬を染めて目を逸らす右近。 (胡蝶屋め、このような手配、私は頼んだ覚えはないぞ…!!) 背後でくすくす笑う惣一郎の声が聞こえた。振り返ろうとすると、後ろから項にそっと唇を押し当ててくる。 「一度、こんなことがしてみたかったのじゃ」 「惣一郎様…」 右近の唇から呆れたような溜息が洩れた。 「昼間からあられもない姿を曝すのが…嫌なのか?」 「惣一郎様!」 肩ごしに睨みつけると、惣一郎は薄めの唇の端をあげ、片頬で笑ってみせた。 確かに…斯様に日の高いうちから、肌を曝すなど冗談ではなかった。さりとて、この状況…。暴れて逃げたのでは惣一郎に大恥をかかす。何とかその気がなくなるように仕向けねば…。 右近は必死で頭を巡らせた。しかし─。 着物の袷から早速惣一郎の手が忍びこんできた。乾いた掌が胸をニ、三度撫で回し、中指が胸の突起をひっかいた、 「くっ……」 右近の膝から力が抜け、思わず前屈みになった。 そのまま続きの間へなだれこむ。半ば強引に夜具の上に押し倒された。絹夜具のひんやりとした肌触りを一瞬心地よいと思う。だが、このまま流されるのはあまりに口惜しい。 「斯様な手配…店のものに頼んだ覚えはござりませぬ」 「さもあろう…、身供が仙之丞に申し付けた」 右近の身体の上に乗り上げ、惣一郎が口元を綻ばせた。 せ、仙之丞め、余計なことを…。 「惣一郎様…、お戯れもいい加減になされませ!」 「たまにはこうして外で逢瀬を楽しむのもよいではないか…」 「せっかく桟敷席を都合いたしましたのに…。次の幕はどうなされるのです」 「なに、大切の『一力茶屋』には十分間に合う…案ずることはない」 いいながら、惣一郎は右近の着物の袷を両側から大きくくつろげた。右近は悔しげに唇をかんだが、所詮、主に逆らえはしない。 右近は観念したように身体の力を抜いた。それでもぷいと横を向き、憎まれ口のひとつもたたきたくなる。 「まだ陽が高うござります…」 惣一郎の手が右近の袴の紐にかかった。 「案ずるな。茶屋の者は何もかも心得ておる。しばらく放っておいてくれようぞ」 「左様な問題ではござりませぬ」 いつの間に紐の解き方を覚えたのか。 袴の紐をすんなりとほどき、自信を深めた?惣一郎は、嬉々として小袖や襦袢も脱がせていった。右近を下帯一枚の姿にすると、自分も着物を脱ぎ、右近の隣に横たわった。惣一郎が脱ぎ捨てた着物から、薫きしめた香が仄かに漂った。 「…このような時刻から…なんと恥知らずな」 天井を睨みながら、大袈裟に溜息をついて見せた。 片肘をついて見おろす惣一郎が、唇の端で笑った。 「うるさい口じゃのう…。そなたこそ、不粋なことを申すな…」 ゆっくりと惣一郎が右近の上に覆い被さった。柔らかく口を吸われる。歯列を割って入って来る舌を、右近は渋々迎え入れた。もはや逆らうのも詮無き事に思え、口腔を舌でまさぐられる快感にしばし身をまかせた。 惣一郎を嫌いではない…。 しかし、愛してもいない。 だが、愛してもいない相手に、何故斯様なことを許すのだ? 惣一郎様が主だから、主に求められれば逆らえないからか? それは…言い訳であろう。 触れられれば応えてしまう。 肌をまさぐられ、粘膜を擦られる快感だけではない。 身の内からわき起こる甘く切ない疼きを、一体どう説明すればよいのだろう…。 そう…今もこのように。 「あっ…」 下帯の中に入ってきた惣一郎の右手に、袋ごと強く握りこまれた。 「よそ事を考えるでない…」 惣一郎はたしなめるように言うと、今度はやんわりと揉みしだき始めた。 「んっ…ううっ…」 さすがに隣の座敷が気になり、右近は懸命に声を堪えた。 「堪えずともよい。他の客はもう芝居小屋に戻った頃だ…。隣には誰もおらぬ」 言われてみればそうであった。 さりとて、声を洩らすのは不本意なことにかわりはない。 惣一郎は下帯の下で巧みに手を動かしながら、右近の胸の突起を口に含んだ。唇で軽く挟んだり、吸ったり、もどかしいような触れ方に、右近の内部にどんどん熱が籠っていく。 伽を命じられ、仕える─。それだけのことではないか? そう言い切れれば楽だった。 惣一郎が己の快楽のみ追求してくれれば、言い訳はたった。たとえ、どんなに心が乾いていこうとも。 しかし─。 「……んっ」 触れてくる唇は羽毛のように優しく、乾いた大きな掌は、愛おしむように右近の肌の上をさまよった。惣一郎の唇は時に胸の飾りを離れ、薄く筋肉のついた右近の胸板や脇腹をくまなく愛撫した。強く吸ってみたり、甘がみしたり、憎らしいほどの変化をつけて右近を翻弄した。 息が上がっていくのを止められない。 皮膚の下、叫びだしたいような疼きが全身を駆け巡った。 こんな触れ方は狡い…。 躯だけでなく、心まで切なくなってしまう…。 貴男を愛してなどいない。それを承知のくせに、何故こんなにも優しく触れてくるのです? 「何が…悲しいのだ、右近?」 「あ…」 気がつけば、目尻に涙が滲んでいた。 「身供に抱かれるのが…それほど嫌なのか?」 「そ、それは…」 嫌ではない。しかし言葉にして認めるわけにもいかず、右近は困惑して睫を伏せた。 瞼を閉じていても惣一郎の視線が感じられる。熱っぽさと諦めの入り交じった瞳の色。 「…すまぬ。余計なことを申した…」 惣一郎は右近の耳朶に触れんばかりに囁くと、再び右近の躯の上に乗り上げて唇を重ねた。 口を吸い合いながら、惣一郎はお互いの昂りを摺り合わせるように腰を使った。声を出せぬ分、右近の内部で熱が行き場を求めて荒れ狂う。たまらず惣一郎の背に縋りつくと、きつく舌を吸われた。ゆっくりとお互いを高めていくような動きに、右近の思考も朦朧ととけてゆく。 惣一郎は…これで満足なのだろうか? 確かに…肌を合わせている間は、自分は惣一郎のものだ。 閨で執拗なまでに責められる夜も、今、この瞬間ように、泣きたくなるほど優しく愛撫される時も─。 わかっているのだ…。躯だけでなく、真摯に心まで求められている。 ここまで真直ぐに求められて、嬉しくないわけがない。 昔は誰に言い寄られても、情けを返すなど考えてみなかったが、惣一郎は違う。 できるなら、惣一郎の想いに応えたいと思う…。 好きになれたら…。 惣一郎を好きになれたら…。 顔見世が終われば、聖堂の素読吟味、七五三…、江戸の師走はもう近い。またひとつこの地で歳を重ねてゆくのか…。国許での日々が、煌めくような少年の日が、遠く懐かしい思い出になっていく。 江戸に留まり、時代のうねりをこの目で見届ける…。そういう生き方も面白いかもしれぬ。 ふと目を上げれば、動きを中断した惣一郎が、蕩けるような眼差しで見おろしていた。右近はしばし無言で見つめ返した後、惣一郎の肩をしなやかに引き寄せた。倒れ込んでくる惣一郎の温もりに、懐かしいような安心感を覚えた。 表通りのさざめきを遠くに聞きながら、右近もつかの間の情事に我を忘れた。 |
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