三万ヒット記念小説
『幕間狂言』




主な登場人物


by 戸田采女

 明和元年、十月末。

 恵比寿講を過ぎ、江都に霜の降りる季節となった。

 十一月朔日、江戸三座で「顔見世芝居」がはじまる。向こう一年間の新しい座組の顔ぶれを見せるための興業であった。芝居小屋のほうでも宣伝には大変熱心で、早くも十月半ば頃から顔見世狂言の番付を売り歩いている。

 高山藩・中屋敷用人、櫻田右近は、芝居好きの主、惣一郎のために、馴染みの芝居茶屋「胡蝶屋」に出向いた。御簾のかかった二階の桟敷を、との惣一郎の希望をおかみに伝えると、
「…左様でございますねえ。今からだと少々難しゅうざいますが、初日ではなくニ日か三日のお席でしたら手配できるやもしれませぬ」
「それでかまわぬゆえ、よろしくたのむ」
御簾のかかった桟敷にこだわる、惣一郎の真意はおぼろげながら読めていた。

 『一度、何処か外で、そなたと逢瀬をたのしみたいものだな…』

 最近何かといえば、惣一郎は閨でこんな台詞をはいていた。

 憮然とした表情で頬を赤らめたものだから、おかみが訝しげに右近を見つめている。
「む、無理を言ってすまぬが、よろしく頼んだぞ、おかみ」
居心地の悪くなった右近はそれだけ言い残し、そそくさと茶屋を後にした。

 帰りにその足で書物問屋に立ち寄った。長い間待っていた書が、やっと入荷したとの知らせを受けたのだ。芝居の件はひとまず置くとして。右近は望むものを手に入れ上機嫌で屋敷へ戻った。

 時刻は八つ半(午後三時)を過ぎ、初冬の弱々しい太陽は西の空に傾き始めていた。
「今夜は冷えそうだな…」
右近は鈍色の空を見上げ、思わず羽織の襟をかきあわせた。

 門をくぐり、玄関へ向かおうとしたところ、長屋門横の中間や若党の詰め所から、賑やかな笑い声が洩れてくる。

 「何を騒いでおるのだ…?」

 眉をしかめ、足音を忍ばせて詰め所に近付いた。障子戸を一寸ほど開けて中をのぞけば、火鉢を囲んで、中間や若党が一杯やっている。のしいかの香ばしい匂いまで辺りに漂っていた。

 「…冷えてきたとはいえ、まだ八つすぎではないか。…たるんでおるな」

 右近が怒鳴りつけてやろうと、深く息を吸い込んだ時だった。

 「…中奥の女中の話しでは、惣一郎様は三日にあげず右近様をお召しのようじゃ」
「随分かわいがられておいでだな…」
「殿はもともと女色専門で、お小姓たちも伽を申し付けられることはなかったのだろう?」
「それが何故ころりと…?」
ひとりが声を潜めて呟いた。
「ご用人様の抱き心地は…格別なのかのう…」
ニ、三人が喉の奥で淫らな笑い声をたてた。

 障子戸の外で右近は羞恥で身を固くしていた。こんな下郎たちの与太話のネタにされているとは…。胃の腑の底から悔しさがこみ上げてきた。

 小姓たちの間では箝口令をしいていたようだが、斯様な話は早晩外にもれるのだ。ましてや、おしゃべりな女中たちの口に戸はたてられまい。

 「…おかげで、殿はすっかり吉原へはゆかれぬようになってしもうた」
「我らもお供の楽しみがなくなったのう…」
鈍い溜息が漂った。
「しかし、あの怜悧なご用人様が一体どんな風に抱かれておいでなのか…。一度見てみたいものじゃ」
「いかにも…」
「見るだけでのうて、我らもぜひ一度お手合わせ願いたいものよのう…」

 (たわけたことをぬかしおって!)

 右近は髪の先まで怒りに震えていた。だが、右近は怒り心頭に達したとき、かえって水を打ったような無表情になる。

 (後々なめられては困る。一度シメておかねばなるまい…。)

 丹田に力をこめ、障子戸に手をかけた。音をたてて一気に開けた。

 笑い声がぴたりと止んだ。

 あたりを一瞥する。

 「お望みならいつでもお相手しようぞ」

 背中から冷水を浴びせられたように、火鉢を囲む面々がひきつった。

 「ひっ…さ、櫻田様、いつからそこにいらしたんで…!」
「先程からずっと」
中間は腰を抜かし、若党たちの顔から血の気がひいた。

 「斯様な噂話に興じておるとは、よほど暇なのであろう…」
「い、いえ…その…」
「何やら香ばしい匂いも漂っておるのう‥」
隅のほうで、中間がするめを口に押し込んでいた。

 「…それ程暇を持て余しているなら、道場で稽古をつけてしんぜよう」
「ど、道場?」
当然と頷く右近。
「さっと仕度をして参れ」




 半刻の後、邸内の道場ではもはや竹刀の音もやみ、若党たちの疲れ果てた息遣いだけが聞こえていた。

 「も、もう勘弁してくださりませ! 二度と『お手合わせ願いたい』などと申しませぬ〜!」
「身の程知らずでござりました! どうぞ…お許しくださりませえ…」

 右近は面を外し、這いつくばる若党たちに嫣然と微笑みかけた。
「わかればよいのだ。そのほうらも寒いからといって、酒を飲んで詰め所でぐずぐずしているのではないぞ。寒いときこそ、稽古に励んで身体を動かしておくように。いざという時お役に立てねば何とする!」
「こ、心得ましてござりまする〜!!」
頭を床にすりつけんばかりに、若党たちはひたすら平伏した。

 右近は我知らず、勝ち誇ったように面をあげていた。

 いつやってきたのか…
「精が出るな、右近」
扇をもてあそびながら惣一郎が可笑しそうに喉を鳴らしている。
「惣一郎様…」

 主の姿をみとめ、右近は一礼した。

 着物のあちこちに墨が飛んでいるところを見ると、絵を描いていたところなのだろうか。珍しく木綿の質素な小袖に袴姿で、惣一郎が道場の入口にもたれていた。小姓の仙之丞も側に控えていた。

 「若殿こそ、小休止でござりますか」
面を小脇に抱え、右近は惣一郎の元へ歩み寄った。若党たちの好奇の視線が追い掛けてくる。甚だうっとおしい。肩ごしに振り返って睨み付けると、再び若党たちは声もなく平伏した。

 「先程、天満屋が阿蘭陀菓子を届けてきおった。皆で食すゆえ、そなたも身供の部屋へ参れ」

 『天満屋』ときいて右近は不快そうに眉を寄せた。めざとく見抜いた惣一郎が、
「まあそうとんがるな。小姓たちも皆待っておるゆえ、早く着替えて参れ」
「御意…」

 例の枕絵の一件以来(八の巻参照)、右近は『天満屋』と聞くだけで背筋に悪寒が走った。だが、屋敷の用人として、出入りの両替屋と話をせぬわけにもいくまい。これも役目と、右近はぐっと奥歯を噛みしめた。

 瑛泉作の組物枕絵は、正月早々発売だそうだ。すでに原画には一枚百両の値がつき、限定版の刷り物も予約完売だという。惣一郎が厳重に抗議してくれたおかげで、右近が現在の姿のまま描かれることはなく、前髪をつけ、十四、五歳の小姓にしたてられているという。

 とても自分で見る気にはなれなかったが、天満屋から一部進呈された惣一郎いわく、
「一見してそなたとわかるような絵にはなっていない、安堵いたせ」

 安堵いたせと言われても、右近は複雑な心境であった。

 秋の彼岸の頃、借財の件で話があると、右近は天満屋の寮に呼び出された。元々、右近を枕絵の絵姿にすることが目的だった天満屋は、茶に薬をまぜて右近に一服もった。朦朧としたところを、着物を脱がされ、ご丁寧に絡む相手役まで用意されていた…。

 帰りが遅いのを案じた惣一郎が仙之丞とともに寮へ駆け付け、右近をひっさらうようにして屋敷へ戻ったのだった。

 しかし─。
あの時は色を失うほど激怒したくせに、いざ絵が完成すると、ちゃっかり手に入れている惣一郎…。呆れ返って物も言えなかった。一時はお家の恥になると、切腹まで覚悟した自分が馬鹿らしくなってしまう。

 だが、惣一郎のどこか突き抜けた性格のおかげで、自分は今ここにこうして生きている。あの枕絵騒動以来、なしくずしに伽をする身となってしまったが…。

 右近は今、己の心境を語るにふさわしい言葉が見つからない。


***


 十一月ニ日朝。惣一郎は右近、仙之丞と郎党ニ名を従えて、葺屋町の芝居茶屋「胡蝶屋」の座敷へ上がったのち、市村座へ顔見世芝居見物に出かけた。中食をはさんで日暮れまで観劇する予定である。

 席は希望通りの御簾つき桟敷で、演目は「仮名手本忠臣蔵」。正当派すぎて惣一郎の気にいらぬかと思いきや、此度は演目にさしてこだわりを見せなかった。御簾つき桟敷に陣取り、御満悦の惣一郎。てっきり下心ありで、観劇中に悪さをされるのではないかと右近は身構えていた。ところが、まったくそのような気配もなく、惣一郎は大人しく舞台を鑑賞している。どこか肩透かしを食ったような気分だった。

 ともあれ、幕合いに惣一郎主従は「胡蝶屋」へ戻って軽く中食をとった。郎党ふたりは階下で、惣一郎、右近、仙之丞の三人はニ階の座敷で和やかに膳を囲んだ。

 あらかた膳部のものが片付くと、仙之丞が席を外した。

 厠にでもいったのかと思えば、いつまでたっても戻ってこない。惣一郎はゆっくりと杯を干しながら、時折意味ありげな視線を投げてくる。

 何やら項のあたりがこそばゆい。

 「惣一郎様…、仙之丞は?」
「うん? 仙之丞か?」
「厠にいったにしては、ちと遅うござりませぬか?」
「…なに、案ずるな。仙之丞は…気をきかせただけじゃ」
「は…?」

 小首をかしげた右近に、惣一郎は奥の襖に向かって軽く顎をしゃくった。

 嫌な予感はほとんど確信にかわりつつあった。恐る恐る立ち上がって襖をあけると、続き部屋には床がとってあった。

 絹夜具に屏風、乱れ箱…。

 二つ枕に頬を染めて目を逸らす右近。

(胡蝶屋め、このような手配、私は頼んだ覚えはないぞ…!!)

 背後でくすくす笑う惣一郎の声が聞こえた。振り返ろうとすると、後ろから項にそっと唇を押し当ててくる。
「一度、こんなことがしてみたかったのじゃ」
「惣一郎様…」
右近の唇から呆れたような溜息が洩れた。
「昼間からあられもない姿を曝すのが…嫌なのか?」
「惣一郎様!」
肩ごしに睨みつけると、惣一郎は薄めの唇の端をあげ、片頬で笑ってみせた。

 確かに…斯様に日の高いうちから、肌を曝すなど冗談ではなかった。さりとて、この状況…。暴れて逃げたのでは惣一郎に大恥をかかす。何とかその気がなくなるように仕向けねば…。

 右近は必死で頭を巡らせた。しかし─。

 着物の袷から早速惣一郎の手が忍びこんできた。乾いた掌が胸をニ、三度撫で回し、中指が胸の突起をひっかいた、
「くっ……」
右近の膝から力が抜け、思わず前屈みになった。

 そのまま続きの間へなだれこむ。半ば強引に夜具の上に押し倒された。絹夜具のひんやりとした肌触りを一瞬心地よいと思う。だが、このまま流されるのはあまりに口惜しい。

 「斯様な手配…店のものに頼んだ覚えはござりませぬ」
「さもあろう…、身供が仙之丞に申し付けた」
右近の身体の上に乗り上げ、惣一郎が口元を綻ばせた。

 せ、仙之丞め、余計なことを…。

 「惣一郎様…、お戯れもいい加減になされませ!」
「たまにはこうして外で逢瀬を楽しむのもよいではないか…」
「せっかく桟敷席を都合いたしましたのに…。次の幕はどうなされるのです」
「なに、大切の『一力茶屋』には十分間に合う…案ずることはない」
いいながら、惣一郎は右近の着物の袷を両側から大きくくつろげた。右近は悔しげに唇をかんだが、所詮、主に逆らえはしない。

 右近は観念したように身体の力を抜いた。それでもぷいと横を向き、憎まれ口のひとつもたたきたくなる。

 「まだ陽が高うござります…」
惣一郎の手が右近の袴の紐にかかった。
「案ずるな。茶屋の者は何もかも心得ておる。しばらく放っておいてくれようぞ」
「左様な問題ではござりませぬ」

 いつの間に紐の解き方を覚えたのか。
袴の紐をすんなりとほどき、自信を深めた?惣一郎は、嬉々として小袖や襦袢も脱がせていった。右近を下帯一枚の姿にすると、自分も着物を脱ぎ、右近の隣に横たわった。惣一郎が脱ぎ捨てた着物から、薫きしめた香が仄かに漂った。

 「…このような時刻から…なんと恥知らずな」
天井を睨みながら、大袈裟に溜息をついて見せた。
片肘をついて見おろす惣一郎が、唇の端で笑った。
「うるさい口じゃのう…。そなたこそ、不粋なことを申すな…」

 ゆっくりと惣一郎が右近の上に覆い被さった。柔らかく口を吸われる。歯列を割って入って来る舌を、右近は渋々迎え入れた。もはや逆らうのも詮無き事に思え、口腔を舌でまさぐられる快感にしばし身をまかせた。


 惣一郎を嫌いではない…。

 しかし、愛してもいない。

 だが、愛してもいない相手に、何故斯様なことを許すのだ?

 惣一郎様が主だから、主に求められれば逆らえないからか?

 それは…言い訳であろう。

 触れられれば応えてしまう。

 肌をまさぐられ、粘膜を擦られる快感だけではない。

 身の内からわき起こる甘く切ない疼きを、一体どう説明すればよいのだろう…。

 そう…今もこのように。

 
 「あっ…」
下帯の中に入ってきた惣一郎の右手に、袋ごと強く握りこまれた。
「よそ事を考えるでない…」
惣一郎はたしなめるように言うと、今度はやんわりと揉みしだき始めた。
「んっ…ううっ…」
さすがに隣の座敷が気になり、右近は懸命に声を堪えた。
「堪えずともよい。他の客はもう芝居小屋に戻った頃だ…。隣には誰もおらぬ」
言われてみればそうであった。
さりとて、声を洩らすのは不本意なことにかわりはない。

 惣一郎は下帯の下で巧みに手を動かしながら、右近の胸の突起を口に含んだ。唇で軽く挟んだり、吸ったり、もどかしいような触れ方に、右近の内部にどんどん熱が籠っていく。

 伽を命じられ、仕える─。それだけのことではないか?

 そう言い切れれば楽だった。

 惣一郎が己の快楽のみ追求してくれれば、言い訳はたった。たとえ、どんなに心が乾いていこうとも。

 しかし─。

 「……んっ」
触れてくる唇は羽毛のように優しく、乾いた大きな掌は、愛おしむように右近の肌の上をさまよった。惣一郎の唇は時に胸の飾りを離れ、薄く筋肉のついた右近の胸板や脇腹をくまなく愛撫した。強く吸ってみたり、甘がみしたり、憎らしいほどの変化をつけて右近を翻弄した。

 息が上がっていくのを止められない。

 皮膚の下、叫びだしたいような疼きが全身を駆け巡った。


 こんな触れ方は狡い…。

 躯だけでなく、心まで切なくなってしまう…。

 貴男を愛してなどいない。それを承知のくせに、何故こんなにも優しく触れてくるのです?


 「何が…悲しいのだ、右近?」
「あ…」
気がつけば、目尻に涙が滲んでいた。
「身供に抱かれるのが…それほど嫌なのか?」
「そ、それは…」
嫌ではない。しかし言葉にして認めるわけにもいかず、右近は困惑して睫を伏せた。

 瞼を閉じていても惣一郎の視線が感じられる。熱っぽさと諦めの入り交じった瞳の色。

 「…すまぬ。余計なことを申した…」
惣一郎は右近の耳朶に触れんばかりに囁くと、再び右近の躯の上に乗り上げて唇を重ねた。

 口を吸い合いながら、惣一郎はお互いの昂りを摺り合わせるように腰を使った。声を出せぬ分、右近の内部で熱が行き場を求めて荒れ狂う。たまらず惣一郎の背に縋りつくと、きつく舌を吸われた。ゆっくりとお互いを高めていくような動きに、右近の思考も朦朧ととけてゆく。


 惣一郎は…これで満足なのだろうか?
 
 確かに…肌を合わせている間は、自分は惣一郎のものだ。

 閨で執拗なまでに責められる夜も、今、この瞬間ように、泣きたくなるほど優しく愛撫される時も─。

 わかっているのだ…。躯だけでなく、真摯に心まで求められている。

 ここまで真直ぐに求められて、嬉しくないわけがない。

 昔は誰に言い寄られても、情けを返すなど考えてみなかったが、惣一郎は違う。

 できるなら、惣一郎の想いに応えたいと思う…。

 好きになれたら…。

 惣一郎を好きになれたら…。




 顔見世が終われば、聖堂の素読吟味、七五三…、江戸の師走はもう近い。またひとつこの地で歳を重ねてゆくのか…。国許での日々が、煌めくような少年の日が、遠く懐かしい思い出になっていく。

 江戸に留まり、時代のうねりをこの目で見届ける…。そういう生き方も面白いかもしれぬ。

 ふと目を上げれば、動きを中断した惣一郎が、蕩けるような眼差しで見おろしていた。右近はしばし無言で見つめ返した後、惣一郎の肩をしなやかに引き寄せた。倒れ込んでくる惣一郎の温もりに、懐かしいような安心感を覚えた。

 表通りのさざめきを遠くに聞きながら、右近もつかの間の情事に我を忘れた。


おわり



 

 
書庫目次番外編目次


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