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春の彼岸も過ぎ、桜の蕾みも膨らみ始めたある朝。
都内のとあるマンションに住う主婦・結城右近は、陽光差し込むベランダで、いそいそと洗濯物を干していた。
ガーデンテーブルの上におかれた、咲き始めた黄花のマーガレットが、無機質なベランダに春らしい装いを添えていた。
右近の夫、惣一郎は三十一歳、某私立大の国際政治学の助教授である。
米国・ワシントンDCのJ・ホプキンス大・国際関係大学院に招かれ、来年秋からの渡米が決まっている。今年の始めから、すでに準備や何やらで、頻繁に日本と米国の間を行き来していた。
近所でも評判の美人妻の右近は、惣一郎より六つ年下の二十五歳。
さらさらの黒髪に切れ長の濡れたような瞳は、一度見たら忘れられない。
右近は学生時代、惣一郎のゼミの生徒で、その頃から右近に夢中だった惣一郎に乞われて、就職せずに大学院に残った。右近も研究者として将来を嘱望されていたが、惣一郎の怒濤のアタックに口説き落とされ、まさかの結婚。あっけなく寿退職して周囲を唖然とさせた。
現在、主婦業もかねて、自宅で惣一郎の助手のような仕事もしており、自分でも時々論文を書いて内外の専門誌に寄稿していた。
惣一郎は二週間の渡米を終え、今夜帰国する。
ふと手を止めて、食事のことを考えた。
(食事は機内で済ませているだろうから…、好きなワインに何か軽いつまみでも用意しておこう…)
十年にひとりの逸材と呼ばれた頭脳を駆使し、速攻でメニューを決め、よし、完璧とほくそ笑む。
再び洗濯物を干しつつ、
(ううっ…多分今夜はしつこいだろうな…)
柔軟剤でふかふかにしたバスローブに顔を埋め、右近は微かに頬を赤らめていた。
*
「オーライ、オーライ……」
ぶー、ぶー、という音と威勢のいいかけ声に、ベランダから下をのぞいてみれば、大型の引っ越しトラックが、丁度マンションの前に停車するところだった。
(ああ、またか…)
三月は引っ越しシーズンである。
今月に入ってからもう3件目であった。
右近はさして興味も引かれず、ブリーフの皺をぴしぴしと伸ばし、黙々と洗濯物を干していく。
丁度、最後の靴下を吊るし終ったところで、玄関のチャイムがなった。
(何だ、朝の忙しい時間帯に。不調法ものめ)
まだアイロンかけが残っているのに、と憮然とした表情で右近は玄関のドアをあけた。
「はい…?」
目の前にシロネコカブトの作業着を着た若者が2名。
帽子をとってさわやかに挨拶した。
「あ、どーも、おはようございます。あ、これから隣、荷物入れますんで、ちょっとうるさいっすけど…」
何?
隣なのか?
そう言えば、空家になって半年以上たってるが、今日引っ越してくるなんて聞いてないぞ…。
荷物が先に来て、挨拶なしというのも多少勘に触ったが、まあ、そんなことで怒ってみてもはじまらない。
右近は愛想笑いを浮かべて、
「そうですか…ご丁寧にどうも」
一応挨拶だけ返すと、さっさとドアを閉めて居間へ戻った。
午前中いっぱい、どしどし、がたがた、と隣からは振動音が伝わってきたが、昼時、ようやく一段落したらしく、ふたたび静けさが戻ってきた。
多少うるさかったものの、予定の家事をこなした右近は、なめこの味噌汁に、あじの干物とじゃこのおろし和えで昼食を済ませると、惣一郎を迎えるための買い物に出かけた。
惣一郎と右近の部屋は最上階の10階。
惣一郎の主張により、防音付きの角部屋である。
エレベーターで下まで降りた時、丁度、若い男の二人連れが、近所のホームセンターの袋を抱えて、エントランスへと入ってきた。
「ねえねえ、先生、今晩何が食べたい!? ハンバーグ?それとも生姜焼き?」
甘えるように弾んだ少年の声に、右近は思わず足が止まった。
郵便受けをチェックするふりをして、二人の会話に耳をすませる。
「信明、今日は片付けもまだたくさん残ってるし…外に食べに出ないか?」
腰にくるようなバリトンに、右近の心臓がどきんと跳ねた。
(この声は…、この声は…?!)
膝が震えだしていた。
200年以上たっても忘れるはずがない。
『右近…』
背中から抱きしめるような『親友』の声が、頭の中で鳴り響いていた…。
*
右近は生まれつき霊感が異常に強く、自分の前世をはっきりと覚えていた。
惣一郎は全く知るよしもないが、二人は江戸時代、某藩の若殿と側用人という間柄だった。そして、当然?枕を交わした仲でもあった…。
こんなことを話せば、惣一郎は狂喜乱舞するので、右近は口がさけても言うまいと心に決めている。強引に押し切られて入籍してしまった今生は、まさに前世の焼き直しといった人生なのだ。
そして、今、偶然隣に越してきた青年…。
何と言う運命のいたずらか。(…さむいぞ!)
恋い焦がれてついに叶わなかった、初恋の相手の声に、青年の声は酷似していた。
*
「えー、だって、記念すべき新居第一日目だよ〜。先生の好きなものいっぱい作って、部屋でゆっくりしようと思ったのに…」
微かな艶を含んだ声で、拗ねたように抗議する少年に、
「わかったわかった…。おまえは言い出したら聞かないからな…」
愛しくてたまらないという声で、青年が苦笑した。
(ああ…ああ!この笑い方も…!!)
振り返るのが恐ろしかった…。
(本当に…おまえなのか?)
でも確かめないわけにはいかない…。
胸の鼓動が極限まで高まり、郵便受けの鍵にかかった右近の指が震えた。
「あ、1001号室…、お隣ですね?」
いきなり背後、それも至近距離から話しかけられ、右近の全身に緊張が走った。
恐る恐る、肩ごしにゆっくりと振り返る。
青年は、200年前と変わらぬ、清清しい笑みを浮かべて言った。
「こんにちは。今度、お隣の1002に越してきました、溝口誠司です」
「…結城…右近です」
声が…かすれる。
自分の名前を答えるのが精一杯だった。
目の前の姿は、現か、幻か?
(父親譲りの一文字眉も、鳶色がかった眸も……何より、この魂のオーラが……。ああ、間違いなく誠之進だ!)
胸が苦しい。
鼻の奥が熱くなり、視界がぼやけてきた。
また…会えた。
また会えたのだな…誠之進!
「げっ、こいつ泣いてるよ…」
「信明、よしなさい。…あの、どうかされましたか?」
心配そうに相手の眸の奥をのぞく仕種に、200年前の時間が走馬灯のように蘇った。
『いかがした、右近…どこか痛むのか?』
『今度右近に妙なことをしたら、ただでは済まさぬゆえ覚悟しろ!』
『…そなたの身は私と父上で守る…ひとり勝手に危ない橋を渡るでないぞ…』
とめどもなく涙が溢れ、右近は誠司に縋り付いてしまいそうだった。
しかし…。
誠司の後ろから、自分を見つめる鋭い視線を感じた。
今生でもいるのか…。
あの憎らしいおまけが。
この魂核パターンは…間違いない。
今もああやって、警戒心もあらわに私のことを見ている…。
くそお…三郎信尭め。
またしても私の邪魔をするか…。
右近は大きく深呼吸すると、理性と意志の力を総動員して、ハンカチをポケットから取り出した。
「…すみません、見苦しいところをおみせしました」
「いいえ…それより、大丈夫ですか?目が真っ赤ですよ?」
「はい…花粉症なもので。この時期はいつも…」
「ああ…それはお気の毒に」
説得力があったのか、誠司は心底気の毒そうに頷いた。
「片付けが一段落したら、また改めて御挨拶に伺います」
「ええ。何かいるものがあったら遠慮なくおっしゃってください」
「ありがとうございます…では」
右近は誠司とあたりさわりのない言葉を交わし、エレベーターに乗り込んでいく二人を見送った。
まるで新婚夫婦のようにマンションに越してきた二人。
やはりそうなのだな…。
あの甘々ぶり…どうみても兄弟には見えぬ。
それに三郎め、『先生』とか何とか呼んでおったな。
ということは…誠之進のやつ!
またしても自分が慈しんで育てたものを、毒牙にかけおったか…?!
郵便受けの前でふるふると拳を震わせる右近を、住人が不審そうに見て通り過ぎた。
(ここでこうしていても始まらぬな…)
右近は気を取り直し、車のキーを手に駐車場へと向かった。
心は千々に乱れながらも、惣一郎のための買い物をするべく、隣町のグルメスーパーへと愛車を走らせた。
第一回おわり
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