第二回
「下弦の月」in 199×




by 戸田采女

「ちっ。海鮮丼のほうが絶対よかったのに…」

 木曜の夜である。
毎週見ている『料理のどっちショー』。今夜は海鮮丼vsロースカツ丼だった。氷見の鰤がゴールデンポークに負けたことで、右近は少々おかんむりだった。

 画面の中、すごすごと撤収する関口某を見届けると、右近はリモコンでテレビを消し、ソファから立ち上がってベランダに出た。

 春とはいえまだ三月。夜風は肌寒い。手すりに取り付けた、ハンギングバスケットのロベリアの様子を見る。ちょっと早く植え過ぎたかな、と少し心配になったりする。中へ取り込もうかどうか迷っていると、ふと隣から楽しそうな笑い声が聞こえた。

 半年ぶりに灯った隣の灯りが、ベランダの境目越しに洩れてくる。

 (片付けはあらかた終ったのかな…)

 昼間の二人の様子が目に浮ぶ。ベランダにはかすかにショウガ焼きの匂いが残っていた。

 (やはり…外へは食べに出なかったのだな。またもや三郎のいいなりか…相変わらずだな、誠之進)

 右近は微苦笑を浮かべると、ベランダの手すりにもたれて外を眺めた。

 9時前に惣一郎から電話があった。そろそろこちらに着く頃だろう。ワインも冷えているし、つまみもばっちり用意した。

 (早く帰ってこい…バカ)

 道路を見おろしてぽつりと呟く。何だか妙に人恋しい夜だった。誰かが側にいないと、隣のことばかり気になってしまう。今だってこうして惣一郎を待ちながら、その実、しっかり隣からの物音に聞き耳をたてている。

 (かなり…情けないかもしれん)

 自己嫌悪に陥りかけたところ、マンションの前の道にタクシーが滑り込んできた。

 「惣一郎!」

 見なれた長身がタクシーから降り立つ。運転手がトランクを開けてスーツケースを手渡した。再び滑るように車が去っていくと、惣一郎が下から最上階を見上げる。ベランダで待つ愛妻の姿を見つけ、嬉しそうに手を振った。




 ドアフォンが鳴る。
ほとんど間をおかずに右近が中から開けると、惣一郎がスーツケースを引きずって中へ入った。
「おかえ…」

 皆まで言い終わらぬうちに、ツイードのスーツの胸に抱き込まれる。ふわりとエゴイストの香りが漂った。言わずと知れた「ただいまのキス」をかますつもりである。右近ももう慣れたもので、すっぽりと惣一郎の腕の中に収まって、キスを受けようとしたが、惣一郎の襟元に目が止まった途端、
「あー!」

 らしくない大声を上げた右近を、惣一郎がお預けをくらった犬のような目で見る。

 絶対零度の冷ややか〜な声音で、
「…何、これ?」

 惣一郎の襟元に、巨大な蝶ネクタイが鎮座していた。しかも大柄なチェックである。
漆黒の瞳に思いきり侮蔑を滲ませて、
「…趣味悪すぎ」
右近はすんなりとした指先で、惣一郎の肩をぽんと突く。さらりと身をかわし、すたすたキッチンへと戻っていった。

 「そ、そんなに…いけてない?」

 哀れ惣一郎。 

 『ううっ、ペースメーカーの調子が…っ』
  と、心臓病を装って、空港でタクシーの列に割り込みまでしたのに。
右近のために怪しいお土産もいっぱい買ってきたのに。

 ただいまのキスもさせてもらえず、玄関で靴の紐も解かぬまま、しばし呆然と立ち尽くした。




 (どうもメリケンは好きになれん。あの軽々しいところが、趣味に合わん)

 右近はイーストコーストのインテリ風蝶ネクタイが大嫌いだった。多分、J・ボブキンス大の教授連があんな格好をしているのだろう。早速、染まってきた惣一郎に呆れてものも言えない。

 趣味のいいツイードの上着を着こなしながら、どうしてあんなちんどん屋のようなネクタイをつけられるのか? 神経がわからない。

 ああ、どうせなら招聘先がイギリスかイタリアならよかったのに…と右近は溜息をつく。

 残念ながら、惣一郎の専門はアメリカの危機管理だから、ヨーロッパからお呼びがかかるわけはない。元々マキャベリやジョン・ロックの古典的政治学に興味のあった右近は、いつか欧州に留学したいという夢があった。

 (そもそも、惣一郎のゼミに入ったのが運の尽きだったわけか…。なんであんな選択をしたかなあ…)

 右近はシンクの前で、排水溝の底まで届きそうな深い深い溜息をついた。




 一方、すごすごと靴を脱ぎ、諸悪の根源である蝶ネクタイを外した惣一郎。時差ボケをもろともせず、二週間ぶりの甘い夜を期待して速攻で帰ってきたのに…。

 しょぼくれた大型犬のような気分だったが、このまま玄関で尻尾を巻いてうずくまっているわけにもいかない。とりあえず洗面所で顔を洗ってしゃっきりした。

 なかなか振り向いてくれなかった右近を、やっとの思いで口説き落とした。右近は生徒だったがセクハラをした覚えはない。まっとうに、辛抱強くアプローチしたつもりだ。

 昨年の秋結婚してからはや半年。妻としては大変ゆき届いた、よく尽してくれる良妻だが、本当に自分が愛されているのかどうか、心もとなくなる時がある。ふとした拍子に、妙に冷たくあしらわれることがある。

 しかし─。

 そんな気弱なことを言っていては右近とは付き合えない。惣一郎の辞書に『退却』という言葉はなかった。

 一度寝室によって上着を脱ぐと、再び気合いを入れて右近のいるキッチンへと向かった。




 ドアを開けてリビングに入ると、ダイニングテーブルの上には既にワインとつまみが用意されていた。鯛の中華風刺身によく冷えたシャブリ。ベトナム風春巻きも少し添えてあった。遅い時間に食べても胃にもたれないメニューだ。

 『ダーリンお帰りなさい』なんてカードはなかったが、白い花を中心とした爽やかなアレンジメントが中央に飾ってある。

 (こ、こりは…結構愛されているかもしれん…)

 頬が弛んでどうしようもなかった。妻の気配りにじーんと胸に手をあてる惣一郎であった。

 右近が栓抜きを持ってこちらにやってくると、早速嬉しげな声を上げた。
「おっ。このさっぱり加減がいいね。アメリカの食事にはちょっと食傷気味だったからな」
「風呂も用意できてるけど。どっちを先にする?」
「先に料理をいただくよ」
右近は薄く笑うと、テーブルの脇に立ったまま、ワインの栓を抜いて二人分のグラスを満たした。

 グラスを目の高さに掲げてから、かちんと触れあわせた。
「おかえり…」
「ただいま…」

 やっと右近が惣一郎の目を見て微笑んだ。桜花のような透き通る笑顔。惣一郎の愛してやまない顔だった。

 (うう、先に食べたいのはこっちなんだが…!)

 心臓と下半身を直撃された惣一郎だったが、

 (しかしここでがっついては、今度こそ臍を曲げてしまうからな…)

 はやる心を押さえて、ワインをこぼさぬように注意しながら、あっさりと軽く唇を触れあわせた。




 あの蝶ネクタイはいただけなかったが、やはり惣一郎といるのは楽しい。気がつけば、大学や今度住むアパートの様子を面白おかしく語る惣一郎の話術に、つい引き込まれていた。

 今生の惣一郎も昔と良く似た優男的美男子だ。スポーツはやらないが、ジムには通っているので三十過ぎても腹は出ていない。一応学者だから、前よりも頭はいいかもしれない。サービス精神旺盛なので、学者にならなかったら、一流クラブのホストでも勤まりそうな気がする。上質のスーツやコロンが嫌味なほど似合う男だった。

 大学からもらう給料は対した額ではなかったが、「国際政治学者」としてマスコミにも結構出ているため、講演やら執筆活動やらで雑所得は多い。確定申告は右近の担当だが、何といっても元勘定吟味役。そんな仕事はお手のものだった。

 結婚して半年。色んな意味で夫婦としての相性は悪くない。
多分…自分は幸せな妻なのだと思う。
 

 あらかたつまみも平らげ、ワインも終りかけた頃、
「そういえば右近、隣、電気ついてたけど、誰か越してきたのか?」
「う、うん」
どきりと鳴った心臓に右近はうろたえた。

 何も焦ることはないのだが、つい声が上ずってしまった。惣一郎には誠司や信明の正体などわからない。前世の因縁など、自分さえ口をつぐんでいれば、惣一郎に知られることはない。

 そもそも、何もうしろめたいことなどないのに─。

 右近は一口ワインを含むと、できるだけ淡々と語ろうとした。

 「そう。今日入居したんだ。昼間会ったけど、感じのいい人たちだった」
「そうか。それはよかったな」
「あっちも男二人なんだ。社会人と高校生くらいかな」
「え? お隣もホモの夫婦かい?」
「…夫婦かどうかは知らないけど。多分カップルだろう」
今さらのようだが、言葉にすると、やはり胸がちりっと灼けた。
「…なに、高校生の奥さんか?」
惣一郎の声が、弾んだような気がした。
「…若くて羨ましい、とか言うなよ」
冷ややかな眼差しで特大の五寸釘を指してやると、惣一郎は首と両手をぶんぶんと横に振った。

 「…しかし残念だな。せっかくホモの夫婦同士ご近所になれたのに、こちらは9月で引っ越しだ」
「ああ…」

 そうなのだ。200余年ぶりの邂逅なのに、たった数カ月しか側にいられない。

 「短い間でも仲良くせねばな。私も明日にでも御挨拶しておこう…」
「そうだね」

 何のかんの言っても惣一郎は人が良い。『ホモの夫婦』と連呼しながら、同類が隣へ越してきたのが嬉しくてたまらないようだ。週末に食事に呼んでは、などと脳天気なことをいっている。

 昔もそうだったね…。右近は微苦笑を浮かべる。
心の中に蛇を飼っていた自分とは違い、惣一郎は他人に対して悪意を抱いたことなどなかったろう。

 (そういうところ…好きかも)

 右近は愛する夫を見つめて、柔らかく目元を和ませた。




 さて、ワインも空になったし、そろそろ…片付けようかと右近が腰をあげた。手際よく洗いものを始めると、惣一郎が後ろからふわりと腕を回してきた。項に息がかかり、惣一郎の唇がしっとりと押し当てられた。

 「…片付けは…明日でいいよ」
シャツの上から胸をまさぐられ、右近ははっと息を詰めた。
「すぐ終るから…」
「頼むよ…もう待てない…」
ボタンを外して惣一郎の手がシャツの中に入ってきた。
情けないが、やはり二週間ぶりの愛撫に右近も反応してしまう。すぐに息があがってくる。

 だが、まさかシンクの前で犯られてはかなわない。
「わかったから、ちょっと待って! シャワー浴びて来る…」

 後ろで惣一郎がにんまりと笑う気配がした。
「じゃあ、一緒に」

 墓穴を掘ったかもしれない。

 バスルムに拉致されながら、右近は激しく後悔した。



 翌朝、めずらしく疲れから寝坊した。

 目覚めた時には惣一郎の姿はなく、時計の針は9時を回っていた。

 身体の芯に力が戻らない。それでも、だらだらとベッドの中にいるのも嫌で、右近は大儀そうに身を起こした。床におちていたバスローブを羽織って、リビングへと向かおうとした。

 「あっ…」
足下の何かを蹴飛ばしたようだ。物体がころころと絨毯の上を転がった。
「ん?」
ドリンク剤の小壜のようなものを拾い上げる。

 (───。)

 右近は眉をしかめた。
こんなものを飲んでまで、ニラウンド目がやりたいか─。

 (み、見なかったことにしよう…)

 右近は再び壜をベッドの下に転がすと、何くわぬ顔で寝室を出ていった。




 夕べの洗いものは見事に片付いていた。こういうところ、惣一郎は西洋人の旦那並みに卒がない。

 テーブルの上にはメモが残っていた。

 『6時には帰る。晩御飯よろぴく・』

 国際政治学者が「よろぴく」はないだろうと呆れながらも、ちょっと夕べのことを思いだして赤くなったりする。右近は珈琲メーカーをセットして、カーテンを開けるべく窓辺に歩み寄った。

 やわらかく差し込む陽光に目を細めて、うーんと伸びをする。窓を開ければ暖かい風が頬をかすめていった。桜の季節が近いことを感じさせる春風だった。

 つい、隣との境目に目がいってしまう。これは習慣になってしまいそうだな、と右近は苦笑した。

 今日は金曜。もちろん隣はとっくに出勤しており、物音ひとつしなかった。隙間から風に揺れる洗濯ものがちらりと見えた。

 シャツやジーパンに混じって、柄物のトランクスが見えた。何となくサイズの異なる色違いが並んでいるよな気がする。

 仕切りの側まで近付いて、隙間から目を凝らしてみる。

 「…むむっ。しわも伸ばさずに適当に吊っている…何とずぼらな」


 朝が忙しいからといって…。三郎のやつ、なってないな!

 おまえ、一応世間では「健気受け」で売っているのであろう?

 健気受けならば、もっと丁寧に心をこめて洗濯ものを干したらどうだ。

 いや、も、もしや…誠之進に洗濯をさせているのか?

 だとしたら、許さぬぞ!



 トランクス一枚から右近の妄想は果てしなく広がった。


 ふん、三郎め。子供のくせにいっちょまえに柄物のパンツなどはきおって。

 おまえなど、アンパンマンの絵のついた白パンツで十分だ!

 誠之進とお揃いのトランクスなど十年早いわ!



 気がつけば、ふるふると拳を握りしめていた。

 右近と惣一郎はブリーフ派である。誠司(誠之進)たちはどうやらトランクス。どんなパンツを履こうが個人の自由だが、

「昔はきりっと六尺を締めていたくせに…随分とだらけたものだな」

 遠い昔、一緒に水練をした越後の海。
夏の太陽のもと、下帯ひとつの誠之進の後ろ姿が脳裡に浮ぶ。

 広い背中、引き締まった腰、長い脚。陽に灼けた滑らかな肌を水滴が伝う…。

 ああ、今の時代なら下着のモデルにぴったり…。やっぱり誠之進はトランクスより黒ビキニだろう。ポスターが貼ってあったら、速ゲットだな。

 200年前の海に思いを馳せ、右近はうっとりと目を閉じた。


第二回おわり




あとがき:時代物を書くにあたって、ネットで調べましたよ、褌。タイプと締め方などなど。「越中」ってのは略式で、前にぴらっと布切れが下がっているようなタイプです。六尺はしっかり巻き巻きして締めます。お店の人が、越中はトランクスの楽ちんさ、六尺はブリーフのフィット感てなことを書いておられました。とってもためになるサイトだったんだけど、まさかここからリンク貼れませんわね(苦笑)…ちなみにバスルームをのぞきたい人は裏へgo! (文中の隠しリンクか、書庫「下弦の月」目次の裏・総合入口よりどうぞ)


イラストは『薫風館』さんからお借りしています。



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