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桜の季節とともに世間では新学期が始った。
この界隈でも街のあちこちに、真新しい制服を身につけた、初々しい学生の姿がみかけられる。その一方で、夕方ともなれば、だらしなく制服を着崩し、コンビニ周辺でたむろしている男子学生や、遊女(あそびめ)のような化粧をした女子学生も少なくない。
右近の前世は武士である。当サイトの離れ「菊花亭」にて、あんな姿やこんな姿も曝しているが、基本的にはストイックな葉隠武士である。服装の乱れは心の乱れとばかりに、そういう集団をみかけると眉をしかめて通りすぎた。十七、八といえば昔なら元服し、お役目にもついた年頃である。自分も前生では十八で江戸詰めを命じられた。
もっとも彼らが他人に悪さをしない限りは、いちいち注意するほどの熱血でもない。だが、やはりだらしのないのは美しくない。要は美意識の問題である。
昔なら、ああいう連中は道場で性根を叩き直してやったものを、と軽い溜息をつく。
世の中が便利に、自由になったのはよいことだ。が、この二百余年で失われた美徳も少なくない。特に大都市の状況は悲惨だ。今や絶滅危惧種となった明治生まれの年寄りより、さらに遠い昔を憶えている右近には、時々、失われた日本の原風景や、封建的ではあったが礼節を重んじる社会が恋しくなることがあった。
惣一郎は何というかわからないが、年をとったら田舎で晴耕雨読の生活も悪くない…。
右近の密かな望みである。
右近は東京生まれ。父親が大学受験で上京し、卒業後、国税局に勤めて都内に居を定めた。右近の家族はずっと公団住宅住まいで、あまり贅沢をした記憶はない。小学校から高校まで公立に通い、当然大学受験も国立狙いだったが、センター試験の朝、道で倒れた年寄りを介抱していて試験に遅れた。
結局第一志望のH大には入れず、浪人する余裕がなかったため、某私大に滑りこんだ。成績優秀だったため、奨学金は簡単におりた。そこで出会ったのが今の夫、惣一郎である。
惣一郎の実家は成城。結城家は維新後、男爵に叙せられ戦前までは華族のはしくれだった。父親は有名な画商で、惣一郎の家は成金ではないものの、絵に描いたようなバブリーな家風だ。バブルがはじけても相変わらずである。こういっては何だが、その割りには子供たちのできはよく、惣一郎は一応国際政治学者、妹は音大卒業後、都内の某プロオケのヴァイオリン奏者として活躍している。
現在二人の暮らすマンションは、元柳沢吉保邸・六義園の近くだ。少し先には元幕府御薬園の小石川植物園もある。都会の喧噪のなか、江戸時代の風情を僅かに残す景観は、右近の心のオアシスでもあった。
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新学期といえば、隣の三郎、いや信明も、毎朝早い時間に登校していく。誠司より早く出かける日もあるようだ。聞く所によると、オーケストラ部に入っているそうだ。五月の連休あけにコンクールを控え、四月は朝練があるらしい。
楽器はトランペット。時おりミュートをつけたラッパの音が、隣から洩れ聞こえてきていた。いっちょうまえに、「タンホイザー」の序曲なんかを練習している。まあまあ聞ける演奏だ。音色も悪くない。
この春で高三だそうだな…。部活なんかやってて大丈夫なのか?
進路はどうするのだろう、音大でも目指しているのだろうか? 弦ももちろんだが、管でプロオケに席を獲得するのは容易なことではないぞ…。一般大学を受けるなら、三年になって呑気に部活やってては駄目だろう? などと「親戚のおにいさん」のごとく心配している。
二百年前、三郎信尭に抱いていた感情との落差に、思わず苦笑してしまう右近だった。
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染井吉野はとっくに終り、重たげに首をふる八重桜も終りに近付いたある日、右近は夕方、商店街に買い物にでかけた。車が止めにくいので、商店街へいくときはいつも徒歩だ。今夜は和食な気分だな、ということで、馴染みの豆腐屋と八百屋に足を向ける。
商店街の中ほどにある、池田豆腐店。
老夫婦ふたりで細々とやっている店だが、ここの生湯葉は絶品で、「料理のどっちショー」でも取り上げられたことがある。
(孫作…、今日も精が出るな)
前掛けをかけて店先で立ち働く老人に、右近はにっこり笑いかけた。
「あ、結城先生の奥さん、いつもありがとうございます…」
豆腐屋の主人は薄くなった頭に満面の笑みで、深々と頭をさげた。
「今日は、あれ、まだ残ってる?」
「はい、金曜なんで、何となくお見えになるような気がして…。少し奥さんの分、とっときましたよ」
「ありがとう、助かるな」
阿吽の呼吸というか、不思議な信頼関係が二人の間にはあった。
それもそのはず、ここのご主人・池田良雄氏は、江戸時代の右近の爺や、池田孫作の子孫である。もちろん、良雄氏はご先祖と右近の縁など知る由もない。町内でも有名な美人の奥さんに贔屓にしてもらい、年がいもなく単純に喜んでいるだけである。
首尾よく生湯葉をゲットした右近は、その足で八百屋に向かった。平岡青果店。
「あ、右近さん!いらっしゃい!」
明るく威勢のいいニ代目・平岡健太は、婦女に人気のあるいわゆる「ジャニ系」の顔だ。近所のおばさんたちにも異様に受けがいい。顔もかわいらしいが、とにかくこの青年はサービス精神が旺盛で、気がまわる。商売をやるにはもってこいの性格だった。
(さすがもと小姓。気ばたらきのできるよい息子だ…)
親御さんもさぞ頼もしいことだろうと、目を細める右近。
目当てのわらびやたらの芽の他、よさげな大根や南瓜を見つけてつい手にとってしまった。まだこれから他の買い物もあるし、ちょっと重たいかも…。
「右近さん、後で届けてあげますよ! 6時までにうかがえば夕飯のしたくに間に合いますよね?!」
右近の表情を呼んだ健太が嬉々として申し出た。
「あ、でもまだ店もあるし…悪いよ…」
「平気平気、自転車で一走りですから!」
「…そうかい?忙しいところ悪いね…」
仙之丞にも昔こうしてよく世話になったっけ…。右近は健太の先祖、惣一郎の小姓をつとめ、晩年の右近と暮らした平岡仙之丞をしみじみと思いだしていた。
やはり強い因縁で結ばれているのか…。
右近が結婚後に居を構えたこの町内には、昔なじみがたくさん集っていた。
右近が八百屋の店先でしみじみしていると、奥から主人が出てきた。健太(仙之丞)の父親だ。
「奥さん! ついでにこの自然薯もどうだい?」
もう五十に手が届くはずだが、ここの主人も万年青年のような童顔だ。手に立派に曲がりくねった山芋を持っている。栽培している「長芋」とは見た目もひと味違う。
麦とろやお好み焼きに入れても美味しそうだった。ちょっと食指が動いたが、
「こいつは、粘り具合も最高だよ!結城先生もこれで元気びんびん…」
ぐっと言葉につまる右近を前に、主人は真顔で声を落して続けた。
「…こないだ見たんだよ。そこの薬局で、真剣な顔でこう、両手にドリンク剤を持ってさ…『じっと手をみる』って感じだったよ。スッポンかマムシかで、随分長い時間悩んでらしたよ」
(最…悪。 頼むから近所でそんなことしてくれるなよ…)
思わず顔をしかめて黙り込んだ右近を、ご主人は気の毒そうに見て、
「先生もほら、テレビとかひっぱりだこでお忙しいし、四十ちかくなると、そろそろあっちのほうが不安なんだね…。わかるなあ…」(惣一郎の年については、ご主人、誤解しとります)
「おやじ!」
健太が大声をあげて遮ったが、
「じゃ、じゃあ健太くん、配達よろしくね。…山芋は…また今度にするわ」
右近はふたりの顔を直視できず、小声で呟くと店を後にした。
「大きなお世話なんだよ!…ったくっ!」
背後で健太が父親をばこっと叩く音がした。
*
最後にメインの鯛飯の桜鯛をゲットし、右近はさて帰ろうかと商店街を出口に向かって歩き出した。
アーケードの入口近くの肉屋の店先に、隣の三郎、じゃなくて信明の姿をみとめた。
学校帰りなのか。制服姿で夕飯の買い物をしている。ビニール袋からはみだしたネギと紺のブレザーのミスマッチが、いかにも初々しい。惣一郎あたりが「ほお〜、さすが高校生妻! 新鮮でいいねえ〜!」などと戯れ言を吐きそうである。
通りすがりに声くらいかけていこうと思い、店先に近寄ると、
「信明ちゃん、今日は寄ってかないのかい? 」
肉屋のおかみの明るい声がした。
背は低くて小太り。エプロン、白いソックスにつっかけ、というおばさんを絵に描いたようないでたちだ。おかみは信明に包みを渡し、代金を受け取りながら尋ねた。
「うん、今日は先生が早く帰ってくるから、すぐに夕飯の仕度をしなきゃならないんだ」
「そう…源蔵ももうじき帰ってくるんだけど」
「また今度、先生の帰りの遅い日に遊びにくるって言っといてよ」
「はいはい…。信明ちゃんたら、ほんとに先生のことが好きなのね。なんだかすっかり奥さんみたいだわねえ…」
「お、おばさん!変なこというなよ!」
耳まで紅に染めて、信明がうつむいた。
「あら、あんまりかわいいんでつい…おっほっほ」
おかみは満月のような顔に人の良い笑顔を浮かべていた。
照れくさくなった信明はじゃあと頭を下げて立ち去ろうとした。
「あ、ちょっと待って…」
おかみは慌てて奥へひっこむと、揚げたてのコロッケを二つほど油紙に包んでいる。
「ほら、おやつに食べなさい…」
店先に戻り、包みを信明の手に押し付けるようにして持たせた。
「あ、ありがとう…」
店先で手を振るおかみに見送られ、信明は足早に商店街を出ていった。
結局右近は声をかけそびれてしまったが…。
思わず肉屋の看板を見上げれば─。
『竹之内精肉店』
ああ、なるほど…。あのぽっちゃり親子はお福と源蔵か…。今まで気付かなかったとは…。不覚、と右近はちいさく呟いた。
何となくそこにいるだけで、人の善意を集めてしまう三郎。信明にもやはり同じ血が流れているのだな、と右近は胸の奥でほろ苦さをかみしめていた。
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生湯葉とワラビの煮物と大根サラダはできた。鯛飯はもうすぐ炊ける。鯛のあらで作った潮汁もできた。たらの芽の天麩羅は顔を見てから揚げよう。さっき駅から電話があったから、あと十五分もしないうちに惣一郎が帰ってくるはず。
何となく待ち遠しくてベランダに出てみた。
ついでにテラコッタ鉢で育てた山椒の木から、潮汁におとす木の芽をつむ。
暮れなずむ夕日。
表通りの喧噪をBGMに、マンションのあちこちから夕食のしたくをする音、一家団欒の声が洩れ聞こえてくる。
大通りのほうを眺めれば、ちょうど長身の男性ふたりが、マンション前の道へと曲がってきたところだった。
惣一郎?
もう片方は…、目を凝らして見ると、隣の誠司だった。今では見慣れたスーツ姿のリーマン「誠之進」だ。
右近はベランダの手すりから身を乗り出すようにして、道路を眺めた。
まだ年は聞いてなかったが、あの着こなしからして、まだフレッシュマンか入社二年目くらいだろうか? 大体いつも無難なグレーか紺のスーツに、ネクタイも大人しい色と柄だった。
だが、肩幅が広く下半身すっきりの均整のとれた体型は、いかにも洋服の似合う身体だった。
誠司たちが引っ越してきて間もなく、朝、初めてゴミステーションで出くわしたとき、右近は不覚にもスーツ姿の「誠之進」に見蕩れた。
ごみ袋を二つ両手にさげ、ぼうっと立ち尽くす右近に、誠司はにっこり笑ってカラスよけのネットを持ち上げてくれた。
「あ、すみません…」
小さな声で礼をいいながら、右近の頬は燃えるように熱く、胸は早鐘のように鳴っていた。
着物姿の誠之進も好きだったが、洋服もいけている…。お安い通勤用のスーツといえども、誠司のさわやかな美男子ぶりが損なわれることはない。
十階のベランダから、右近は下を一心に見つめていた。惣一郎が先に気付いて手を上げたところ、
「あ、先生! おかえりなさ〜い!」
隣のベランダから、いかにも嬉しげな、弾んだ声が鳴り響いた。手すりから身を乗り出して声のする方とみやれば、エプロン姿の信明が、「クックD○」のパッケージを振り回して、誠司に手を振っている。
(今夜は青椒肉絲か…。三郎のやつ、ちゃんと中華鍋は振れるのか…?)
上を見上げて、大きく手を振って応える誠司。笑顔が眩しい。
惣一郎が横からちゃちゃを入れたのだろう。誠司が頭をかいて苦笑している…。
右近は唇の端に薄い笑みを浮かべ、そのまま室内へ戻った。硝子戸を閉めて、ふっと溜息をもらす。
幸せなんだな…誠之進。
やっぱりおまえには三郎がふさわしかったのだな…。
何度生まれ変わっても、おまえは三郎を見つけてしまうのか…。
もう恨みになど思わぬ…。三郎のことも憎んではおらぬ。
今生の私は…それなりに幸せなのだ。…二百年前とて、決して不幸な人生ではなかった。
なれど…。
『なれど…』
その先がどう続くのか、右近の胸の中でも言葉が形をなしていなかった。
ドアフォンが鳴った。
ちょうど鯛飯が炊きあがった。
右近はコンロの火を消して、玄関に愛する夫を出迎えに行った。
第三回おわり
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