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普段このバーは、ナッツやチーズ程度のつまみで、酒をじっくりと楽しむ場所だ。無論、帯刀も普通のバーテンの格好だ。だが今日のような客の少ない夜には、頼めば帯刀特製の肴が色々と出てくる。
ガラムマサラのチキンに、あさりのエスニック焼そばなど、お子さまの信明のために、奥で玲二がせっせと作っているようだ。ギムレットを飲み終えた右近には、水割りとスモークサーモンを芯にしたベトナム風春巻きが出ていた。
帯刀も私のグレンリベットを遠慮なく飲み、座が盛り上がってきたところで、それぞれの初恋談義となった。
「じゃあ、もちろん美人妻の右近ちゃんから、どぞっ」
「え〜、私からですか…」
気が進まないような顔で右近は苦笑したが、
「…剣道部の同級生。でも相手は中学ですでに彼女がいましたから。というわけで、告白もせずにさっくり終わってしまいましたっ。以上」
水割りの氷を揺らしながらあっさり言い捨てた。
「え、彼女持ちって…じゃあ相手は男?」
よく考えれば初耳だった。
思わず聞き返した私に、
「うん…。あれ、話したことなかったっけ?」
小首をかしげて微笑む右近だが、私はそんな話、聞いた覚えはなかった。
男を好きになったのは私がはじめてではなかったのか?
それに…さっき一瞬遠い目をしたな。
私の胸の中でざわざわと蠢きはじめるものがあった。
「では次、誠司くん」
帯刀は上機嫌で誠司を指名した。
「お、俺もですかあ…」
「あたりまえだよ。全員ゲロするんだからね」
「え〜」
隅っこの椅子で、誠司が背中を丸めて小さくなっていた。
何やら非常に困っている様子だ。
(ははあ…そうか。隣からの殺人光線が怖いのだな)
信明ががちがちに身構え、まばたきもせずに誠司を見つめていた。
「そうっすねえ…。一番古いところだとやっぱり幼稚園ですか」
「ほう、それで?」
帯刀は誠司のグラスを取り上げ、おかわりを作ってやる。
私のボトルはすっかり空になってしまった。
「玲二、グレンリペットのアーカイヴ持っといで!」
帯刀が奥に向かって声をかけた。
「ごめんね惣ちゃん。フレンチーオークの12年は今切らしてて…」
「いや、それは構わんけど…」
蒸留所の特別な場所で保管されている逸品をアーカイヴと呼んでいる。もちろん厳選された酒だからうまいに決まっているが…。
(今日はがばがば飲むやつが一緒だからなあ…とほほ)
値段もそれなりに立派なのだ。
愛する右近と大事に飲むのはいいが、誠司にボトル一本あけられるのは、ちょっとなあ…と柄にもなくケチ臭いことを考えてしまった。
(ま、仕方ない。ここは包容攻めの器量、誠司くんにみせつけてやろう)
「アーカイヴでいいよ、開けてくれ」
「じゃ」
帯刀は玲二が持ってきた新しいボトルを開け、誠司におかわりを作ってやった。
たん、とグラスを目の前に置き、
「さあ、白状するのよ。その顔と身体で、さぞかし大勢鳴かせてきたんでしょう?」
帯刀が誠司に迫った。
たーちゃん、漢字が違うよと突っ込みたくなったが、もしかしたらこっちの「鳴く」であってるのかも…。と、私もおばさんのように耳をそばだてた。
「大勢って…初恋の話でしょ? 俺なんかかわいいもんですよ」
「でっ?」
「年長組で同じクラスだったさぎりちゃん」
「で、何して遊んだの?」
「お弁当のおかずを交換したり、ひな祭りの劇ではお内裏様とお雛様やりましたっ」
「お内裏様…」
右近がちいさく呟いた。
うっとり宙なぞ見つめるんぢゃない!
「…それだけ?」
不服そうな帯刀に、
「あたりまえでしょう、幼稚園ですから」
悪いか文句あっかと、誠司が胸をはった。
「うまく逃げたね誠司くん…」
私が唇の端で微笑むと、
「うっ…先生」
誠司は壁際にはりつき、誰かに助けを求めるような視線をなげた。
「じゃあ次は誰? 惣一郎?」
右近よ、そんな視線をキャッチするなと、私は憮然として妻を振り返った。
「ほら、そうちゃん! 人生の先輩の含蓄あるはなしを、若い皆さんにお聞かせしなさい♪」
何やら帯刀のテンションが上がっている。
嫌な予感にかられながらも、私も幼稚園でお茶を濁そうとした。
「えっと…じつは私も初恋といえば幼稚園でした」
「ほ、ほらね!きょうび普通はそうでしょう」
誠司が咳き込むように同意した。
帯刀の目がきらりと光った。
「あたし、ちゃんと証拠写真も握ってるのよ!! ちょっと待ってて!」
と、突然カウンターの中から出ると、着物の裾をはしょって二階に駆け上がった。
すね毛丸出しで駆け上がる姿に、皆があぜんとしている間に、帯刀は再び足音荒く階段を降りてきた。
「ほら、どうよ!」
帯刀は色褪せたアルバムを開いて、カウンターの上にどんと置いた。
「おお!」
「わあっ」
「……」
四歳の私がスモックを着て、両隣の女の子にキスしている写真が数枚、おまけに先生の手をとってナイトのごとく口づけているものまで、しっかりと保管されていた。
「なんだ、この『パステルしんちゃん』顔負けな、軟派な園児は…」
右近の白い指先が、写真をとんと叩いた。
「尻出して踊ってないだけ、まだしもだけど」
流し目に睨みあげる右近のきっつい一言に、私は打ちのめされた。
「ひ、ひどい…」
私はほとんど涙目になって呟いた。
「たーちゃん、もう勘弁してくれよ…」
なんだってこんなものを保管してるんだ。おまけに右近に見せるなんて…悪ふざけにもほどがある。帯刀は私に恨みでもあるのかっ?!
「まあまあ、先生、もう一杯いきましょう…」
いつの間にか信明と席をかわった誠司。
何やら嬉しそうに私の肩を叩いた。
「マスター、ほら、おかわり作って」
と、空いた自分と惣一郎のグラスをからからと振った。
こやつ、結構酒がまわってきたのか、すっかりお接待モードになっているではないか。私をどこかの腹の出た政治家かなんかと一緒にするな!
しかし、悪夢にはまだ続きがあった。
帯刀は水割りを軽くステアしながら、
「そうはいってもこの人ね、中学まではまともだったのよ」
「ほう、それは?」
「幼稚園児が女の子にちゅうしてる写真なんて可愛いもんじゃない」
「確かに…チョコレートのCMみたいですね!」
誠司よ、調子のいいことを言うんでない!
だがそこで帯刀が声を潜めた。
「ぢつはね、男の味を知ったのは高校に入ってから。高一のとき、細身で美形の生徒会長をコマしたのを皮きりに、そりゃあもうやりたい放題…」
「た、たーちゃん、その話わっ!」
「やりすぎて脳味噌くさって、一緒にT大受験できなくなったのよ」
「そ、そんなの嘘だ〜!私はダサイT大なんかそもそも行く気はなかったんだぞ!」
「ふんっ…」
帯刀は腕組をして鼻を鳴らした。
誠司と信明がぐっと身を乗り出し、
「マスターっ、それで!」
とふたりで唱和した。
「ところが大学からはまた女のほうへ戻っちゃったわねえ…。ほら、この通り実家は資産家だし、良い男だし、レガッタなんか出場するから、もう群がってきて大変。右近ちゃんの前はね、ほら、K大の後輩でSBSの女子アナの…」
「たーちゃん!!!」
右近の絶対零度の冷ややか〜な視線を首筋に感じた。
「ふううん…先生はそういう『華やか〜な』学生時代を過ごされたんですね。はじめて知りました」
カランと氷を揺らし、右近が抑揚のない声で呟いた。
ち、ちがう!
右近が入学してきて以来、私は早々に身辺整理を行い、ずっと右近ひとすじだったのに…。
私の苦節六年の片思いは全く評価してくれないのか?!
修士課程を終えるまでは手を出すまいと、あれほどまでに苦しんだ日々は…っ。
(「わが愛しのテディベア」)
「うわあ、両刀の上、女子アナが元カノ! さすがは結城先生…やることがド派手でいいですね! で、最後はこんな美人の奥さんゲットして、近所でも評判の愛妻家ぶり…。いいなあ、俺、男として憧れちゃいます!」
ほとんどカウンターに突っ伏した私の背を、誠司がばんばんと叩いた。
(若僧め…ひとのボトルでしこたま飲んで酔っぱらいやがって!)
「ねえねえ、マスターは高校までずっと一緒にいたんでしょ」
「ええ、そうよ」
「マスターは結城先生にコマされなかったの?」
あっけらかんと信明が尋ねた。
どこをどう間違ったらそういう話になるんだ?!
あろうことか帯刀がぽっと頬を赤らめた。
「あ、あたしはこの通りのガタイだし…タイプじゃなかったのよ、ね、そうちゃん」
「たーちゃんは3歳のときからの幼馴染みだからな」
そういう対象じゃないよとひきつり笑いを浮かべながら、私はお子さまの発想の恐ろしさに身震いしていた。
一方、視線は冷ややかだが、ちっとも妬かない右近。
なんだか張り合いがなくて、そういう意味でも凹んだ。
ああああ。なんで今夜ここへ皆を連れてきたかなあ…。
私は己の判断を悔やんだ。きっと神社でお参りしなかったので祟られたのだ。どうせ正月に引いたおみくじも凶だったし…。神社とは相性が悪いんだ。どうせ私は西洋かぶれさっ。
やさぐれた私は残った水割りをあおると、
「次はロックにして」
と帯刀を睨みながらグラスを差し出した。
おまえのおかげで、今夜の計画が台なしだ。せっかく右近とのラブラブぶりを見せつけて、誠司を牽制しようと思ったのに。ツーカーの仲の帯刀なら、当然援護射撃をしてくれると思っていたのに…。
「あらん、そうちゃんたら、怒ったの…?」
「はやく作って」
おまえにはがっかりだよ、たーちゃん。
「惣一郎…。私なら別に気にしてないから、すねるなよ」
右近が声をかけてくれたのはいいが…『気にしてない』と言切られても、やっぱり凹むんだよう…。
せっかくのアーカイヴの味ももうわからない。
私が本気でやさぐれているのを悟り、帯刀が話題を変えてきた。
残ったチキンをはぐはぐやっていた信明に、
「じゃあ、最後は初々しい信明くん。初恋はいつ? 小学校?」
帯刀がやさしく尋ねた。
信明はチキンを飲み下し、神妙な顔でおしぼりで口元をぬぐった。
「ぼくの初恋は…先生です」
かすれ気味の声で言うと、隣の誠司をちらりと見やった。
店内がしーんと水を打ったように静かになった。
信明は大きな黒目がちの瞳を潤ませ、
「ぼくは、先生が最初で最後なんだ…」
まばたきもせずに誠司を見つめている。
「あ、だめ…あたし。そういう純愛路線ってクラクラする…」
帯刀がよろよろとカウンターにすがりついた。
「羨ましいんだろ?」
「そ、そおよ!」
しんみりとなったところで、誠司が信明の頭を抱えてくしゃくしゃと撫でた。
「帰るか…」
立ち上がって、信明を促す誠司。
誠司は急に真顔になって、
「結城先生、今夜はごちそうさまでした」
礼儀正しく一礼した。
「うん、よかったらまた飲もう」
「はい…」
右近は睫の隙間から、じっと店を出ていくふたりの姿を見つめていた。
重厚なドアが開き…、ゆっくりと音をたてて閉まった。
*
誠司たちが去った後、私と右近もお互いのグラスが空になったのを見計らい、バー帯刀を後にした。
薄ぼんやりと蛍光灯に照らされた、人気のない夜の商店街を、浴衣姿でそぞろ歩く。
酔うほどには飲まなかったのか、右近は団扇片手に涼しげな顔で下駄をならして歩いた。
何を考えているのだろう…。
先に帰ってしまった誠司と信明を、どう思っているのだろう。
おまえの心の裡をのぞくことができたなら…。
「惣一郎…」
「ん?」
「帯刀のマスター、なんであんな写真持ってるんだろうね」
「え…さあ」
「あのアルバムさ、知ってた?」
「何を」
「他の頁も惣一郎の写真ばっかりだったよ」
「え"…」
「…あんなにきちんと整理して」
「あ、彼奴は昔から几帳面な奴だったね。ノートなんかも完璧で…そういう性分なんだよ」
「惣一郎、違うだろ。わからないかい?」
右近…。
「…お前の考えてることは、多分あたってない」
「どうして?」
「あいつはああ見えてもバリタチだ」
「え…」
さすがに意外だったのか、右近の下駄の音がとまった。
「今は信明くんみたいな若い子が好みなんだよ」
「え…でも」
まだ信じられないとばかりに、右近が首を振った。
「結構二丁目あたりでモテてるよ」
「ぐっ…」
さすが右近は鋭いなと思った。
帯刀のやつ…昔はその気になった瞬間があったのかもしれないが…。いずれにせよ、私に受けをやれと言われても…ふっ、それは今も昔もできない相談だ。
帯刀を組み敷くのも…ちょっと考えたくはなかった。
結局、帯刀とはこの距離が一番心地いいんだよ。お互いに。
「でも…マスターの気持ち、大事にしなよ」
「わかってるよ」
私は破顔して右近の肩を抱き寄せた。
一瞬、周りを気にした右近だったが、本気で嫌がる素振りも見せず、私たちはそのままゆっくり歩いた。
「友だちってのはいいもんだ」
右近はうなずきながら、
「惣一郎に何かあったら、きっとあの人は命がけで助けにくるね」
「ああ、雪山の救助犬のようにね。ほら、ハイジの飼い犬、ヨーゼフような犬がブランデーを背負って助けにくる…」
「またそうやってからかう…」
「すまんすまん」
「右近、そういえば、おまえにはそんな友だちはいないのか?」
ふと口にしてから、私は少し後悔した。
大学でも右近は孤立しているわけではないが、あまり仲間と群れるタイプではなかった。強いていえば、すぐそこの八百屋の息子、二学年下の平岡健太と親しくしていたようだが…。
「うん…ずっと昔、いたよ」
「そうか…」
過去形ならば、詮索するのはよそうと思った。
右近がまた遠い目をした。
雲が切れ、半月が夜空に明るく輝いた。
おわり
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