![]() 一の巻 「青葉の頃」 補遺・前編
(結局、自分から来てしもうた…) 誠之進恋しさで、寝間着姿で寝所を抜け出したきたものの一一。 無邪気な子供の頃とは違うのだ。 初めての夜もこうして自分から忍んできたが、あの時だとて、今宵ほど明らさまな意図を持ってではなかった。 『おひとりで参られても、つまらぬでしょう?』 やや熱を帯びた深い声音で囁かれたとき、数多の官能の記憶が瞬時に蘇った。 肌を合わせた時の、溺れてしまいたくなるような温もり。 しっとり重なりあう唇、吐息の甘さ。 そして猛々しい楔に身体を開かれるときの一一痛みと背中合わせの陶酔。 『まだ仕事が残っておりますので…』と誠之進が下がった後、もはや三郎はいてもたってもいられなくなった。誠之進に触れたくて、触れてほしくて、皆の寝静まるのを待ち、ようやく部屋を抜け出してきた。 なれど一一。 いざ誠之進を目の前にして、三郎はふたたび身構えてしまう。 素直に誠之進の胸に飛び込めないのには、理由があった。 ためらう三郎の脳裡に、冴え冴えとした美貌が浮んだ。 (右近なら…斯様な真似はすまい) 江戸に滞在中、右近は花びらのごとく透き通る笑みを浮かべ、三郎に礼を尽した。 端麗でいて、おそらくは好意のかけらもない、完璧なまでの笑顔だった。 三郎は気付いていた。 誠之進が右近を見る時、その視線の中に、三郎を見つめる時とは全く別のものが潜むことを。 神々しいものを眩しげに仰ぐような…手に入らぬものへの強い憧憬。 伶俐で誇り高い右近は、決して誠之進に甘えたりしない。 ましてや物欲しげに寝間着姿で忍んでくるなど一一。 (ありえぬことだ) 三郎の瞳がじわりと熱くなった。 (だから誠之進は…友だなんだと言いながら、いつまでも右近を忘れぬのじゃ) 三郎の頬を涙が一筋、伝い落ちた。 「若…?」 誠之進は親指で三郎の涙を拭うと、両手で頬を包み込んだ。 心の奥が知りたくて、そのまま黒目がちの瞳をじっと見つめた。 (やはり、ご自分からここへ来てしまわれたことが悔しいのだろうか?) 三郎は潤んだ瞳で見つめ返すだけで、一向に口を開かなかった。 (無理に…聞き出さずともよいか) 誠之進はそれ以上目で問うのを止め、そっと三郎の肩を抱き寄せた。 (時として、言葉が本心を語らぬこと…よう身にしみておるではないか) そう、今となっては痛いほどに。 誠之進が胸の中に抱き込めば、三郎は抗う気配もなく、目を伏せて素直に身を寄せる。 宿直に何と言い訳したのかは知らぬが、自から意を決してやってきたのだ。 誠之進を拒むつもりなら、斯様なことはすまい。 されど誠之進の衿に頬を押し当てながらも、三郎の両肩には緊張が残っていた。 身を寄せながら、心の底からは預け切らない様子に、三郎の葛藤がうかがえる。 (いかがしよう…) 正直、どう動くべきか迷った。 このまま抱きしめるだけで心は伝わるのか? 言葉を尽して胸の裡を語るべきか? なれどそれでは言い訳がましくなりはせぬか? 迷った挙句、誠之進は腕の中の三郎を、少し強めに抱きしめた。 前髪に軽く口づけ、もはや流れに任せようと深く息をついた。 「…お待ち申し上げておりました」 「あ…」 三郎が誠之進を仰ぎ見る。 「今宵、若がいらっしゃらなければ、私のほうから伺うつもりでおりました」 「誠之進…っ」 何か言いたげに動いた三郎の唇を、誠之進は己が唇で塞いだ。 三郎は逃げず、控え目に誠之進の口づけを受けた。 もう何ヶ月ぶりだろう。 久方ぶりの柔らかい唇の感触に、誠之進の胸もじわりと熱くなった。 二、三度、角度を変えて優しく触れると、誠之進は一旦唇を離した。 改めて正面から三郎を見つめると、何やら目線の位置に違和感を覚えた。 誠之進は三郎の肩に手を置いたまま、少し身を退いて眺めた。 「お背が…少し高うなられましたか」 「…さようか?」 濡れ濡れとした瞳で三郎が小首をかしげた。 「今が伸び盛りでございますゆえ」 誠之進は思わず目を細めた。 「日に日に…大人になってゆかれますな」 わずかに身を屈めると、三郎の耳元で感慨深げに呟いた。 三郎は答えず、恥じらうように睫を伏せた。 『大人』と言われて戸惑う様子が、たとえようもなく愛しかった。 少年期と青年期の狭間で、揺れる三郎の心。 分家が決まったとはいえ、微妙な立場の前藩主の三男。 分家の当主としての未来、藩主である兄・惣一郎との付き合い、三郎を厭う宝寿院の影…。 自身の身の振り方だけでも、十分に悩み多き人生だ。 (三郎ぎみに…余計な心配をさせてはならぬ) 己のことで三郎を悩ませるなど、二度とあってはならぬと誠之進は自戒した。 誠之進は三郎の前髪から鬢へと指先で軽く梳いた。 少し触れずにいるうちに、背丈は伸び、子供子供した面影は薄れていく。内面ではまだ誠之進に甘えたい気持ちを残しながら、青年期の一歩を確実に踏み出した三郎を、誠之進は眩しげに見つめた。 「若は…いつか私を追い越すやもしれませぬな」 ふと口をついて出たひとことだった。 「私がそなたより大男になると?」 大真面目に問う三郎に、誠之進は苦笑した。 「いえ、それはいささか困りまする」 「私も…それは困る!」 何を想像したのか、三郎が一瞬のうちに頬を染めた。 誠之進は笑いを噛み殺しながら、言葉をついだ。 「身体ではござりませぬ。人としての器量の話です」 「何じゃ…」 拍子抜けしたように、三郎は肩の力を抜いた。 「私がそなたを追い越すと言うのか?」 怪訝そうな三郎に、 「はい」 誠之進は真顔で首肯した。 「そのようなこと…」 小さく首を振る三郎に、 「いえ、私は、そうなって欲しいと願っております」 「誠之進…?」 三郎が玻璃玉のような瞳を見開いた。 「それでよいのです」 「誠之進…」 「守役なぞ、いずれ乗り越えていかねばなりませぬぞ」 三郎はふと笑みを浮かべ、 「そなたを超えるなぞ…大変じゃ」 「若が私を超えてこそ、生涯お仕えするに値します」 「生涯…?」 「はい」 「私が心からお仕えするのは…終生あなた様ひとり」 誠之進を見つめる三郎の両目が、潤みを増した。 「そのような言葉…軽々しく口にするものでは一一」 透明な雫が三郎の頬を伝った。 確かに、『ずっとお側におります…』とは微妙に異なる意味を持つ。 『私が心からお仕えするのは…終生あなた様ひとり』 言葉の深い意味を突き詰めれば、極めて不穏なものに突き当たる可能性を秘めていた。誠之進の胸に兆した、本人すらはきとは気付いておらぬ、野心の萌芽であったかもしれない。 誠之進は三郎の涙を己が唇で優しく吸った。 「立派な領主におなりなされ」 今はただ、愛しい主人の成長を願うのみ一一。 |
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イラストは『十五夜』さんからお借りしています。 Copyright © 2007 戸田采女 All rights reserved. |