by 戸田采女


 「信明、まだできないのか?」
「う、うん…もうちょっとなんだけど…」
「指定時間、20分過ぎてんぞ」
「あと一問なんだよっ」

 僕は先生と一緒にこたつに入って、英文法の問題をやらされていた。英語自体は嫌いじゃないしリーディングは好きだ。でも、文法は正直かったるい。NO MORE とかNO LESSを使う比較の構文は特に苦手だ。ぜんぜん覚えられない。今も頭の中でクジラと馬と魚がバラバラになって踊ってる。最後の一問に苦戦し、おたおたと慌てる僕を見て、先生がにやりと笑った。
「じゃあ、大まけにまけて、この楽章終わるまで待ってやる」

 次の瞬間、僕のことなんか忘れたように、先生はイヤホンから流れる音楽に集中していた。目を閉じて音楽に聞き入っている表情が、なんだかその…とってもセクシーで…。じっと見てたらどきどきしてきた。
(やべっ…)
向かいに座る先生から目を逸らし、僕は必死で問題集に集中しようとした。

 僕は加賀谷信明、中三だ。先生は高校受験のため、父さんが雇った家庭教師。名前は溝口誠司で某国立大商学部の三回生。実家は横浜なんだけど、うちの一駅向こう、大学の近くにマンションを借りて暮らしている。そろそろ就職活動も視野に入れていかなきゃいけない時期だけど、短期間ならということで、秋から僕の家庭教師をしてくれてる。

 うちは父さんと二人暮らし。父さんは山崎重工で電車の車両の仕事をしている。母さんは三年前に病気で死んじゃった。以来、ずっとこのマンションで二人暮らしだ。父さんは今年になって残業やら出張があまりに増えたんで、夜、僕を一人で置いておくのが心配になったらしい。それもあって、家庭教師を雇うことにしたんだろう。

 父さんの会社の部下の知人という触れ込みで、先生が初めて家へきたとき…。

 その…ひとめ惚れだったんだ。
 それまで男の人を好きになったことなんてなかった。中学は男子校に入ったおかげで全然女っけなしだけど、小学校の時はちゃんと好きな女の子がいたんだ。

 僕はホモじゃなかったと思う…。
 なのに、深みのあるバリトンで「信明くん? こんにちは」って呼びかけられたとき、背中がぞくぞくした。鳶色がかった瞳が僕を見つめて微笑んだとき…。何だろう…ふわあっとあったかいものに包まれるような…不思議な気分が僕を襲った。

 ダーツの矢がストっと胸に刺さったみたいだった。でもそこから広がるのは不快な痛みじゃなくて…。切ないような甘いような…いつまでも続いて欲しい摩訶不思議な痛さだった。

 週三回、僕は先生の来てくれる日を心待ちにするようになった。実は中学受験で入った今の私立は、世間的には一流の進学校。もちろん試験に受かったから入れたんだけど、学校の先生たちは管理主義だし、何となく雰囲気がぎすぎすしてなじめなかった。いじめにあう程ではなかったけど、ろくに親しい友人もできないまま三年間を過ごした。長い休みの時は小学校時代の仲良しとよく遊んだっけ。本当は中高一貫教育だから、あと三年高等部に通う予定だったけど、三年の夏休み、思いきって父さんに頼んだ。高校は別のところを受け直したいって。

 せっかく入った今の学校を辞めるのはもったいない…。というのが父さんの本音だったろう。だけど、最後には僕の気持ちを汲んで、承諾してくれたんだ。

 急きょ受験生になったおかげで、僕は先生に出会えた。


 「信明、できたのか?」
「あ、え、あ、やっぱりダメ。こんがらがってきた、ギブアップ」
全然問題なんか考えてなかった僕は、慌てて真顔を作った。
「よし、じゃ貸してみな」
先生はMDのイヤフォンを外すと、僕の手から問題集を受け取り採点にかかった。

 赤のボールペンを握る手を思わず見つめていた。

 僕は先生の手が好きだ。かなり大きめな手だけど、節はそんなに張ってなくて、どことなく繊細な感じなんだ。

 何でかなあと思ったら、先生は楽器を弾くことがわかった。

 先生は大学オケでチェロを弾いてる。爽やかで男っぽいイメージだったから、当然体育会系かなと思ってた。チェロやってるって聞いたときにはかなり驚いた。スポーツも昔はやっていて、中学の時は弓道部だったんだって。だから姿勢がいいいんだ。チェロは高校から始めたって聞いた。

 クラシック音楽なんて縁のない僕だったけど、先生の影響で少しずつ聞くようになった。だって、先生の好きなもの…知りたいだろ?

 さっき先生が聞いてたのはブラームスの一番だ。交響曲の一番。一月末の演奏会で弾くらしい。イヤフォンから終楽章のメロディが洩れ聞こえてた。チェロの重厚な響きが聞かせどころなんだ…。

 先生はチェロのトップ奏者。舞台右手、一番客席に近い側の最前列だ。一月は試験前だけど、ぜったい聞きに行ってかぶり付きで見なくっちゃ…。きっとタキシードが似合って、超かっこいいだろうなあ…。

 僕が妄想に浸っていると、採点を終えた先生がペンを置く音がした。
「よし、三十問中二十八問正解。まあまだな。あとで比較と仮定法、もっかいさらうぞ」
「うん…」
先生と目を合わせてうなずけば、また胸がざわざわしてくる。暖房は抑えめにかけてるのに、顔がどうしようもなく火照ってきた。

(…こんなんじゃ、いつか変に思われる)

 案の定、先生は少しだけ眉尻を下げて、困ったような微笑を浮かべていた。

(あ…やっぱ男にうるうる見つめられても困る…よね。気持ち悪いって思われてたらどうしよう…。で、でも顔見ないで話するのも失礼だし…。)

 焦り始めた僕に、
「…ちょと休憩すっか?」
「う、うん」
僕の本心など知る由もない先生が、さらりと助け舟を出してくれた。




 お茶の用意をしながらキッチンで立ち働くうちに、少し平常心に戻った。
「先生、紅茶、それともコーヒー? こないだ神戸の叔母さんが持ってきてくれた焼菓子がまだあるんだけど…」
「どっちでも、信明の飲みたいほうでいいぞ」
「…うん、じゃ、紅茶かな」
いそいそとお茶の仕度をしていると、先生がキッチンのカウンター越しに両肘をついて、こちらを覗き込んだ。
「信明は年末年始、お父さんとどっかいくのか?」
「何いってんの、僕一応受験生だよ?」
「…って。今より1ランク落としたとこ受けるんだから、楽勝だろ?」
「家庭教師がそんなこと言っていいの…? 油断するな、とか言わなきゃ、ふつー」
僕が上目使いに軽く睨むと、
「ま、心配だったらインフルエンザの予防接種でもしとくんだな。体調さえ万全ならおまえが落ちるわけない」
先生は片頬でにやりと笑った。
よくそんな自信満々でいられるねえ…と僕があきれて見つめると、
「…かと言って、教えんの、手抜いてるわけじゃないぞ」
「え?」
ふと真顔になった先生を僕は見上げた。
「高校に入ってから、しばらく勉強で苦労しなくてもいいように、今できるだけのことはしといてやる」
「先生…」
「おまえ、今度こそ部活やったり…学校生活を楽しみたいんだろ? 入学してしばらくの間、うまく行けば一年生の間は十分貯金で食べていけるよう、みっちりしごいてやるからな」
「先生…そんな事考えてたの…」
先生は鳶色の瞳の奥で静かに笑って頷いた。

 そんな親身なこと言われたら…ほら、また一本矢がささった。先生のばか…。




 こたつに戻って紅茶を飲みながら、僕はちらちらと先生の横顔を盗み見ていた。
すっきりした鼻筋にきりっとした男らしい眉。その下の目が、黒というよりはほんの少しだけ色素が薄い感じなんだ。それがとっても優しそうで、先生が僕の目をみて一生懸命説明してくれるとき、ちょっとぼうっとしちゃうんだ。

 先生はクリスマス…どうするのかな。師走に入り、街に華やかなイルミネーションが溢れる時期になると、そのことが気になって仕方ない。でも僕は恐くて聞けなかった。

 予定があるって言われたら…彼女とデートだなんて言われたら…きっと立ち直れない。先生のことだから、あっけらかんと「ホテル予約した♪」とか「イブに野郎同士で飲みに行くわけないだろ」なんて笑われそうな気もする…。

 先生…彼女いるのかな。うちに教えに来てくれるのは月水金。週末どうしてるかなんて、全然わからない。携帯の番号だって知らない。先生の口から彼女の話が出たことはないけど、中坊で教え子の僕なんかに、プライベートなことぺらぺらしゃべるわけないか…。

 受験が終わったら、家庭教師のバイトも終わり。来年になれば先生は就職活動や卒論で忙しくなるだろう。

 もう…会えなくなっちゃうのかな…。

 その時を思うと、ふとどうしようもない寂しさに襲われる。

 受験が終わったらさよならなんて。そんなの絶対いやだ…。


つづく








 




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