軍の施設の廊下は好きではない。
冷たく無機質な石の塊は、普通の家にあるような人らしさがまったく感じられず、全力で温かさを排除しようとしてくる。
長く伸びた床に薄く影が落ちて、少し持ち上がったところでぴたりと動きを止めた。
オレはまだ迷っているのかと、苦い思いがじわじわとこみ上げてくる。
軍の狗になれと言われた。そのつもりで試験を受けた。
それはたった数年前のことで、今でもよく覚えている。
覚悟はあるかと言われた。そのつもりで家と逃げ場所を焼いた。
それは忘れてはいけないと自らにきつく戒めたから、今でも鮮明に思い出せる。
軍の狗にだってなれる、覚悟だってある――そのつもりだった。
だが所詮、『つもり』は『つもり』止まりで、本物の意思ではなかったのか。
自分は、まだまだ甘ちゃんだったのかもしれない。
立ち止まってはいけないのに、ふと気づくと振り返りそうになっている自分がいる。
そんなとき思い知らされる。これでは駄目だということ。
けれど、頭ではわかっているのに、感情はどこまでも正直だ。
「会いたくねーな……」
鋼の錬金術師、エドワード・エルリックは、そっとため息を落とすと、萎えそうになる気力を奮い立たせるようにドアをノックした。
「失礼しまーす」
努めて明るく聞こえるような声を出しながら、エドは部屋の中に足を踏み入れたものの、予想外の事態にやや驚きを隠せなかった。
部屋の中は灯りが一切点っておらず、カーテンのかかった窓の隙間から細く差し込む月光で、かろうじて物の輪郭がわかる程度でしかない。
そして、その手前に一人の男が立っていた。
「やあ、鋼の」
逆光でエドからはよく見えなかったが、おそらく彼は笑ったのだろう。
「大佐」
エドのひきつった笑いは、焔の錬金術師、ロイ・マスタング大佐からよく見えただろうか。
その顔のまま、一応確認だけはしておこうとエドはおずおずと切り出した。
「やっぱ……怒ってるよな?」
「もちろんだ」
間髪いれず、静かに返ってくる答え。
「うげ。説教フルコースかよ……」
心底うんざりした声でエドは言った。
ここに来る前からある程度の覚悟はしていたが、本人を目の前にするとやはり嫌なものは嫌だ。
エドは機械鎧の右手で頭を抑えながら、ここにくるまでに用意したいいわけをもう一度頭の中で反芻した。
___+罪深き者たちの祈り+_
原因は、今朝起こった市街地での銃乱射事件。犯人は一人で、目的は不明だった。
だった――というのは、犯人である男は射殺されてもうこの世に存在しないからである。
人々がゆっくりと歩き通り過ぎていくいたって普通の道、そのど真ん中で、いきなり男はいつもの日常を非日常に塗り替えたのだ。
そして、買出しに出ていたエルリック兄弟はそこにたまたま居合わせたのだった。
男の目は正気を失い、口からは涎をだらだらとたらし、大声で笑いながら当たりかまわず銃を振り回している。
街を切り裂くような悲鳴が上がり、とっさにアルフォンスは近くにいた女の子を抱えて横っ飛びに避けた。
「兄さん!」
「ああ、わかってる!」
家の陰に隠れながら、パン、と両手を合わせ――光がはねた。
捕まえるのにさほど時間はかからなかった。
ぐったりした様子で地面に伏した男を眺め、頭の後ろをぽりぽり掻いて、面倒くさそうにエドは弟であるアルに話しかけた。
「さて、じゃあ憲兵に引渡しにいくか」
「そうだね」
「まあ、死人が出なくて良かったよな」
エドはにっと笑い、アルが抱えていた腕から降ろした小さな女の子の肩をぽんと叩いた。
倒れていた男が立ち上がり、懐からナイフを取り出して襲い掛かってきたのはそのときだ。
「兄さん……!」
「くっ!」
少女をかばうことに気をとられ、一瞬反応が遅れたのは確かだった。
それでも、十分避けることのできた時間はあったし、再び相手を気絶する程度に叩きのめすことは可能だったのだ。
それなのに、別の方向から飛んできた一発の鉛玉で男の人生は終わってしまった。
「なっ……」
息を呑んだエドの前に現れたのは軍服を着た見たことのない40近い男で、ちらりとエドを一瞥してから頭から血を流し絶命している男に向き直ってこう言った。
「ああ、腕を狙うつもりだったんだが、逸れてしまったか。まあ仕方ない。街中で銃を乱射するような犯罪者は、たいていは射殺もやむを得ないものだ」
エドの中でなにかがちりちりと音を立てた。
軍服の男はそんなエドの睨みつける視線に少し気分を害した様子を見せ、こちらにふいと首をめぐらせて唇の端を吊り上げた。
「軍に背く犯罪者どもを"処分"するのを躊躇しているようじゃあ、軍に属するものとしてはなっていないなぁ、国家錬金術師?」
彼は兄弟を知っているようだった。
しかしそのまま男は名乗らず、やってきた軍人とともに行ってしまい、兄弟もほどなくしてその場を離れることになった。
こうして思い出すだけでも嫌な気分がよみがえる。なんとも後味の悪い目にあった。
だが軍の狗としての自分にとっては、男の言うことももっともなのだ。
一般人に危険が及んだり、生け捕りが難しい場合は射殺しなければならないときもある。
(――――違う)
今回は、命を奪わなければならないほどの状況ではなかった。楽に捕まえられたのだ。
(――――違う!)
では、もっと危機的状況におかれたら。止めを刺さなければ自分がやられるかもしれないとしたら。
(それでも、オレは――――)
「どうかしたか、鋼の」
ロイの声に、はっと意識が目の前の男へと引き戻される。
「いや、なんでもねー……そうだ、そういえばさ、なんで呼び出しが仮眠室なのさ? 灯りもつけてねーし。オレ、こんなとこで説教フルコースいただくワケ?」
「生憎と今回は説教で済みそうにないのだよ」
そう言ってロイは深く笑んだ。だいぶ目が慣れてきたおかげで、さきほどよりはっきりとエドにはそれが見えた。
どこか不穏当な笑みだ。知らず背筋が寒くなり、嫌な予感に心臓が速さを増した。
なんだ、この――感じは。
「君が今日街で出会った軍人はクレー准将といってね」
准将といえば大佐より上の地位だ。まさか、大佐に圧力でもかけたのだろうかとエドは考え込んだ。
そんなことを黙って受け入れる大佐だとも思えないが……。
なんだか居心地の悪い雰囲気を感じ取り、エドはわざとなんでもないことを話すような口ぶりで言った。
「あー、すいませんね。犯人を倒した後縛っておかなかったのは確かにオレの落ち度だよ。その准将さんにはお手を煩わせマシタ」
「そういうことを咎めているのではないんだよ」
わかっているのだろう? と、ロイの目は言っている。
ああ、本当は自分だってわかっているさ、そのくらい!
「鋼の、私は言ったはずだ。何があっても進めと。それが自分で選び取った道なのだから」
「……っ」
「貫き通すものがあるなら、その前に立ちふさがるもの全てを破壊してでも前を目指せ。軍の狗になることを決めたのは君だ。心の中で何を思っていてもかまわない。それは他人には見えないからな。だが、軍の狗としてあるべきときは、狗らしくふるまってみせろ」
「……あんたみたいに?」
エドはロイを見上げた。自分よりずいぶん高いその背。
彼の輪郭は窓からの光に縁取られて、軍服の線がくっきりと浮かび上がる。
ロイはエドの問いには答えず、代わりにからかうような眼差しで笑った。
「震えているのか」
「なっ、――――誰が!!」
エドの生身の左手は確かに細かく震え出していて、機械鎧が反射的にそれを押さえた。
この薄闇の中でロイに震えていたのを悟られたことが、エドには何より悔しかった。
オレは怯えているんじゃない。怯えてなんかいない!
身体が震えるのは、この部屋に漂う得体の知れない予感のせいだ。
何かがいつもと違う、と身体が告げていた。
「やはり君はまだわかっていないようだな。あれほど言ったのに」
「わかってるって。これからは心がけるようにするよ。ご忠告どーも」
じり、と後ろに一歩足をずらす。予感がどんどん強くなる。
はやく、はやくこの部屋を出なければ――――
「逃がさないよ。今回は説教で済みそうにないと言っただろう?」
ロイのその声にはじかれたようにエドは身体を翻し、そして見た。
月光にほのかに照らされる仮眠室の壁。自分が今まで背を向けていたそこに描かれた錬成陣を。
闇の中に光があふれた。
「くそ、どういうつもりだ、嵌めやがって!! これ放せよ、聞いてんのか大佐ぁっ!!」
錬成によって形を変え突き出た壁に、手錠のように両腕を戒められながらエドは叫んだ。
この状態では、錬金術を使えない。脱出は不可能だろう。
なぜこんなまねをするのか、エドにはロイの意図がまったく読めなかった。
ロイは部屋の明かりをつけると、わめくエドへと視線を戻した。
「言葉で教えてわからないなら身体でわからせてやろう、とそういうことだよ」
「なんだって……」
「本当に軍の狗になるというのはどういうことなのか。きちんと教えてやると言っているのだ」
「ふざけるな! そんなもん今更教えていただかなくても結構だ、だからとっとと放せ!!」
「クレー准将が今朝の件について、ご丁寧にもわざわざ報告にきてくれてね」
その言葉に反応したエドを見やり、ロイは壁に近づいていく。
「君には覚悟があると思っていたが、どうやらそれは私の買いかぶりだったようだ」
目の前で立ち止まったロイに向かって、エドは左足を振り上げた。
それを難なく避けると、ロイは踵を返して小さなテーブルへと歩み寄った。
テーブルの上には、安物の酒らしきものの瓶が一本と、グラスがいくつか載っていた。
仮眠室を使った誰かが寝酒代わりに持ち込んで、そのまま片付けないでおいたのだろうか。
瓶の中身はまだ3分の1ほど残っている。
ロイはグラスのひとつを取るとなみなみと酒を注ぎ、そのままエドにつかつかと歩み寄った。
「オレに軍がどうとかえらそうなこと言っといて、自分は軍服着たまま酒飲むのかよ」
「いや、これは」
ぱしゃりと飛沫が上がり、エドは一瞬何がおきたのかわからずに唖然とした。
「こうするためのものだ」
ぽたぽたと前髪を雫が伝っていく。雫は頬へ、顎へ、首筋へ。
上着をぐっしょりと濡らして、エドは自分に酒を浴びせたロイをにらみつけるためにキッと顔を上げた。
強いアルコールの匂いが鼻につく。
「いきなり何すんだ!」
エドの剣幕も意に介さず、ロイは黙って自分の両手をかざした。
エドだって、そこに嵌められた手袋の意味するところを知らないわけではない。
ぷんとむせるようなアルコールの香り。相当度数は高いのだろう。
味にかまわず手っ取り早く酔えるように、強く造られた安い酒。
「ま……さか」
「火傷をしたくなかったら、抵抗しないことだ」
「冗談! オレをどうしようっていうんだよ!」
「この状況でまだわからないと? 相当未熟なようだな、鋼のは」
「なんだよ、拷問でもしようってのか!?」
「抱く、と言っているのだ」
エドはぽかんと口を開けた。告げられた単語の意味を頭が探る。
抱く? 抱くって……抱きしめるってことか?
それとも――――……
ややあって、エドの顔がボン、と真っ赤になった。
「これでもわからないというなら、もっとわかりやすく説明するが。君を抱く。セックスする。性交する、Hする、交わる、とも言うな」
「わ、わかった、わかったからそれ以上言うな!!」
エドはあからさまにうろたえた。
「んなななな、なに考えてんだよ! オレは男だっつーの! 抱くなら女抱けよ!! 女!!」
「おや、私は相当見くびられているようだ。知らないとでも思っているのか?」
ぴたりとエドの動きが止まった。
「鋼の。君は女だろう」
驚愕に見開かれた目は、ロイの姿を映して揺らぐ。
「な……んで、知って」
「本気で隠すつもりがあるなら、もう少し慎重になりたまえ」
ロイは手袋を右手だけはずして、ポケットに突っ込んだ。
覆うもののなくなったその手を伸ばし、酒を吸ったエドの服に触れようとする。
エドにとって、黒く濡れた布地は不快極まりなかったが、脱がされるのはもっと嫌だった。
「やめろ、触るな、触るなっつってんだろ!」
エドは男の手から少しでも逃れようと必死にもがいたが、ろくに身動きの取れない身体ではどうにもならなかった。
「私も忠告したはずだが。抵抗するな、と」
そう言うと、ロイはエドの頬に自分の手を振り下ろした。
殴られたのだと理解するまでには数秒を必要とした。
「……!?」
張られた頬が熱を持ってじんと響き、これが現実のものであると雄弁に物語っている。
歯で口の端を切ったようで、微かに血の味がした。
……大佐は本気だ。
そう思ったとき、エドは改めて言い知れぬ恐怖を感じた。
「自分の立場が理解できたのなら、大人しくするんだな」
呆然とするエドの上着に手をかけ、留め金をはずし前をはだけさせる。
その下に着ていた黒いタンクトップを懐から取り出したナイフで裂いた。
規則的に組み合わされた繊維の束がびりり、と音を立てて切られていくのを、エドは息を呑んで見つめた。
目の前の光景が信じられない。
「い……いやだ、やめっ……こんなの、こんなの嘘だ!!」
完全に破られた衣服の隙間から素肌が覗く。あちこちに小さな傷。微かなふくらみと、その中心にある桜色。
ロイはエドの心臓のあたりに手を這わせた。
「あまり大声を出すものではないよ。外に聞こえてしまう」
その言葉に『あること』を思いついたエドは、咄嗟に息を吸った。
「だ…………っ!」
外部に助けを求めようとした声は最後まで言い切ることができず、エドは自分の口をふさぐ男の手と顔を間近で見た。
「んんんんん――――!!」
「無駄だよ。私の忠実な部下たちには今日は仮眠室に入るなと言ってある。もっとも、彼らは私がここで何をするのかまでは知らされていないがね。まあ誰かが廊下を通りかかって声を聞かれてしまうかもしれないが、その場合困るのは君だ。東方司令部中に君の性別が知れ渡ってはまずいだろう? それに、万が一私の命を知らない者が不審に思って鍵を壊して入ってきでもしたら、この姿を見られることになる。それこそ決定的ではないのかな。だから大声を出すな、と私は親切心から言っているのに」
「んっ……むぅ!」
「ああ、ちなみにアルフォンス君はホークアイ中尉と今ごろお茶を飲んでいるよ」
(あいつが茶なんか飲めるわけがないだろ!)
だとしても、ホークアイ中尉と一緒に、素直に自分を待っているのは間違いないだろう。
逃げられない――――
絶望的な気持ちでエドはロイの言葉を聞いた。
ロイはエドの身体から力が抜けたのを確認し手を放すと、再び胸に指を乗せた。
小さな、未発達の胸。ふくらみかけた、成長途中の。
「どうして、どうしてこんなことすんだよ……? オレは……っ」
顔を歪ませて、本当につらそうに。
「オレは……あんたのこと、オレなりに尊敬してたし、感謝もしてた……嫌いじゃなかった、なのに」
エドは、言った。
ロイの瞳に一瞬だけ、それまで見せなかった何かが浮かんだ。
……だが、やめるわけにはいかない。
ロイは即座に自分の感情を殺した。
「言いたいことはそれで終わりか?」
彼の二つ名である焔とは正反対の氷のような声が、エドの耳を打つ。
エドの顔と自分の顔とがほぼ同じ高さにくるようにロイは身体をかがめた。
右手で金髪をかきあげると、耳に口付ける。
耳朶をねっとりと舐め上げ、エドがぞくりと肩を震わせたのを知って、今度はそれを口に含んだ。
ちろり、ちろりと舌が動く。
「……っ、…………」
エドは声を押し殺し、変わらず肩を震わせながらも必死で耐えようとしている。
機械鎧が金属のこすれる音を立てた。
NEXT
BACK