_______+荒野のフィーメンニン+___
幸いにして忍び込んだ場所の近くから聞こえた耳を劈く大声は、絹を引き裂くような女の悲鳴……ではなく、
「雑巾を引き裂くような中年男の悲鳴?」
間違っても悲鳴の主はエドではなさそうだ。
しかしこんな状況においてエドが関わっていないとは欠片も思えない。
アルは迷わず声が聞こえてきた部屋の扉を豪快に蹴破った。
「兄さん!!」
派手な音とともに飛び込んだ部屋の先に予想通りエドの姿があったことにアルは安堵したが、しかしすぐにその赤い双眸は剣呑な色を帯びた。
アルが見たエドは真っ赤な顔でぜーはーと喘ぎながら、乱れた服を直していた。
そのうえその横には、おそらく姉にぶっ飛ばされたのであろうフェールが頬をパンパンに腫らし、大の字になってのびていた。
ときおりその身体がぴくぴくと痙攣しているのを、エドは汚いものを見るような目つきで眺めているし。
にににに兄さん、いったいぜんたい何されたの――――!!!?
そう叫んで駆け寄ろうとしたアルに気づいたエドは、その後ろに小ロイの姿を認めると、やっぱり嘘だったかこの野郎と低く呟いて、鬼のような形相のままアルに告げた。
「アル、こいつふんじばれ」
ベスさんはいい人。
わたしが困っているときは力になってくれるって。
でももう少しひとりでなんとかしてみようと思う。迷惑はかけられないもの。
友達に心配されてしまった。
気づかれはじめているみたいだ。
隠し通す自信がない。こんなんじゃカインに気づかれるのも時間の問題かもしれない。
そうなったら、きっとわたしは生きていけない。
ばれるくらいなら死んだ方がましだ。
あの優しい人を騙してまで結婚しようとする浅ましい自分をこれ以上知るのは嫌。
お互い様だったってことがわかった。
嘘ばかりだ。うまくいくはずなんてなかったのだ。
やめよう。
わたしは結婚できない。もう結婚する資格もない。
なんにも知らないあの人はわたしが今日指輪を返したとき驚いていた。
わたしが知らないと思っているのかしら。
でもわたしには言えなかった。そしてあの人はきっとお嬢さんと幸せになれるだろう。
それに、わたしだってそれを責めることが出来ない。汚いのはわたし。
お嬢さんと結婚すれば、あの人の道は格段に開ける。
わたしみたいに、平凡な、ちっともお金持ちじゃない女と結婚するのと違って、幸せに。
あの人が昇進するのを喜んであげようと思う。
わたしはあの人にふさわしくない。わたしは、わたしの身体はもう綺麗じゃない。
こんどの週末、お父さんたちが遊びに来る。なんていおう。
お父さんたちはわたしが幸せになるんだと信じ込んでいる。言えない。
ロイはますますあの人を嫌うかもしれない。悪いのはわたしなのに。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
わたしにはわからない。
明日。わたしは笑って話せるだろうか。
なにができる?
わたしはカインに選ばれなかった。
フェールの悲鳴に、さすがに屋敷の者たちも何事かと集まりだしたようだ。
自分たちの主が縛られて転がっている部屋を覗き込んで目を白黒させている人々に、エドはまるで冗談のように言い放った。
「あ、夜分遅くお騒がせしてすいません。今からこいつ軍に連れてくんで。とりあえずは国家錬金術師を害そうとした現行犯っつーことで。公務執行妨害でも可だけど。それと、肝心の余罪については軍のほうでしっかり調べさせてもらうぜ。つーわけで、行くぞアル、ロイ」
いまいち状況の飲み込めていないお屋敷勤めの従業員たちによる人垣を、まるで杖を振りかざしたモーゼのように割りながらエドはさっさと歩き出している。
アルは物を担ぐようにしてぐるぐる巻きのフェールを持ち上げると、小ロイを促してそれに続いた。
フェールの身柄をひとまず軍に引渡し、宿に戻ろうと軍部を出るころには、暗かった空が白み始めていた。
随分長い夜だったなぁ、とエドはあくびをした。
小ロイに至っては意識が夢の国へ飛びかけている。
かくりと崩れかけたロイの身体をアルがその腕に抱え上げ、なんか今日ボクずっと何かを抱えてるな、とかそれにしても兄さんはフェールに何されたか言わないけど気になるな、とかいったことをとりとめもなく考える。
その過程で、思考はもう一人のロイにぶちあたった。
あ、そうだ。
「兄さん、今回のこときちんと大佐に報告しなきゃだよね」
融通を利かせてもらったのだ。筋は通すべきだろう。
「……あー、だよなぁ。礼ぐらい言いにいかなきゃな……」
アルより前を行くエドの表情は、アルからは見えない。
だからエドが今何を思って話しているのかも、アルにはわからない。
「よし、大佐、首洗って待ってやがれ!!」
腕まくりしてわははと高笑いのエドに、アルの冷静な突込みが入る。
「兄さん、それじゃお礼の意味違っちゃう」
東の空はまぶしかった。
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