桜が散っていた。まるで涙のように、散るのを惜しまず風に舞っている。
妙は並木道を下駄を鳴らして歩きながら、ふと空を見上げた。
雲ひとつない――とまではいかないが、実に良い天気である。散歩には絶好の日和だろう。
春風に流されて足元に固まっていた花びらがふわりと再びの旅を始める。
川面に落ちたものは、大海まで流れていくのだろうか。妙にはそれが少しうらやましい。
妙はどこかにいくことができないからだ。守りたいものがここにある以上、この場所を離れるわけにはいかなかった。
たとえあそこに見える桜の幹の蔭に髭面の男が隠れていて、いい年こいて頬を染めながらこちらを覗っていたとしても。
『グループ交際でもいいから!』
男の持っている段ボール紙に書かれた文字を見て、子供が指をさし笑っている。
いい年こいて、と言ったが、正確には妙は男の年を知らない。ただ見た目からそんな印象を持っているだけだ。
男――近藤という――は、たんなる妙の勤め先のスナックの客でしかなかった。
だから妙は彼とそこまで深い話をしたわけではないのだ。
妙が知っているのは、せいぜい名前と、それとどうやら尻毛の濃いのを悩んでいるらしい、ということだけ。
それなのに、近藤のほうは妙のことを色々知っているのだ。
普段利用しているスーパーだとか、よく行く茶店だとか、気づけば住所も割れていた。
妙は戦慄した。この男は異常だ。ああ異常だ。
このままでは、いつのまにか家の中に潜んでいるのを見つけるのも時間の問題だ。
妙は近藤のプロポーズを丁重にお断りしたのだ。なぜここまでつきまとわれねばならない。
そりゃあ、妙だって花も恥らう18の乙女、結婚を申し込まれれば嬉しい。
おまけに相手は幕臣、玉の輿。そうなれば妙ももうスナックで働かずとも良いし、道場も安泰だろう。
しかしそれとこれとは話が別なのだ。
いまや妙の下駄はタップダンスばりに鳴り響いている。
傍らの道を走っているタクシーにも劣らぬ速度で妙は足を動かした。
「お妙さァァァン!! 交換日記から始めましょうよォ!! お妙さァァ――――ん!!」
この速度についてくるとは、さすが真選組局長なだけはある。しかもあんなに声を張り上げながら、よく息が乱れないものだ。
道行く人がみなおののいて脇に退く。
妙は小さく舌打ちした。帰って道場の雑巾がけでもしようと思っていたのに。とんだタイムロス。
しかしこのまま帰ったら、間違いなくこの男は家までついてくるだろう。
妙は振り返って鮮やかににっこりと笑った。男が嬉しそうに顔をほころばせたのがわかった。
この場に妙の弟がいたら、近藤と真逆の反応をしただろう。
しかし不幸なことに近藤は新八ではなかったから、妙が自分に笑いかけてくれただけでのぼせあがってしまった。
近藤は走りながら、乙女チックというのだろうか、花だのウサギだのの描かれた、なにやら面妖な表紙のノートを頭上に振りかざした。
妙に良く見えるようにとの配慮だろう。変なところで気が利く男だ。
妙はどこかの青年を跳ね飛ばしながら(よく見なかったが、瞳孔が開いていたような気がした)近藤に言い放った。
「あなたとは何も始まることはありませんから」
「大丈夫、俺紳士だから! 結婚までは手しかつながないから!!」
「そういう問題じゃないんですけど」
この愛一直線な男には、何を言っても無駄なのかもしれない。
しかし天下の往来で実力行使というわけにもいくまい。しかも相手は警察だ。
下手をすると妙のほうが捕まりかねない。それだけはごめんだ。
妙はどうすれば足がつかずに男を始末できるかを考えながら、同時に夕飯の献立を何にするかを考えた。
他にも今月のスナックの給料のことや、もう2ヶ月びた一文と支払われていない弟の給料のことや、弟の目が悪くなった原因はやっぱり卵焼きなのだろうかとか、それを完食した女の子のこと、そして彼らを雇っている銀色の天然パーマ男のことを考えた。
妙はちらりと後ろを振り返った。近藤の後ろに土ぼこりが巻き上がっているのが見える。
「日記書くのが大変なら、毎日じゃなくていいから! 3:1でいいから! 俺が3日分書くからァ!!」
なんでこの人、こんなに私のことが好きなのかしら。
そしてはた迷惑な追いかけっこはもうしばらく続くのだった。




ルドモ