早朝の教室。
まだほとんどの生徒は登校していないが、三年Z組志村妙はすでに教室にかばんを置き、水道で花瓶の水を替えていた。
ふと顔を上げれば、廊下の向こうから歩いてくるのは見慣れた白衣の姿。
「おはようございます、先生」
「おー志村」
妙のクラスの担任教師、坂田であった。
教師にしてはいささか型破りなところのある男で、いつもならこんなに早く学校に来ることはないのに。
「随分早いですね、珍しい」
「失礼な。俺だってなぁ、これでも真面目にセンセイやってんのよ?」
「……存じてますわ」
それはもう良く。妙は答えた。
坂田は教師で、そして妙は生徒だ。
でも二人のその肩書きは、時々消えることがある。いや、意図して消すのだ。
ふぁ、とあくびの口を手で覆いながら坂田は問う。
「お前こそなんでこんな時間にいんの? 朝練かなんか?」
「日直なんです。一日宜しくお願いしますね」
「……一日だけじゃなくてずっと宜しくしてやろうか」
「何か仰って?」
「いや、ヒトリゴト」
ぴとりと蛇口から水滴の落ちる音のほかには、何も聴こえない。
二人しかいない廊下には、いつもの校舎とは違う静けさが満ちていた。
いつもとは、違う。ここが学校だということを忘れそうになる。
坂田は白衣のポケットに手を突っ込んで、妙から視線をそらした。
「んじゃぁな」
そろそろ職員室に戻るかと踵を返しかけたところで、
「あっ」
声に振り向けば、妙は目を押さえていた。
「どしたん?」
「目にまつげが入っちゃったみたい……ん、んー……」
ぱちぱちと瞬きを繰り返し、痛みを取り除こうとする。
「そんな無駄に長いまつげしてっからだバカ」
「変ね、ほんとなら誉め言葉のはずなのにちっとも誉められた気がしないわ。……痛っ」
「おい、こするなって」
手を押しとどめる。妙が首を坂田に向けた。
「取ってくれる?」
「わかったから大人しくしてろ……ってそんなにじっと見んじゃねェよ。照れんだろーが」
「だって目を開けてないと取れないじゃないの」
そうだけどさァ……と銀八はぶちぶち言っている。
らしくもなくこんななんでもないことにどきどきしてしまうのは、この空気のせいだ。
顔が近い。その近い顔でこちらを見てくるものだから。
このままあと数センチでキスだって出来る。
……何、考えてんだ俺は。
「取れた」
「取れた? 良かった」
ほら、なんでもないじゃないか。ただこいつが痛いって言うから、取ってやっただけで。
後ろめたいことなんて何にも無い。
けれど坂田が顔を遠ざける前に、妙の顔がふいと上がった。
まるでそれが自然の流れであるかのように。
唇が重なった。
「せっかく誘惑してみたのに、意外とモラリストなのね」
離れた妙の口の端は笑っていた。
「……つーか何してくれちゃってんのオマエ。ここ学校よ?」
「あら、感想はそれだけ?」
「人が何のために理性総動員したと思ってんだ。っくそ、一本取られたぜ、あー」
「ふぅん、一応葛藤はしてくれてたわけね」
「オマエ、俺が欲望と死闘を繰り広げる様を見るのがそんなに楽しいか」
妙はそれに笑顔で答えた。その目がふと横に向けられる。
つられるように坂田もそちらへ視線をやると、そこには彼女の弟である眼鏡の少年が立ち尽くしていた。
「あら新ちゃん」
「しっ……し、新八?」
妙が日直ということは、同じ苗字の弟が男子の日直であることは当然導き出されることであり、ここに新八がいるのは全く不思議ではない。
けれどいかんせんタイミングが悪すぎる。
「この変態セクハラ糖尿教師がァ!! 人様の姉上に朝っぱらから何してんだァァァァ!!」
「ちがっ、むしろされたのは俺……! ほら志村も説明し……」
命の危機に助けを求めれば、妙はさっさと花瓶を持って教室に引っ込むところだった。
「ってどこ行くんですか!? し、志村、志村ァ――!!」
朝の職員会議に出た坂田の顔は、傷だらけだったとかなかったとか。
ルドモ