だってわたしには、恋なんてわからない。


_______臆病な恋の贖罪____





6月の下旬。
高等部普通科2年の日野香穂子は、その日、まだ乾ききっていない頭でエントランスへ駆け込んだ。
普段は髪を下ろすことが多い香穂子だったが、今日は湿ったそれがセーラーの襟を濡らさないようにと、ピンとゴムで上の方にまとめてある。
四限が終わって昼食を買いに来た生徒たちで、昼休みのエントランスはごった返している。
その光景はさながら戦場。
眼前の光景に立ち止まった香穂子の脳裏に浮かんだのは、何故かドラクロワの「民衆を導く自由の女神」であった。
しかし、あの旗を持ち先頭を行く女神のように今からここに乗り込んでいくのは、少し危険かもしれない。
香穂子はそう思ってげんなりした。
ただでさえ今は体力を使い果たして疲れているのだ。
午後の授業も危ういというのに、このうえ余計に疲れることをしなければならないのか。
しかしここで食料を買えなければ、弁当を忘れてしまった香穂子は食いっぱぐれる運命にある。
そうすれば、それこそもう、午後の授業の行く末は決定したようなものだ。
へとへとのうえにエネルギーも供給不可とあっては、教師のご高説をまともに聞くことは出来ないだろう、あとは机にダウンコースまっしぐらだ。
香穂子は諦めたようにため息をついた。仕様がない。
元はといえば、弁当を忘れた自分が悪いのだし。四限にうっかりはしゃぎすぎたのもいけなかったし。
まだ暦の上では6月とはいえ、外はすっかり夏の準備を整え終わっている。ご多分に漏れず、今日もひどく暑い日だった。
そんな日に――おあつらえむきにこの授業が重なれば。
たいていの人間ははしゃぐのではないだろうか。少なくとも香穂子ははしゃいだ。
そしてその結果が、重い身体と軽い腹だ。己のうかつさを泣きたい。嘆きたい。呪いたい。
午後の授業の存在をすっかり忘れていた自分自身を責め、めいっぱいブルーになっていた香穂子に、声が降りかかった。
「ああ、日野さん」
「あれ、香穂ちゃん?」
香穂子が俯いていた顔を上げれば、そこにはこちらを見ている先輩たちの姿があった。
音楽科3年B組、柚木梓馬、そして火原和樹。
親友どうしである彼らは、香穂子とともに音楽コンクールに参加したメンバーのうちのふたりだった。
「こんにちは、柚木先輩、和樹先輩」
へにゃ、と笑ってとりあえず挨拶してみせたものの、自分でも力が抜けた笑顔になったと思った。
それに気づかない彼らではない。
柚木は不思議そうな、そして少し心配そうな顔をし、火原は目に見えて慌てた。
「どうしたの? 元気がないみたいだけど」
「な、なんかあったの? おれで良かったら話聞くよ!」
香穂子はやはり弱く微笑んだ。だって、理由それ自体はたいしたものではないのだ。
それなのに、彼らに心配をかけるほど深刻にとられてしまうような笑顔しか作れない自分が情けなかった。
「いえ、ちょっと疲れてるだけで……」
「疲れてるの? どうして?」
首をかしげる火原に、何か気づいたらしい柚木が言った。
「日野さん、髪の毛が濡れているね」
「あ、ほんとだ! ってことは、ひょっとして」
大量にパンを抱えたままなので、納得したと手を打つことは出来ないが、火原も思い至ったのだろう。
香穂子がこれほどまでに疲れている、その理由に。
「さっきの授業、プールだったの? 香穂ちゃん」
「はい、そうなんです」
香穂子は頷いた。
火原の視線は香穂子のピンク色の額や鼻の頭、頬を移動して、首、セーラーの開いた胸元、腕、足を辿る。
「そういえば、肌もちょっと赤いね。日焼けしてるみたい」
「火原、どこ見てるの」
「えっ、あっ!」
柚木にたしなめられて、火原はようやく己の視線のぶしつけさに気づいたらしい。
「ご、ごめん香穂ちゃん! 今のちょっとセクハラっぽかった!」
くすくす笑って「いいですよ、気にしてませんから」と言うと、火原は安心したようにほっと息をついた。
「わたし、泳ぐの結構好きなんです」
「へー、おれらは水泳の授業は選択だからなぁ」
「僕も火原も、水泳はとっていないんだよ」
柚木は長い髪をかきあげた。
彼はともかくとして、火原が選択していないというのは香穂子には少し意外だった。
そう香穂子が告げると、火原はそう? と笑った。
「和樹先輩、トランクス型の水着がすごく似合いそうだから」
「ははっ、きみの中でおれってそういうイメージなのかあ」
「実際はどうなんですか?」
「え、そうだなぁ……気になる?」
「はい、少しは」
「じゃあ、今度一緒に海にでも行く?」
「え……」
それは、何気なく言われた言葉だったのかもしれない。
けれど香穂子の心臓はどきりと跳ね、次の言葉が出なくなってしまった。
うろたえる香穂子を見かねたのか、柚木が助け舟を出した。
「ほら火原、日野さんを困らせるようなこと言っちゃだめだよ。疲れているんだから」
「えっ、おれまたやっちゃった!? 調子乗りすぎてたね、ごめん」
きみと一緒に行けたら楽しいと思ったんだけど、と弁解する火原に香穂子は何も返すことが出来ない。
違う、きっと違う。彼はそういう意味で言ったんじゃない。
誰とでも仲良くできる人だから、友達として誘われただけで。
香穂子はこほん、と咳をし、和樹先輩は悪くないですと言った。
「すみません、疲れてて気の利いた会話もできなくって。でも、こうなったのは自業自得なんですけど。久しぶりに泳いだから楽しくって、ちょっと張り切っちゃいました」
今日は体育の授業でプール開きの日で、幸運なことに天気にも恵まれて、それで香穂子も開放的になってしまったのだった。
冷たい水は最初こそ身体に鳥肌を作ったものの、慣れれば気持ちよく馴染み、ついつい……泳ぎ過ぎた。
この後の筋肉痛を思うと恐ろしくて仕方ない。けれど後悔してももう遅い。
「わたし、着替えるの遅くて。今日お弁当を忘れてしまったので何か買おうと思ってきたんですけど、ちょっとあそこに飛び込んでいくのは体力的に無理そうです」
そう言うと香穂子は首をめぐらせて、購買の方の人だかりを見た。
今の香穂子がなれるのは、自由の女神は女神でも、せいぜいお台場にあるあの小さい自由の女神像のレプリカぐらいだ。
すなわち、立っているだけ。
じゃあ、と会釈して教室に戻ろうとした香穂子を、火原が慌てて引きとめた。
「ねえ、じゃあお昼一緒しない? おれのパンあげるしさ!」
「え?」
「いいよね、柚木?」
「僕はかまわないけれど……日野さんはどうかな?」
「え、あの」
「ね、そうしようよ! 森の広場あたりでさ、木の下に座ったりして、きっと気持ちいいし、それにキミが一緒にいてくれれば、すごく楽しくなると思うんだ」
火原の物言いに香穂子はたまらず赤面した。
混じりけのない、ただ純粋な好意をぶつけられて、頬を染める他にどう反応しろというのだろう。
「……ダメ、かな?」
香穂子は観念して、ぷっと笑った。
「いえ。是非ご一緒させてください」
「ほんと!? やった!」
パンを抱えてさえいなかったら、おそらく火原はガッツポーズをとっていただろう。





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