_______+臆病な恋の贖罪+___




今日こそは前回の教訓を生かしてはしゃぎすぎないぞ、と更衣室にて香穂子は決意していた。
そう、今から2度目の水泳の授業なのである。
「何神妙な顔してんの、香穂。あんたの大好きなプールでしょ」
「菜美ちゃん」
下から顔を覗き込んできた親友に、香穂子はぎょっとして身体をひいた。
香穂子と同じく普通科の彼女は、コンクールを通して出来たかけがえのない友人であり、名前を天羽菜美という。
水泳の授業は1組と2組合同で、だから1組の菜美と2組の香穂子は自然と行動を共にすることになる。
「それはそうなんですケド……でも、わたしは決めたの」
「はぁ?」
「今日はほどほどにしとこうって思って」
「ああ、なるほど。そゆことね」
前回、グロッキーになっていた香穂子を「大丈夫?」と心配していた菜美だから、すぐに思い当たったらしい。
「そゆことです」
そう言って香穂子は着替え始める。
「でもさぁ、あの後役得だったんでしょ、香穂」
「……何が?」
「お昼よ。柚木“様”と、火原先輩と一緒だったらしいじゃない」
「えっ、なんで知ってるの!?」
「ふふーん、早耳天羽さんを舐めちゃいけませんぜ。――――なんて、普通に目立ってたから皆知ってるよ」
「そ、そうなの?」
「柚木先輩はいわずもがなだし、あんたも火原先輩もいまや有名人だからねー。噂は色々入ってくるよ。ま、有名税ってやつ?」
「そんな税金払いたくないよ……」
「嫌なの? わたしゃてっきり喜ぶとばっかり」
「なんで?」
「だってうちの普通の生徒なら、失神もののシチュエーションだよ。3−Bのプリンス二人と噂になるなんて」
「プリンスって――――柚木先輩はともかく、和樹先輩ってそんなイメージじゃなくない?」
「甘いな。火原先輩、あのコンクールですごく人気でたんだよ。もともと顔はかっこいいし、柚木先輩とセットでおいしい」
「はぁ……そういうもの?」
「そうそう。あんた気をつけなよ、刺されないように」
「やめてよー、おどかすの。わたしと先輩たちは、別にそんなんじゃないんだし……」
「えっなに、別に本命がいるの!? 誰誰、思わぬところでスクープがっ!!」
「ええっ!? なんでそうなるの!?」
「違うの?」
「違います」
きゅ、とまとめた髪を水泳キャップの中にしまいこむと、香穂子はきっぱりそう言った。
その背中に強烈な視線を感じて振り返ると、親友が首筋を凝視していた。
「香穂、それひょっとして……」
「それ?」
「それ」
菜美は香穂子の身体の一点を指差している。
虫でもついているのか、だったら嫌だなぁ……とおそるおそる首の右側に手をやると、そこに手ごたえは何もない。
不思議に思って首をかしげた。しかし菜美の目の色は変わらない。いったい何があるって言うの。
「なんにもないじゃない」
「鏡見てみ」
こっち、と鏡の前に連れて行かれ、初めて香穂子はそれを目にした。さっきまで髪で隠れていた部分に、くっきりと赤い痕。
うわ、と思わず叫んでしまい、今度は香穂子もさすがに菜美が云わんとしたことがわかった。
「ふーん、そおいうお相手がいるんだ、それじゃあ噂も喜ばしくないはずだよねぇ……」
「ち、違うの菜美ちゃん、違うんだって」
「それにしてもさぁ、一言くらい言ってくれたってさぁ……寂しいなぁ、友達だと思ってたのに」
「だから、ね」
「で、相手は誰なのよ。やっぱコンクール参加者? あの二人以外っていうと月森君? それとも土浦? 大穴で志水君、とか……あ、まさか金やんだったり!」
「菜美ちゃんっ!!」
香穂子の大声に驚いたのか、菜美はぴたりとしゃべるのをやめた。
「……違うの」




「お姉さんにいたずらされたぁ!?」
素っ頓狂な菜美の声が響く。
無理もない――――彼女は先ほどまで香穂子の恋人の存在を疑っていなかったのだから。
大穴も大穴、香穂子の姉の仕業だとは思いもよらなかったに違いない。
「……うん」
真相はこうだった。
昨日、酔って帰ってきた姉を、玄関で出迎えたのが香穂子だった。
千鳥足の姉を寝室に運ぶべく肩を貸してやったのだが、そのときに酔っ払いの悪戯心が働いて、あろうことか姉は妹の首筋にキスをしていたらしい。
香穂子は風呂を終えてパジャマに着替え終わっていたから、それがまさかこんな痕になっているとは、先ほどまで気づきもしなかった。
「なーんだ、艶っぽい話じゃないのか。残念」
「なんで菜美ちゃんが残念がるの。ねぇ、万が一わたしに彼氏が出来ても、記事にするのはやめてくれるよね?」
「えー……」
「信じてるから」
菜美は不満そうに口を尖らせていたが、香穂子がそう言うとおとなしく引き下がってくれた。
「でもさー、あんた今日のプール見学した方がいいと思うよ」
「なんで?」
「実際は違っても、周りは誤解するって。ただでさえあんたもてるのに」
「わたしが? 何言ってるの、誉めても何にもでないよ」
「あんたこそ何言ってるの。さっきも言ったけど、コンクール参加者は今旬なの。あんただって告白されたことぐらいあんでしょ」
「ないよそんなの」
「はぁっ!? マジで!?」
「マジです」
「うっわー、それは予想外だった……私はてっきり」
「てっきり?」
「ヴァイオリン・ロマンスのひとつやふたつ起きてるものと」
「ひとつはともかく、ふたつ起きたらまずいでしょ」
あはは、と香穂子は笑い飛ばしたが、菜美は真面目な顔で言った。
「ねぇ、ほんとにこのまま授業受ける気? やめといたら?」
「でも、もう着替えちゃったし……わたしが着替えるの遅いの知ってるでしょ? 今から制服に着替えなおしてたら完璧遅刻だよ」
「うーん……まぁ」
「それに、やましいことなんて何もないんだし。皆も虫刺されだと思うかも」
「そおかなぁ……」
「単位落としたくないし。ね、もう行こ? 平気平気、大丈夫だって」
「訊かれたらどうすんの?」
「え、正直に答えるよ?」
無邪気な香穂子の返答に、菜美は脱力する。
はぁ〜……とため息をついて額を抑えるそのわけも、この目の前の少女はわかっていないに違いない、と香穂子を見て思う。
果たして香穂子はわかっていなかった。
コンクールを通して一躍有名になった今の自分がどれだけ衆人の注目を集めているか、それを。




NEXT


BACK