_______+臆病な恋の贖罪+___




程よく身体を動かした後の心地よい疲れが身体を満たしている。
授業を無事に乗り切り、シャワーを浴び終わった香穂子は、しかしプール用のビニールバッグを前にして立ち尽くす羽目になった。
「…………」
「香穂?」
「菜美ちゃん……」
立ったまま動こうとしない香穂子に、菜美は眉をひそめて尋ねた。
「どったの?」
「ソックス、が、ない……」
「はぁ!?」
「紺のハイソ。確かにここに入れておいたはずなのに……ない」
ほら、とバッグの中身を見せる。
「ちょっと、それって盗られたんじゃないの」
「だ、誰が」
「誰がって……だから言わんことじゃない。勘違いした王子連中のファンの嫌がらせか、それともあんた自身のファンか」
「最近こういうことなかったから油断してた……やられた」
「あんた、やっぱ前からこんなことあったの?」
「うん、でもだいぶ減ってきてたんだけどな」
憂鬱そうにため息をつく香穂子は、その割りにはこんな状況に慣れているようで、あまり動じていない。
少なくとも菜美の目にはそう映った。
「ソックスだけ? 他に盗られてない?」
「うん、他は大丈夫みたい。犯人にも少しは良心があったってことかな」
「あんた、呑気だねー。もうちょっと慌てなよ」
「え、これでも慌ててるんだよ。ハイソが一足減った、ショックー、とか。500円返せーとか」
「見えないよ。私に見えるように慌てな」
「あはは、何それ」
「親友として心配してるの! なんかあったらすぐ私に言いなね? いい、約束」
「……わかった。ありがと、菜美ちゃん」
本気で言ってくれていることがわかったから、香穂子は素直に頷いた。




結局香穂子はそれからの授業を靴下なしで受けることとなった。
星奏学院は全館土足なので、素足に革靴はなかなかつらいものがある。靴ずれを起こしそうだ。
何も知らない友達などからは、「涼しそうでいいねー」などと言われたが、香穂子は苦笑するしかない。
確かに涼しいには涼しいが、同時に心の中も涼しい。菜美に言ったことに嘘はなかった。
これでも香穂子は香穂子なりに落ち込んでいるのだ。それにやっぱり、むかむかする。
今度から自衛しよう、手始めに今日、帰り際に鍵を買っていこう。
放課後、そんなことをつらつらと考えながらヴァイオリンを弾く。
すると当然、ちっとも熱のこもらない演奏になった。
屋上で1人きりでよかった、と思う。こんな演奏を人に聴かせられたものではない。
と、思ったそばからドアを開ける音がして、彼女のよく見知った人物――――柚木梓馬、がその後ろから姿を現した。
そりゃあ屋上は学院のものであって、香穂子のものではないし。
もっと言うならここは音楽科校舎の屋上であって、普通科の香穂子よりよほど音楽科の生徒の方が来るのが当然であるし。
ため息は風にかき消された。
「どうしたの日野さん。演奏にいつもの力が無いね」
「柚木先輩……」
黒モードではない。ということは。香穂子は柚木の後ろに目を凝らす。
「やっほー香穂ちゃん。おれもいるよ」
ひょっこりと顔をのぞかせたのは、火原和樹。
「和樹先輩。どうしたんですか、お二人で」
「練習に来た――と言いたいところなんだけど、柚木がね」
「柚木先輩が?」
香穂子と目が合って、柚木が微笑んだ。火原は続ける。
「香穂ちゃんの音が、なんか曇ってるっていうから。おれもそう思ったし、心配になって」
「聴こえてたんですか?」
目を丸くする香穂子に、柚木は言った。君の音ならよく聴こえるよ、と。
そのセリフに慌てたのは何故か香穂子ではなく火原で、香穂子はそんな二人を不思議そうに眺めた。
さらりと柚木の髪がなびく。
「で、原因は何?」
「え」
「音が曇っている、その原因だよ。また水泳の授業のせい? それならいいんだけれど」
なんと答えたものか。ある意味、そのせいといえなくもない。しかし……。
ひょっとしたら彼らのファンのせいかもしれないし、それを言えば彼らは(特に火原は)気に病んでしまうだろう。
香穂子が黙っていると、柚木はほぅ……とため息をついた。
「僕たちでは力になれないのかな……悲しいね、火原」
「香穂ちゃん、つらかったらいつでも頼っていいんだよ! ほらおれたち、先輩だし!!」
香穂子は。
なんだか胸が詰まって、俯いてしまった。
「ど、どうしたの!?」
「いえ……」
あせる火原に、香穂子は顔を上げて、にっこりと笑った。
「わたしは幸せものだな、と思って」




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