志水が学内音楽コンクールに選ばれたのは、まだ入学してそれほど経たない春のことだった。
他人にあまり興味のない志水は、人の顔と名前を覚えるのが苦手で、クラスメートすらほとんど覚えきれていない。
そんな頃だったから、当たり前のように他のコンクール参加者の名前もうろ覚えで、金澤の名前を間違えて呼んで訂正されることもしばしばだった。
だから香穂子に話しかけられたときも、とっさに名前が出てこなかった。
ただ普通科からの異例の参加者で、ヴァイオリンを弾くのだということだけは知っていた。
志水が誰かを認識するときは、名前よりも楽器やその人の音が先についてくるのだ。

――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪――


放課後、彼女が正門のファータ像のそばで演奏しているのを見かけたとき、志水は何故だか足を止めていた。
ふと胸を掴む。心臓が震えてしまいそうだったから。
不思議な感情があった。生まれたばかりの音楽、そう、音楽の生まれる瞬間に立ち会った気がした。
卵の殻を破って孵った音楽と言う名の雛。
あの人は誰だろう。そんな音を出すあの人は誰だろう。
確か……確か……。
志水が自分をじっと見ていたことに気づいたのか、彼女は頬をうっすらと染めながら(あるいはそれは西日による錯覚だったのかもしれない)、声をかけてきた。
「どうしたの? 変……だったかな?」
「いえ」
志水はそう答えたが、変というなら変だった。彼女の演奏はたどたどしく、技術もまるでなっていない。
けれどどこか、それだけではない何かがあった。いうなれば、可能性、だろうか。
今はまだ雛だが、これから自由に成長してどこまでも高くへ飛んでいくこともできると思わせた。
「先輩は、普通科からの参加者ですよね」
「うん。日野……日野香穂子です。よろしくね、ええと」
日野香穂子。彼女は日野香穂子というのか。
「志水桂一っていいます。楽器はチェロです」
「私はヴァイオリンなんだ……って、知ってるよね。今弾いたの見られてたし」
「はい」
「え、と。志水くんは何をしてたの?」
「小鳥の歌を聴いてました」
「……そっか」
あまりに素直な笑顔だった。
普段志水がこの手のことを言うと、周りは怪訝な顔をするのが常であるのに。
香穂子はきっとそのままを受け止めてくれたのだろう、そしてそれが志水の心を少し温かくした。
「はい。この学校、木が多いでしょう? 小鳥も多いんです。それで、よく歌ってるから」
香穂子は目を閉じて、耳を澄ます仕草を見せた。
「小鳥は――」
志水も倣って目を閉じる。世界はこんなにも音で溢れている。
「小鳥は、誰のために歌っているんだろうね?」
誰かのために歌う? 志水は少し首をかしげた。
それは子猫に似ていたので、離れたところで女生徒にこっそり可愛いと囁かれていた。
音楽とは、そこに普通に存在するもので、特定の誰かのためというよりは、あまねくすべてのもののため、と言った方がいい気がする。
それに歌うのは――志水がチェロを弾くのは自分が弾きたいからだ。
胸の中から湧きあがる音を外に解放してやりたくて、表現したくて。
だから答えた。
「誰のためでもないですよ。きっと、歌いたいから歌うんです」
香穂子はやっぱり笑って、再びヴァイオリンを構えた。
あのときの志水は、香穂子の質問の意味を知らなかった。その笑顔の意味も。
今ならわかるのに。


――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪――


NEXT  BACK