それから、彼女をよく見かけるようになった。
自分が香穂子を目で追っているからこそよく見かける気がするのだということに、志水は気づかなかった。
ときには志水が弾いているところに香穂子が居合わせることもあった。
そんな時、きまって香穂子は志水が弾き終えるまで黙って聴いていてくれるのだった。

――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪――


志水は自分の音楽に納得がいかなくなっていた。
一曲を弾き終えても、達成感より先にどこか違和感が付きまとう。
楽譜に書かれていることを忠実に再現できる技術は大切だ。
作曲者が意図したところを表現しきれるように、何度も何度も練習すること。
しかしふと、その音楽の方向性に疑問を持ったのだ。
楽譜を何時間もなぞれば完成度は上がる。けれど何かが違うのだ。
唐突に手を止めて香穂子を見ると、香穂子は遠い目をしていた。まるで空に小鳥を探しているような。
志水が弾いていたのは音楽科棟の屋上で、香穂子がいるのはすぐ側のベンチ。
距離は近い、けれど確かに隔たりがある。その薄い膜のような存在を志水ははっきり知覚した。
それがなんなのか、何故なのかまではわからなかったけれども。
香穂子がゆっくりと口を開いた。神託を告げる巫女かなにかのようだった。
「志水くんの音は――」
香穂子の目は志水を見ていない。志水は透明になって、香穂子はその中にある音楽を見ている。
「志水くんの音楽には、"人間"がいないよね」
「え……?」
「志水くんの音楽は、ヒトは誰もいない。とっても綺麗で……完璧に整ってて。小さな世界は澄みきってる。そんな感じ」
志水は困惑した。
「ええと……よく、わかりません」
「うん、ごめんね? 私もどう言ったらいいかわかんなくて、変な言いかたしちゃって……。だいいち私なんかが偉そうに言えることじゃないよね。でも私、志水くんのチェロの音、すごいと思うよ。好きだな」
それきり香穂子は口をつぐんでしまい、志水はといえば、香穂子の言葉を反芻していた。
香穂子に好きだと言ってもらえたことは、志水の中でものすごく大きなことのような気がした。
けれど、自分では自分の音楽がなんだか満足いかないのだ。このままでは駄目なのだ。
それなのに、香穂子は今の志水の音楽でいいのか?
技術と練習。その他に、いったい何が足りないというのだろう。
志水は知りたいことは自分が納得するまで尋ねてみる性質だった。
「先輩」
「ん? なあに?」
質問はちょうど目の前にいた香穂子に向けられた。
いや、そこにいたからという理由だけで香穂子を選んだのではない。香穂子が良かったのだ。
「先輩の音楽は……どんな世界ですか? 先輩は、自分の音楽、好きですか?」
香穂子は数秒黙ってから、思いのほかしっかりした口調で言った。
「私は……まだ世界として確立してない気がする。ずるい答えだけど、だからわからない」
「まだ?」
「まだ。これから素敵な世界を作っていければいいな、とは思うけど……うん、やるだけのことはやらなくちゃ」
香穂子の答えは志水が香穂子に対して感じていたことと似ていて、なんだか嬉しかった。
「僕も……そう思います」
香穂子は生まれたばかりの雛だ。
「それと、僕も先輩の音楽、好きです」
志水はふわりと笑った。心から出てきた微笑だった。
志水の世界は美しく整えられており、そこには誰もいないのだろう。
これからたった一人の訪れを待つために、整えられ開けられているのだ。
「だから」
たった一人――――それは。
「ヴァイオリンを弾いてくれませんか。ええと、できれば一緒に……」
香穂子の音は日々美しく育っていた。
命の温かさそのものの音のようで、志水はそれがどうしても気になって仕方がなかった。
よくわからないけれども、とにかくひっかかるのだ。
まだよちよち歩きの雛、つたない技術、たどたどしい音、なのに意識の隅にとどめておかずにはいられない音。
いつか飛ぶところが見たい。きっと、どんなに美しいことか。


――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪――


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