金澤が彼女を意識し始めたのは、コンクールの第一セレクションで舞台に立つ彼女を見たときだった。
それまでは、ただの一参加者――それもかなり気の毒な経緯でそうならざるを得なかった、巻き込まれただけの普通科――としてしか認識していなかったというのに。
ライトを浴び、ヴァイオリンを持った彼女の、その存在感。鮮やかな音色。
魔法の力を借りているとしても、これは。
自分の半分ほどしか生きていない、幼い少女が、女に見えた。
ステージ上の彼女は、女そのものに、見えた。
……信じられるか。
心のうちで愕然とそうつぶやきながらも、金澤は、一瞬ですら彼女から目を離すことの出来ない自分を知った。
心に小さな火種が生まれ、それは金澤を内側から少しずつ、少しずつ暖めていくのだった。
忘れていたはずの、違う、殺したはずの、死なせてしまったはずの感情がまた芽吹こうとしている。
(おいおい、お前さんも懲りないなぁ。あんなにひどい目に合っておいて)
驚きとともに、金澤はそれを否定しようとした。はっきり形になる前に打ち消してしまえ。
それは年齢差のせいでもあったし、なにより教師というやっかいな自分の立場のせいでもあった。
なにせ彼女、日野香穂子は、彼の勤める高校の生徒なのだから。
だからそれは、あってはならないことだった。


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「金澤先生?」
「……お」
呼び止められて振り向けば、すぐそばまで香穂子が寄ってきていた。
金澤は内心の動揺を綺麗に覆い隠して、当たり障りのないいつもの表情を向ける。やる気のなさを装った、うわべだけの笑顔。
「お前さんか。何か用か」
「用がなきゃ話しかけちゃいけないんですか?」
「いんや。別にかまわないけどさ。練習はいいのか、と思っただけ」
「今日はここで練習しようと思ってきたんです。そしたら先生がいるのが見えたから、聴いてもらうのにちょうどいいかなって」
「それを用事とは言わないのか?」
「あ、そうですね。言うかも」
香穂子は微かに笑った。
この少女は、瞳の中のその奥を覗き込むように相手を見て話す癖があった。
金澤はそんなところも好ましいと思うと同時、苦手だという気持ちも否定できなかった。
見透かされそうで。まるで高潔な神の前に、自分の醜い部分全てを曝け出しているようで、いたたまれなくなる。叫びだして逃げてしまいたくなる。
「しかしお前さん、屋上が好きだね。しょっちゅうここにいるような気がするが」
それがわかっていて、金澤もここに来るのだ。手に負えないぜまったく、と自分自身に毒づく声は香穂子には届かない。
「ここは、他の場所より空が近いから」
そう言って香穂子は柵の向こうに視線を投げた。その目に映る景色を、金澤は美しいと思う。そして、少し寂しい。
音楽科校舎の屋上、さらに階段を上った今二人がいる場所。
あまり人が来ることのないここは、喧騒から離れたいときにはうってつけだった。
「少しは人前で演奏しておいたほうがいいかもしれんぞ」
金澤の言葉に、香穂子は遠くに向けていた視線を戻した。その目がひたと金澤に据えられる。
視線を真っ向から受け止める羽目になった金澤は、努めて冷静にしようとして、そして失敗した。
苦笑、ではなくて。本当に『苦しそう』に、香穂子は笑ったのだ。
「柚木先輩にもそう言われました」
言葉の持つ重みが金澤を突き飛ばし、そして金澤は制御の出来ない感情の渦の中へと落ちる。息が出来なくなる。
口を開けようとして、今までどうやって息をしていたかわからない自分に気づき、痛みに胸が焼かれた。
その正体は。


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