真っ直ぐに射抜く目は、まるで柚木の奥深くまで入りこむかのようで、平静を装うのに努力を要する。 けれどそんな風に物怖じしない香穂子だからこそ、柚木は自分を曝け出せるのかもしれなかった。 「柚木先輩」 柚木を呼ぶ香穂子の声はいつも、一粒落とした砂糖のようにほんの少しだけ甘い。 だが今日のそこに混じるのは甘さではなく、もっとなにか別のもの。 「なに?」 返した声は自分でも驚くほど、ぞんざいで冷たい響きを持っていた。 香穂子がひゅうと息を呑む音が聞こえたようで、柚木は目を細めた。 「……わたし、何かしましたか」 「どういう意味かな?」 変わらず温度のない声が出て、柚木は自分がひどく不機嫌なのだということに気づいた。 そうだ、今自分は苛立ちを抑えられないでいる。その原因は目の前のこの女。 傷をつけてやりたい。柚木を傷つけたこの身の程知らずの少女に、自分が受けたそれの何倍もの傷を。 悲しいのか、それとも不安なのか、わずかに歪んだ顔で必死に言い募る香穂子は、柚木の心中を知らない。柚木がそうと気づかせない。 「先輩に対して、なにか失礼なことでも――知らないうちに」 知らないうちに、だって? 怒りとともに笑いがこみ上げてきて、柚木は答えを返さず、ぞっとするほどに美しく冷たい笑みを浮かべた。 最初に違和を感じたのは、いつだっただろう。 ――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪―― 屋上でばかり弾くことの多かった香穂子に、「もっと人のいるところで演奏しろ」と言ったのは、柚木だった。 次の日、香穂子はそれを忠実に守ったのか、音楽科の生徒がよく来る講堂で『夢のあとに』を披露していた。 たまたまそこに居合わせた柚木と志水は、演奏にこめられた、気を抜けば引きずられそうになるまでに強い感情の奔流に圧倒された。 音。音。音。きっと耳をふさいだとしても、どこまでも追いかけてきて巻き込むだろう、溢れる音。 自分の感情に他者を同調させ、拒むことを許さない。 それはおそろしく傲慢なことだ。傲慢で、危険なことだ。 「先輩、まるで泣いているみたい……」 ぽつりと呟かれた志水の言葉が、やけに耳に残って、なぜだか柚木のこころに波紋をもたらした。 全て捨ててしまえ、失ってしまえ、それを恐れるな――香穂子の音はそう言っているようで、柚木には好ましい解釈だったはずなのに、 刺さった奇妙なとげは抜けない。 夕暮れ時に正門前で金澤と香穂子を見かけたあの日、柚木はもう少しでそのとげの正体を見極められるだろうという予感をもった。 その通り、それが決定的になったのは、たった2日後で――柚木は音楽室にいた。 香穂子はまた『夢のあとに』を弾き、この間と同じように激しい感情をぶつけてきて、周囲の生徒はただひたすら与えられる痛みをこらえることしか出来ないのか、誰も一歩も動けなかった。 柚木にとげを埋め込んでいくその演奏を、今日は金澤も聴いていて、そして曲を聴き終わった彼の様子は、明らかにおかしかった。 それに気づいた音楽科の生徒が金澤に問い、香穂子が彼を気遣うのを、柚木は吸い寄せられるように目に入れて、そして唐突に理解した。 香穂子の音は、柚木のためだけの音ではないのだということを。 今までそう錯覚していたのは、香穂子の音が、救われたいと思っている者に語りかけていたからなのだ。 柚木の渇望がより大きなものだったから、それに見合うだけの音が柚木に振り分けられただけで、ただそれだけで、それは柚木一人に向けられているのと同義ではない。 だから、金澤にも香穂子の音が届く。香穂子の音は全ての世界を満たす、柚木だけのものではありえない。 現時点で、香穂子の一番は柚木だ。己惚れでもなんでもなく、柚木は確信していた。 けれどそれは唯一ではないのだ。 この先もずっと、香穂子の目が柚木一人を探し続ける保証はどこにも見当たらず、柚木はとげがもはや抜けないだろうことを知った。 香穂子はいつ気づくだろう、彼女のそばにいて、そして彼女の音を求める柚木以外の存在に。 そのとき彼女の音はどこに向かうのか、それを思うと柚木のとげはますます深く肉を抉った。 思い知らせてやりたい。このとげがどれほど柚木を苦しめているか。 「日野さん」 そう呼ばうと、香穂子は目をそらさないまでも、その顔はつらそうに歪められた。 「せんぱ――――」 「僕は君を気に入っていたから色々と世話を焼いてしまったけれど、いらぬおせっかいだったみたいだね」 「そんな」 「もう余計な真似はしないから安心して。これからはゆっくりと自分の練習に打ち込んでね。コンクールではライバルだけれど、僕は君を応援しているんだよ」 唇が震えて、どうして、と動いたのを見届けてから、柚木は踵を返し、そして二度と振り返らず屋上を去った。 香穂子の目が背中に突き刺さるのを知りながらも、決してもう一度振り返ろうとしなかったのだ。 ――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪―― NEXT BACK |